政治への取り組み ― 2014年03月20日 21時24分15秒
国家予算が債務の巨大化の中で無意味に作られ、消費税の増税による其の場凌ぎのごまかしがまかり通る現在、昨日のNPO法人の原田さんのような若い力と発想と行動こそ必要とされます。特定の政党とかではなく、彼らをも含めて私たちがもっと興味関心を持ち、私たちが、いえ、我々こそ政治の主役である、という強い信念を持つべきときなのです。
そのために、なんらかの政治参加や議論の定期的というよりももっと、定常的な場を設け、積極的な取り組みを促していく、そんな社会の有り様を私たち自らが構築することが私たち自身に於いて求められているのです。『何一つ変わらない』、とか、『私の一票で何も「変わらない」』といった受け身の姿勢では、まさに、何にも「変わらない」のです。我々の意識的な発言と行動こそが社会を、日本を「変えていく」からです。原田さんたちの取り組みだけではない、草の根の社会の活動を創り出し、広めれば社会も日本も「変えられる」、そう私は信じています。浦和レッズ横断幕事件 ― 2014年03月16日 21時09分08秒
以前に私も記事にした、ヘイトスピーチ・ヘイトクライムと通底する「在日」へのいわれのない差別・区別があります。多くの日本人は彼らのような差別意識はないものと私は信じます。歴史的にも、朝鮮半島あるいは中国本土からの日本列島への移入者はたくさんいたし、わざわざ呼んで来てもいたわけで、その人々からの知識や技術は大和の国の建設と維持に与って力あったのですし、その「混血」は広くあったと思われます。どこからが「朝鮮人」で「中国人」で「日本人」か、あるいは南方の人々か、といったことはおそらく誰にもわかりません。彼ら自身、その血は何%がどういった起源なのかは100%わからないでしょう。
それにもまして、その差別意識や誰かをスケープゴートにする、その発想や手口や喧伝が恐ろしいと感じさせられます。この[ Japanese Only ]の横断幕で無観客試合を余儀なくされる日本のサッカーに誇れるものはあるでしょうか。この国土に住むすべての人々が「JAPANESE(日本人)」であり、その誰かを犠牲にしていい理由などどこにもありません。ましてや、その彼らは「在日」の自作自演である、とうそぶくその「二重基準」(中川氏による)は彼ら自身の、いえ、同じように誰かを何かが起こるたびに責任や罪を擦り付ける、まさに、「日本人」の人間性さえ問われる思考や良心とものの見方に起因しているのです。これは、果たして、教育や社会の規制や啓蒙活動で矯正しあるいはなくしていくことができるでしょうか。どのような方策や人々の連帯が必要となるのでしょうか。「日本人」の一人ひとりに考えてもらいたい問題です。
健康と教育 ― 2014年03月09日 08時33分21秒
そして、これを可能にするのは、単に日本の伝統的な社会の価値観や共同体の働きにある、というのではなく、やはり、教育の果たす形成的な機能こそ、崩れつつある私たちの社会において鍵となる、と私は考えます。ともすれば、ゆがんだ見方や教授の賞賛する集団的な機能とは正反対の束縛や抑圧、迫害さえ起こる現実の日本の各層の社会構造からみれば教育による人々の啓蒙や様々な必要とされる意識と思考の醸成に必要不可欠となる、それこそ、教授のいうところの助け合いや関わり合いを基礎づける思いやりや互いの認め合う基本的な人権意識を実感的に、実際的に浸透させていくことです。
ポピュレーションアプローチによる視覚的な把握と上流への働きかけを効果づけるためにも、この社会階層の全般に渡った取り組みには教育によるものごとの基本的で道理に基づいた本質的な刷り込みはやはり見過ごせないと思うのです。なんでも簡単な視覚的な表現や引きつけで誘導したらいい、としてすべてがうまく変わっていく、そう単純に期待するのも現実的に無理があるように感じさせられます。教授も始めに述べたように、かつて日本はその識字率や教育の高さと緻密さとある平等性からそういったアプローチを可能ならしめてきたはずだからです。今現在、その日本の教育の危うさやゆがみや格差が問題となっています。どのように立て直すかではなく、どうこれからを創っていくか、が問われているように思います。そして、パブリックヘルスの視点から、社会の仕組みを私たち自身の意欲的な行動に結びつけるような基礎的な知識や思考と考え方の形成により変えていき、より健全な社会と一人一人の健康をもたらすように仕向けていくことが求められると信じます。春の雪 ― 2014年03月07日 06時18分22秒
写真は先週の実家のマンサクの花です。早春の畑のこの色を見るときいつもこれからの幸福を願わずにはいられません。明るい日射しと冷たさの同居したそのときに早く訪れて欲しい本当の春を待ちわびているこの気持ちの絶えない日々です。
