理想の追求としての平和賞2009年10月10日 19時58分00秒

草刈・刈払い
いつも疑問を感じます。写真のように、田んぼの周りの草刈は刈払機で刈る人がほとんどです。刈ってもまた生えてきます。しょっちゅう、この作業をやらねばなりません。除草剤という手もあるのですが、それはなるべく避けなければなりません。そうして圃場を農作物の生育に好ましい、つまり、収穫を極大にすべく保たなければならないのです。でもそのために化石燃料を消費し、COを排出し、時間と労力を「無駄に」浪費し(重複した表現)疲弊と荒廃を少しずつ進めることになるのです。どうしても、「無駄」ということばしか浮かんでこないのです。

現実の行為とはそういうもの、実際の生産とはそういった繰り返し、と悟ったような考えに思い至ります。でも、それで確かな進歩があるでしょうか。功績、業績、成果。そういう結果をもたらすことははたして、それら以前よりもポジティブに、増大した実りをもたらしたでしょうか。損益計算、あるいはバランスシート、はたまた統計的な収支などを計算して合計してもどの時点で、あるいはどこからどれだけ見てそれらがよくなった、利益になったといえたでしょうか。ゼロ・サム、とかつていいました。どんな事象や行為活動を通しても、結局は何も得られなかった、そういう終結となるのは必然でしょう。

アメリカのオバマ大統領がノーベル平和賞を受賞しました。何もやっていないのに、と疑問視する意見も多いのですが、私はこれを何よりポジティブに受け止めたいと思います。確かに、ことばだけの、宣言だけの理想の表明、目標の表示に過ぎないのかもしれません。でも、かつてそれを誰が堂々と世界に向けて述べたでしょうか。私たちが、同じ気持ちや考えを共有すること、その実現に向けてささやかではあっても、変わらない、前向きの思いをもって進むこと、それをノルウェーの委員会は託したのです。そして、世界をその理想を求めて変えていく責任はオバマ氏一人にかかっているのではありません。私たちにあるのです。過去の、現在の負の現状をそれによってもとのゼロに戻そうではありませんか。