近くて遠い山 ― 2013年12月01日 20時34分48秒
途中の崩壊場所では手前での大きな迂回と急斜面の登り道を新たに作り、分岐からはしんどい急登で、ちょうど12時前、長い歩きでした。でも山頂からは360℃の眺望で、天候もよく、やはり、前日に山歩きを決めたのはとてもよい選択でした。実に、7ヶ月ぶりでしたし、山の中はわたしにとってこの上ない心地よさを与えてくれ、山を歩くことで気持ちも良い方向にむかうと信じています。
下りも道はこのての山としては大変で、整備はこれからもかかせない、という、名の知れた山の割に歩く人は少ない、という現実と切り離せないというこの現状をどうすればいいのか、この町の人々共々、考える必要がありそうです。とくに、林道の崩れや荒れ様は早急な対策が求められます。とにもかくにも、好天で穏やかな初冬の山歩きは少し、健康を取り戻すきっかけとなったようです。人権週間 ― 2013年12月04日 21時08分47秒
ただ、それでもなお、現在の日本社会や小さくは地域社会、そして職場や学校などをみるとまだ、いえ、まるで逆戻りしたかのようにその人権の必然性がないがしろにされる現実をしばしば目の当たりにし、時として身に降りかかることさえまれではないという現状の中にさらにその人権を主張する意義を再確認し、劣化する一方のこの社会をよくするという雲をつかむような行動にもでようという気持ちになるのです。
勤務校では、この人権週間に合わせ、『「思い込み」で人権をないがしろにしてはいませんか』というような内容のモノクロポスターを掲示しています。それはまさに、この学校に於いて蔓延っている反社会的・非人間的な態度と行為を引き起こしている原因の大きな部分だからです。教師から示そうとも耳を傾け、あるいは思考し転換していく姿勢や決意を教師自身と生徒達個々人が持たなければ無意味です。何より、かけがえのない存在として、その命をそこなう人の道に反した振る舞いや言動をしない、させない、広めない、といった強い信念を醸成させていかなければなりません。私たちに、二度目の人生はありません。進む人間の劣化 ― 2013年12月05日 20時01分02秒
また、狭い歩道上、傍を車がびゅんびゅんと通っています。その歩道は学校帰りの中高生なども含めてしばしば行き交うところに、3分の2は塞いで並んで自転車を止めて話をしていたのです。邪魔だというだけでなく、他の自転車の通行にも暗いので極めて危険です。傍には自動車ですよ。わたしの行き帰り、15分以上あったかもしれません。
荷物を持ってきた運送屋。帰りに、少し離れてから一方的にわたしの気に掛かる内容(嫌がらせ)のことばをなげかけたのです。お客に対して。こちらは、届けてくれてありがとうございます、といった、そのすぐ後からです。何を考えているのでしょうか。しかも、背後から、という卑怯さです。それも、一方的に。東京都の猪瀬知事は、言い訳ばかりを一方的にいっています。悪いことなどしてはいません、と。最初から、よくないことはわかりきっているのでしょうに、後でへたな言い訳ばかり。
総じて、昨今、明らかに悪い行為や言動をしでかしておいて、自己弁護どころか、被害者や弱い絶対少数に対して、一方的に反対に責め立てる言動の強弁を繰り返す輩が多いことは良心を持つ人たちなら、すでにはっきりと気づいていると思います。わたしは政府の回し者ではありませんが、小中学校の道徳なら、真っ先に課題として取り上げられることでしょう。それをすぐに忘れ、高校に入った途端、わるいおとな達に追従して悪に染まってしまうのです。右へ倣え、は悪さや悪意や人として恥ずべき、蔑むべき行為言動に付き従うことです。とくに、それが弱いものいじめへと向かうのです。その対象、つまり標的はクラスメートにとどまりません。教師だろうとなんだろうと、見境なしです。猪瀬知事ではありませんが、決まって、そういった者たちは、「怖いから」、とか、「一緒にやらないとムシされるから」とかいった臆病者の言い訳ばかりです。情けない、で済まされないのは、そのために被害を受ける人がでることです。人間として、決してしてはならないことだ、という基本的な自覚と思考と自立した自己の確立ができていないのです。恐ろしいことです。