ブログ、ツイッター、ホームページなどは、他者への誹謗中傷やプライバシーの開披、あるいは名誉や尊厳、人権に関わる否定的なことばや侵害行為でなければ、本質的に自由です。どのような主張を述べ、展開するのかは自由です。良心に恥じないことばと社会正義のためにつづるそういったことばに非難や否定や排斥はあってはならないのです。ヘイトスピーチの原因 ― 2014年02月25日 20時11分33秒
いまなお、適切な調査さえ行われていないようで、こんなことが許される民主々義社会がどこにあるのか、と静かな怒りが湧いてきます。でも、彼らだけではないのです。特定の個人や団体、あるいは弱い立場や排斥的な被害を受けている人たちはそれらと同様の声の暴力を受けています。わたし自身、それを実感しています。単なる人格否定や干渉・妨害にとどまりません。私生活を含めた生活侵害(妨害を超えている)、間断をつけて反撃や証拠のつかめない形での声の暴力、名誉毀損くらいではない言いふらし、聞こえよがしの悪口雑言、その人権の否定的な言動はときに大声で継続的です。
原因は何でしょうか。第1に、そういった者たちの内面の醜さや自己中心的な自分本位の決めつけ、思い込み、その正当化に伴うより弱い他者への不満のはけ口としての攻撃は身に降りかからないような形態で感情をまるで人間なら当然といわんばかりに口から出されるものがあります。第2に、社会のある種の「寛容さ」があります。明かな社会悪でしかないのに、その「暴力」を恐れて知らぬ顔をする、自分たちもその中にはいったり横からのったりすることで自身の不満を解消させる、そういった卑屈で偏狭な弱さの裏返しでしょうか。この日本には、基本的人権だけでなく、そういうことから生じる諍いや戦争さえもうけつけない、とした誇るべき憲法があります。その世界において、名誉ある地位を占めたいと思う、という立派な前文があります。私たちはその暗い歴史に学んでその根絶を誓ったはずなのです。どの人も同じ人間として、ともに助け合い、手を取り合い、分かち合って生きるその責務があります。自らの欲望や利己心、了見の狭さ、一方的な主張の強弁による押し通しで「勝つ」ことを自己目的として行うようなヘイトスピーチや中傷キャンペーンもまた、社会として許容してはならないことです。
集団ではなく、ひとりひとりが最大限尊重され、その命と生活が自由で豊かになれるように、弱虫の典型である、声の暴力をふるう者たちに私たちは私たち自身のために、私たち自身によって立ち向かわなければなりません。過去の罪をあがなうためには、そんな行為を認めない社会を作り直すことです。それがヘイトクライムで亡くなった心優しい、あるいは多くの「外国人」への最大の供養となり、ひいては私たち自身をもその子々孫々まで、救うことになる、とわたしは信じます。日本海の呼称 ― 2014年02月04日 22時23分31秒
それはともかく、韓国系住民の行動と行為は圧力であり、横暴でしかありません。かつて、暗い歴史の中で、私たち日本人が謝罪した行為と何ら変わりはありません。数の暴力や圧倒的な声により米議会がその力に屈した形であり、どこにも正義はありません。米国務省やワシントン・ポスト紙のいうとおり、地名は歴史をもち、その意味を伝えています。韓国系住民の同じ声を合わせた数の主張で歴史は決められませんし、そもそも、州議会で歴史の教科書は書き換えうるものではないでしょう。
恐ろしいのは、これが通る、と知ったとき、この手法や手口で何でも通そうとすることです。「力は正義なり」とは、かつてプラトンが述べたことで、勝てば官軍、みたいな力の支配のことです。数、すなわち力、とは蔑むべき思考です。そのために、このあとに続く暗い歴史と一体化していったのです。まさに、歴史はそれを排除するべし、と私たちに教えてくれたのです。韓国系住民や今の韓国の、たとえば竹島や漁業権についての一方的な、しかも圧倒的なやり方にはおぞましさしか感じません(従軍慰安婦や侵略・併合などは違う)。彼らにとり、受け容れてはならない方法を自らが使うなどとは。自らにとって、被支配的な鬱屈間を卑怯な手法で「倍返し」したのでしょうか。してはならないことをして、正義が成り立つでしょうか。民主々義とは相容れない上に、繰り返しになりますが、歴史や歴史研究者の良心と事実とに基づき決められることです。声を合わせて押しかけてわーわーすればそれでなんでも正義なり、とは卑屈で幼稚な振る舞いだと思われてもしかたありません。人間として、あるいは民族として、国家として、あってはならない行為です。対等だからこそ、事実と歴史に基づく(歪曲したり捏造したりするのではなく)確かな認識からはじめなければなりません。
夕刻の交差点 ― 2013年12月25日 18時52分12秒
