鳥取地震の発生と続くイタリア地震2016年11月01日 10時05分48秒

10月21日14時07分頃、自家用車に停止中、始めに少し上下に「あれっ?」と変に感じた後、横揺れが4,5回あり、箱形のトヨタ車だったので地震や!とはっきりと認識しました。

その日のテレビニュースには震源は従来の東の断層とは西側の「空白地域」だと報道、西村京大教授はいくつものブロック状のプレートの動きだろう、とのこと、小原東大地震研教授は9月頃から活発化していた「知られていた」従来の地域の動き、とのこと。南北方向である。

中央構造線の西の熊本地震の東方向の変移は西村さんの言う複数のブロックの不安定性を起因とする歪みの北方向への「伝播」が「断層」の「横ずれ」(そう発表されてはいるーI doubt it-)に発生の表出へと時間的に連続した、と推測するのが適切でしょう。地割れの映像や写真は見ても、そやから隠れていた「断層」の「よこずれ」だと断定するのは安易な事務手続きのようで、原因や真因を示すことには至っていない。

昨日、一昨日と報道されたイタリア中部の大地震は直接的な原因は異なっても「一連の」各地の地震の発生と連関のある地表面の変動の以前から動きのある地域への表出だと考えれば理解される現象やないか、とみなされるわけです。

日本とイタリアが大きさ・面積・方向において(+緯度)似通った存在と形成ですよ、と地理の時間に教わった人も多いと信じます。これら『二つの地震』は現在の地表面を中心とした大気の変動を伴う気候変動と平行している、と現状を示した観測値と時間的な変位のグラフを見て理解されるのです。いうまでもなく、科学的に。地球規模を考えるのですから、地球を見てごく小さな狭い「場所」2カ所にきわめて短い「静かな」Durationを挟んで発生した事実に着眼すれば本当の発生原因は真因として自明な記述も可能だと考えられます。観測値に基づいたグラフ化ー事実を表すためにーを試みる。目の当たりにできるのと違いますやろか。実測できれば、と。

悲しい時代2015年09月28日 18時39分44秒

今朝の「おはよう日本」(この番組名に首をかしげる方は多いでしょう)の関東甲信越版(7:45~8:00)でコオロギ相撲を取り上げていました。奇麗だった(失礼!)和久田麻由子アナはとても楽しそうに笑い、突っ込みをいれていましたが、この時代になぜ?と感じられた方は正常な感覚をお持ちだと共感を覚えます。大の大人がまた今になって、 とそのごく最近始めたのも疑念や悲嘆(あるいは慨嘆?)に繋がるのは私だけではなかったと思うのです。子供のころ、田畑や草むらで捕まえてきては同じように子供同士でなさった方も多いと信じます。

今の時期、夜になると(日没後2時間弱後くらい)スズムシと前後して聞こえてくる虫の音と共に私たち自身の心の安らぎに働きかけるように秋の夜の静謐さを「その音色」に増幅させて時空に共鳴させて残響として私たち日本人に社会のある姿を映し出しているかのような感覚を覚えさせます。ここは日本、我々は他ならぬ日本人なのだ、と再認識させてくれます。コオロギより、スズムシの方が我々に好まれる理由です。時折その弦を止め、再開させてより強く、また更に染入らせるように響かせているのは彼らの命のメッセージだと信じるのは思い込みが強すぎるでしょうか。

麻由子さんは若く都会に住まわれているからかもしれません。ただ、私たちの子供のころのコオロギの対戦などの遊びとは異なる今になっての中国流のコオロギ相撲に違和感と共に秋の夜のもの悲しさとは全く異なった現代の悲しい姿、例えば、小さな昆虫の生の儚い命を懸けてつなぐ悲しい旋律を果たしてその企画と日本とは感覚や情感の違う中国直輸入での遊びのなかで語り継ぐ~何か~を見出させることに繋がるとは思えません。知られていたこのコオロギ相撲の突発的な再開はやはりその場限りに留めたいと願います。共に生きる小さな命の生の発露に我々自身の命を映し、見つめなおし祈る我々自身は奏でられる音色と語り継ぐべき命の実存にそれを体に響かせて明日を知る、日本の有様そのままの姿は決して中国流のコオロギ相撲(対戦)ではありますまい。美しかった麻由子さんの空間への投影として受け止めていきたいのです。

カルトや社会悪の形成の手段2014年09月17日 06時09分17秒

カルト集団や奇妙な新興宗教、果てはテロリスト集団まで、その存立を支えているのはその中や周辺・底辺で同居する女性達である、とのフランス2のニュースを見ると、そこにはよく言われる、「洗脳」や繰り返し流されるプロパガンダではない心情や観念形成に平行した刷り込みがあることはしばしば指摘されています。知らない人はいなくても、そこから自ら抜け出て正常で健全な精神と心や体を取り戻すことのできた人はごく少数であることもまた、報道されています。その場面や心情に訴える情緒を揺さぶることばや現実のほんの一側面、あるいは都合のいい写真や映像の一部分により、簡単に騙され、鵜呑みにしてしまって自らをその地や囲われた社会や建物に入り込んでしまった、そんな例はたくさんあるのです。