社会の自律的な機能とは、ひとりひとりの人間の独立した人格がその存立基盤だとされ、いえ、当然視され、あたりまえに一人の人間が尊重されることです。ことさらに何も行わないでも、その機能の働きによって社会の仕組みや地域社会、あるいは社会全体に行き渡り、人間が人間らしく、互いを気遣い、それぞれが自由に、かつ、自身を律するように生き続ける空間を持ち、それを維持することなのです。その正反対の方向に急速に進みつつ有る様に思えてなりません。どこか、人間の劣化が進む、そんな低劣で愚劣で卑劣な、身勝手な自分本位のものだけが闊歩するようになったら、社会は崩壊するのです。近づくクリスマス ― 2013年12月17日 20時52分43秒
キリスト教の習慣に過ぎないクリスマス、仏教徒のわたしにとり取り立てて何かを祝うものでもありませんが、商業ベースのことどもとは異なり、返った後も子供達のためにあるようで、なにかしら、ほっと、そして、希望を映すかのような光景です。先月から、1ヶ月も灯る光はそんな社会の灯火として、暗いこの世の中にひとときの明かりを暖かに見せてくれる造形です。通る人、見る人により、その思いはさまざまでしょう。そこにまた、明日への仄かな慈しみに満ちた光に新たな気持ちをいだかせてくれるものです。
辛く、悲しく、それでいて、いえ、だからこそ、将来への希望と願いと想いを胸に、歩く時を大切にしていきたいのです。少しずつ、前に進むために。違憲状態と原子力発電 ― 2013年12月18日 21時51分49秒
原子力発電は、明らかに危険で不安定、多大な労力とお金と後処理に気の遠くなるような費用と時間がかかるわけで、それをとりあえず、今は必要だから、という詭弁で使い続けようとするのはどこかその違憲状態判決と似ています。福島の人々、遠くウクライナやなんかの被害を見ればそんな曖昧な根拠のない理由で原子力発電を続けることなど許されないはずです。ドイツは脱原発を決めています。レベル7の大事故にもかかわらず、これからも使い、多国へも輸出さえしようなどとは、どんな神経でしょうか。
法の下の平等、一票の価値の平等を考えれば、明確に数値で現れたその格差を国会や政治家たちの手前勝手なわがままでずるずると引き延ばしたりおかしな策を弄してやり過ごし、先送りばかりしてきた経緯からももはや違憲状態などといっていていいはずはないでしょう。違憲・無効、と裁判所は連携して、いえ、連帯して、今の政治にノーといわなければ、突きつけなければ何も変わりません。一部の暴走を食い止めるためにも、違憲・無効で選挙やり直しにすればいいのです。政治に遠慮などどうして必要でしょうか。混乱するならすればいいのです。いつまでも甘やかしてはいけません。政治はアマチュア ― 2013年12月19日 21時26分25秒
もとより、政治家、なるものが職業としてあるのはおかしいので、政治はすべて素人でいいのです。選ぶ人もまた、素人です。人々の代表として、行政の長を務めてくれればいいのです。事務的なことや折衝その他は役人と協力してすればそれでいいので、誰も知事などにそんな職業意識を期待して選挙で選んでいるのではない、ということを立候補者たちは認識をして欲しいと考えます。その証拠に、猪瀬氏は過去最多の票を獲得し、その理由としてその正の、ポジティブな面が評価され期待をうけたのです。だからこそ、さんざん言われ、明確に退けられてきたお金の問題に考えが至らなかったのは意識の低さが一方で残っていた結果なのだ、ともいえるのです。
政治が職業化してしまったために腐敗が起こり、汚職がなされ、族や世襲といった、本来あり得ない議員や長が登場してしまったのです。その悪循環を断ち切るためにも、政治は、そして政治家は専門の職業でも職でもないよう、常に新しく選ばれてその信念や信条、目的となる政策、つまり、何を為すのか、というところに主眼を置き、人々の連帯のもと、進めて、議論を常に重ねることが社会の、民主々義のあるべき姿だと信じます。余計な一言を: 猪瀬さん、アマチュアでいいのですよ。
置き去りにしたもの ― 2013年12月20日 20時43分24秒
他方、誰もが訝しく気づいていてなんだ、と考えるこの方策のために、福島の人々はもはや戻れずに、他所での生活支援・賠償、年金や公務員給与の減額、教育の時間増による実質的な予算削減、少子化はもう既成事実としてその対策は上滑り、一方での特定秘密保護法、防衛費や防衛整備のための支出増加、いったい、どこに目をむけているのでしょうか。置き去りにしていくものは人々だけでなく、その命の代償として手に入れた民主々義や平和憲法や社会の豊かさ、子供達の歓声、老後の楽しみ、命を育み社会を維持するための基盤、すべて失われていきます。