これはまた、ひとつのアナロジーとしてとらえることもできます。真実は真っ赤で、真っ赤な嘘ではないのに、他者の多くがそんな色違いを並べ立て、その声や数にものを言わせて言い立てれば、たとえ黒でも白戸なり、赤も緑も黄色もなくなってしまう、ということを意味しています。恐ろしいですよね。何が言いたいかというと、本当のことは違っていても数が多ければ正しい、と言いくるめることができる、ということです。多数は正義、ではなく、また、正しさは多数決で決まるのでもありません。
昔、12人の怒れる陪審員、だったか、そんな白黒映画がありました。アメリカの話でしたが、1人だけ、異論を唱え、少しずつ、他の人を説得し、納得させていく過程を描いたものです。議論や反論、検証、論証を経て、その現実、いえ、真実はどこにあり、誰が裁かれるべきかを問うた名作です。多数の嘘や暴論やでっち上げもまた、真実の前にはひれ伏すのです。理性と人間性に基づく、論理と正しい倫理が無実の人を救い、社会正義が実現されるのです。交差点、というのは、その分かれ道なのですね。
穏やかな帰路 ― 2013年12月23日 19時59分17秒
しばらくして、その2人は静かになりましたが、後ろに座った2人はたちがわるかったのです。始めからしまいまで、しゃべりっぱなし。それも大きな声で。はた迷惑だ、ということがわからないのでしょうね。走行音にも負けませんでした。他の人たちはだれも話さず、話しても、2人だけに聞こえる程度の声で静かに話すわけです。それが列車内のマナーだということはいいおとなならば分かっているはずで、それに抗うかのようなそのおしゃべりは耳障りぐらいではすみませんでした。それにしても、よくそんなに話すことがあるものです。あきれかえる、とはこのことでしょうか。
まあ、運のつきがよくないときは続くもので、乗り換えた列車内でもまた、すぐ近くにはまたまた、おばさん2人。これも大きな声でしゃべり続けること。いったい、きょうは何の日でしょうか。天皇陛下はこのようなおばさん2人組に遭遇したら、どんなお顔をされるのでしょうか。帰りはまったく、おばさん6人に祟られた道中でした。違和感と疲れ ― 2013年12月22日 17時23分21秒
今回の大学行きでの障害は、1つには携帯電話を(目の前に置きながら)持ち忘れたこと、2つにはオーバーコートを着てこなかったこと、3つには案内をよく読まず、無料の弁当を見送ったことでした。そして、不便さと不自由さをかこつことは遠い旅先では辛いことだと再認識したことです。やはり、チェックシートを作り、短い外出でも確実にそろえるか準備することだと。
昨日はどこかの小学生が大勢いて、ロビーや各階で騒がしく、引率していた指導者らしき(一応先生と呼ばれていた)者たちの不手際が恨まれます。どこか、変で、髪は染めていたし、携帯電話を子供たちの目の前や囲まれていてもてにしていじり、服装は子供並みでわたしはつい、訝しいまなざしを向けてしまいました。どうみても、小学校の教師にはみえませんでした。どこか、ここの空気が冷たく、人々は淡泊でひっきりなしの電車のようです。ビルと住宅で緑はほとんどなく、おかしな感覚にとらわれた到着時と幾分か和らいだ今の差違にまだ慣れません。昨日はとても疲れましたし、安まらない時は神経を高ぶらせます。明日、いくらか和らいでいくと信じます。今日の大学の講義でも先生が話されていたように、アリストテレス以来の論理の大前提は必然とされます。これはまた、数学の公理にもにて、その必然性はゆるぎなきっものと考えるのは幻想ではないと思うのです。この論理による誤りの矯正、つまり、論理療法も有効な手段として心理学的にも求めうる社会の改善の方法だとわかりました。少しでも、今の社会のゆがみを人々の力を合わせて直してゆきたいものです。
置き去りにしたもの ― 2013年12月20日 20時43分24秒
他方、誰もが訝しく気づいていてなんだ、と考えるこの方策のために、福島の人々はもはや戻れずに、他所での生活支援・賠償、年金や公務員給与の減額、教育の時間増による実質的な予算削減、少子化はもう既成事実としてその対策は上滑り、一方での特定秘密保護法、防衛費や防衛整備のための支出増加、いったい、どこに目をむけているのでしょうか。置き去りにしていくものは人々だけでなく、その命の代償として手に入れた民主々義や平和憲法や社会の豊かさ、子供達の歓声、老後の楽しみ、命を育み社会を維持するための基盤、すべて失われていきます。
目を向けるべきものから目をそらし、削るべきものは反対に増やし、残すべきものは破壊し、守るべきものを捨て去る、そんな社会の衰退と崩壊に向かうようなことばかりを私たちに突きつけているようです。いえ、はっきりと押しつけています。悲しい真実ばかりが見えてくるのです。
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