なにより、日常的に多く見られるのは、テロリスト集団に通底するそれの化けたような姿です。ことばの反復、声のある種の「プロパガンダ」 (Propaganda noir)、ありもしないことをさもあったかのように構成しそのイメージを植え付ける手法、間断的な誤った「情報」の喧伝や「伝言ゲーム」、人と人とのつながりを悪用し束縛する「ささやき」などなど、その手口の巧妙さは恐ろしいほどです。それでもなお、精神や心情の健全さを保つこともまた、私たちがバックボーンとしてもつ、社会を正常に機能させる倫理と論理とその中の道理に基づく人間らしさそのものを失わないよう、そういった悪のプロパガンダに導いてしまう、「正当化」という手法に染まることのない、疑いと拒絶の気概を持つ人々を育てなければなりません。

ひとりひとりの幸福と社会の持続を願うなら、そのようなカルトもテロリストも、あるいはもっと卑近な、変なことを認めないことをはっきりと、何度も話すことです。誤りも繰り返されるとそれに対する感覚をおかしくさせてしまいます。そんな神経回路を作り上げることのないように騙されない思考、つまり理性と知性と悟性を養うことこそ、肝要ではないでしょうか。

外界の怖れ2014年09月15日 06時44分04秒

きのうのことでしたが、電車に乗って目的地へと向かう途中、座っていたら乗り込んできた若い夫婦とその幼いこどもの連れが目の前をゆっくりと歩いて過ぎていきました。そのこどもはしきりに周囲の乗客をにこりともせずにキロキロと見渡していたのです。そして、空いた席、あるいは誰かが譲った席(どちらだったか失念)、に父親がそのこどもを座らせたのですが(おとなしくすわっていられるね、とかなんとか言ったようだ)、数秒後、急に泣き出して、その父親に縋り付いたのでした。大きな声で、ずっと泣き止まないままでした。

その間、乗客たちは乗り込んできたときからのまま無表情で、その親子に席を譲ってあげた眼鏡をかけた中年男性だけがにこにこしていましたが、都会からの電車ではその乗客たちの態度や表情はごく当たり前の光景だったでしょう。ただ、そのこどもにとっては、おそらく、初めての環境であり、その無表情さと冷淡さの混じった列車内の雰囲気はとてつもなく恐ろしい、不気味で耐え難い状況だったにちがいありません。

入ってきたときから、乗客一人ひとりの顔を矯めつ眇めつ見つめていたさまはまさに恐怖の館への第一歩であったのです。父親にしがみつく様子と泣く声の恐怖そのものの響きはそれ以外のなにものでもなかったと感じました。おそらく、推量に過ぎませんが、このこどもはまだ電車という環境に慣れるには相当な時間と体験が必要でしょう。もっと、親しみやすい人々との触れ合いを積み重ねていくことがその前提となるはずです。

脳とヒト2014年08月18日 06時02分58秒

行おうとしているときに外部から何かがあるとそれはその行為や前提となる思考の妨げになります。それの繰り返しは短期記憶を破壊し、あるいはもっとひどいことに、その形成過程を断ってしまいます。これが長く続くと記憶の機能に障害が生まれてきます。これはなにも、「学習」に関わることだけで無く、日常生活におけるさまざまな障害につながって現れるのです。

他人の指図や命令(強要)はそういう障害と密接に関係します。そのある種の「受容」や「従順」は脳の機能にとって著しい妨げとなります。それゆえに多くの人々(あるいはヒトの多く)は抗うのです。それは、意思や自我の対極にあるからでしょう。ただ、それと共に、ヒトの社会の原理的な価値判断や倫理観念は多くの人々に意思や自我と同じ範疇にある「私たち」という集合の中にごく自然に見出されるものです。社会的に、あるいは個々人のよりよい関係に必要で自然に形成されることが期待されるのであればそれには妨げは形成されないでしょう。多くの人々の社会的な教育、つまり形成過程=「人格」の完成に導く時間=はそこにヒトの社会の尺度と価値を求めるのですし、これはまた、脳の障害を低減させ、機能の回復へと導かれるのです。

ヒトの生体としての拒絶反応のひとつの発現としての関係性への抵抗と回避や疎外その統合的な生存に必然的であるといえます。様々な生体反応として現れる種々の症状はヒトの社会の健全な存在に不可欠なのです。多くの人々にとってそれが自然な存在であるわけです。その妨げとなっているのは、その障害になる傷害行為などが多くの人々のヒトとしての精神的な存立に障害となっていることなのです。精神の健全性とは相容れないからです。それ故に、その紛れもない一員にとって責を負うことなど、どこにもないのです。