目を向けるべきものから目をそらし、削るべきものは反対に増やし、残すべきものは破壊し、守るべきものを捨て去る、そんな社会の衰退と崩壊に向かうようなことばかりを私たちに突きつけているようです。いえ、はっきりと押しつけています。悲しい真実ばかりが見えてくるのです。違和感と疲れ ― 2013年12月22日 17時23分21秒
今回の大学行きでの障害は、1つには携帯電話を(目の前に置きながら)持ち忘れたこと、2つにはオーバーコートを着てこなかったこと、3つには案内をよく読まず、無料の弁当を見送ったことでした。そして、不便さと不自由さをかこつことは遠い旅先では辛いことだと再認識したことです。やはり、チェックシートを作り、短い外出でも確実にそろえるか準備することだと。
昨日はどこかの小学生が大勢いて、ロビーや各階で騒がしく、引率していた指導者らしき(一応先生と呼ばれていた)者たちの不手際が恨まれます。どこか、変で、髪は染めていたし、携帯電話を子供たちの目の前や囲まれていてもてにしていじり、服装は子供並みでわたしはつい、訝しいまなざしを向けてしまいました。どうみても、小学校の教師にはみえませんでした。どこか、ここの空気が冷たく、人々は淡泊でひっきりなしの電車のようです。ビルと住宅で緑はほとんどなく、おかしな感覚にとらわれた到着時と幾分か和らいだ今の差違にまだ慣れません。昨日はとても疲れましたし、安まらない時は神経を高ぶらせます。明日、いくらか和らいでいくと信じます。今日の大学の講義でも先生が話されていたように、アリストテレス以来の論理の大前提は必然とされます。これはまた、数学の公理にもにて、その必然性はゆるぎなきっものと考えるのは幻想ではないと思うのです。この論理による誤りの矯正、つまり、論理療法も有効な手段として心理学的にも求めうる社会の改善の方法だとわかりました。少しでも、今の社会のゆがみを人々の力を合わせて直してゆきたいものです。
穏やかな帰路 ― 2013年12月23日 19時59分17秒
しばらくして、その2人は静かになりましたが、後ろに座った2人はたちがわるかったのです。始めからしまいまで、しゃべりっぱなし。それも大きな声で。はた迷惑だ、ということがわからないのでしょうね。走行音にも負けませんでした。他の人たちはだれも話さず、話しても、2人だけに聞こえる程度の声で静かに話すわけです。それが列車内のマナーだということはいいおとなならば分かっているはずで、それに抗うかのようなそのおしゃべりは耳障りぐらいではすみませんでした。それにしても、よくそんなに話すことがあるものです。あきれかえる、とはこのことでしょうか。
まあ、運のつきがよくないときは続くもので、乗り換えた列車内でもまた、すぐ近くにはまたまた、おばさん2人。これも大きな声でしゃべり続けること。いったい、きょうは何の日でしょうか。天皇陛下はこのようなおばさん2人組に遭遇したら、どんなお顔をされるのでしょうか。帰りはまったく、おばさん6人に祟られた道中でした。夕刻の交差点 ― 2013年12月25日 18時52分12秒
これはまた、ひとつのアナロジーとしてとらえることもできます。真実は真っ赤で、真っ赤な嘘ではないのに、他者の多くがそんな色違いを並べ立て、その声や数にものを言わせて言い立てれば、たとえ黒でも白戸なり、赤も緑も黄色もなくなってしまう、ということを意味しています。恐ろしいですよね。何が言いたいかというと、本当のことは違っていても数が多ければ正しい、と言いくるめることができる、ということです。多数は正義、ではなく、また、正しさは多数決で決まるのでもありません。
昔、12人の怒れる陪審員、だったか、そんな白黒映画がありました。アメリカの話でしたが、1人だけ、異論を唱え、少しずつ、他の人を説得し、納得させていく過程を描いたものです。議論や反論、検証、論証を経て、その現実、いえ、真実はどこにあり、誰が裁かれるべきかを問うた名作です。多数の嘘や暴論やでっち上げもまた、真実の前にはひれ伏すのです。理性と人間性に基づく、論理と正しい倫理が無実の人を救い、社会正義が実現されるのです。交差点、というのは、その分かれ道なのですね。
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