求めなければ2014年08月18日 05時44分36秒

(いろいろな)注文の多すぎるものごとはその意に反して、何もできあがらないのです。ひとつのものをつくるのに注文が多すぎては中心にはわずかで、残りのほとんどがものの本体のようになってしまいます。本末転倒です。

必要なものは明示的に求めていかなければ為し得ません.求めなければ動かないし、得られない、とは摂理です。

命には必要なのです。それで、生き続けるのです。それは、他者のものでも、奪うものでもありません。でも、注文はゆがめば何もつくれません。早くに本体を得ることです。

台風ハーロン2014年08月10日 06時23分51秒

昨日午後から雨が降り出し、午後3時ごろには「通常の」降雨となっていましたが、その夕方、そして今朝にかけては次第に少雨となっていました。風は少しあるものの、警戒されたほどの大雨とはなっていません。今朝も空自体は明るく、前線と重なったほどには降雨は多くはないのです。ただ、台風の進路の東側にあたるわりには、蒸し暑さとは正反対の涼しさ、いえ、冷たささえ感じられるほどです。昨日も終日、22℃以下でしたし、こちらでは20℃ほどです。

ようやく、この地方の気温と釣り合いがとれてきたようですが、このままの気温の持続はまた、好ましくはありません。まだこちらでは、穂もでておらず、稲の生育に障害とならないか、心配されるからですし、一方、きのうのニュースで見た人も多かったと思うのですが、宮崎県あたりでは、実った(まだ青い稲でしたが)穂が水に浸かっています。それだけ、では判断も推量もできませんが、それだけでもこれからを危惧するには充分な鍵となると思うのです。

この11号を始め、今年の台風は直接的に日本列島に影響を与えています。近年の温暖化の定着傾向から―異変からプラトーに―想像される気候の変化の結果だと知るのは決して的外れではありません。変わってしまった環境と気候の平年化のもたらすさらなる変動と変化の広がりや定常化にこれからを憂うるのは私だけではないと思うのです。身近な測定と観察から注視していかねばなりません。

生きる前提2014年08月05日 06時01分12秒

なによりも、私たちはその存在の人としての生活が人間性に対する基本的な肯定と尊厳にあることを忘れてはなりません。その本質的な意味で、暴力やその形態における威迫、脅迫、抑圧、あるいはあらゆるその文脈での恐怖感からの脱却や救済が必要です。脅かされる何物かがあるのなら、その物理的な回避はとりわけ、弱者に求められます。

また、どのようなそれらの正当化や詭弁論理による是認は私たちは受容できないのです。これは私たちの存在に関わることだからです。暴力や巧妙で狡猾な手口による幻惑や誘い込み等の流布による恐怖感を私たちは手を取り合い、はねつけなければなりません。無知や無垢につけ込む行為から私たちは自由でなければなりません。真意を隠した接近に否、と言わねばなりません。

生きるために2014年08月05日 01時41分58秒

もし私たちが何かに束縛され、行動の自由を妨げられたり、心の自由を奪われたりする、およそこの「自由」なはずの日本においてあるはずのない非現実的な環境にあるとしたら、私たちにとってそれは何にも増して堪え難い非現実的な世界でしょう。もしそれが、日常的なある種の「ことば」によって作り上げあられるとしたら、それは伝達や意思疎通そのものを奪うことになるでしょう。それはまた、一方の側の「人間」であるはずの「力」をもった側にそれ自体を否定することにほかなりません。

どのようなことばであれ、話したり記したりする手段に否定を表す表現に縛られるとしたら、それ自体でその表現を不能としてしまうのです。ですから、その話者、発言者自身、その「自由」からの逃避を自ら求めることになるのです。かつて、エーリッヒ・フロムはその著書により、ナチスのその存在と束縛の非人間性を一方で指摘し、支配の反支配的な関係に唯々諾々とすることに私たち自身の自由の放棄を投射したのだ、と嘆いたのです。伝えるべきことば、そのための手段とその無意味さにそれ自身の言及する不能さと不毛さを見ることができないとしたら、その生を自ら否としてしまうのです。

生きるために、私たち自身はその生まれながらの自由をそのことばによって売り渡してはなりません。他者に対して発することばに否定を常に含む表現と言動にその話者自身はその生きる自由を自ら否定しているのです。ことばはそこに意思をもって伝達を担い、私たち自身の精神を具現化する手立てであるのですから、自らのことばにその否定を求めたとき、そのことばは自由を無くし意味も目的もなくなってしまうのです。

恋は大吉2014年03月23日 21時59分02秒

県社社殿
きょうも晴れた午後、そう遠くない、古くからある神社にお参りに行きました。誰も居らず、静かな社でおみくじをひくと、50円くじは大吉、願い事は思いの儘。恋みくじもまた、大吉、情熱の恋、でした。

彼岸明けには私の恋も神様のお導きとなると信じます。待ち人来たる、そのことばを信じたい。

何より、人が人を呼び、人が人に出逢う。そのご縁こそ私たちの社会の礎です。誰にも妨げることなどできません。幸福追求の権利です。