忘れられること ― 2013年10月01日 20時35分54秒
日頃、あまり交通機関を利用しないせいか、生徒達が記述するのをみていると、この地域の何を本当にわたしは考えているのだろうか、と内省してしまいます。現実に利用する未成年の彼らとは生活の様式も形態も方向も異なっているのだ、と実感します。そして、自分自身の生活圏にはない風景と環境をことばだけで素通りさせてしまうとき、もうすでにこの地域の思考に入らない部分を知るのです。
多く、自動車の利用の自意識による推進と不便さの解消のためになおさらに交通機関からの迂回と排除を進めるとき、わたしたちは社会の成り立ちにこれまで大きな役割を演じ、なお若い彼らの意識に深く根ざす風景から遠ざかることに私たち自身が衰退と衰亡に加担しているのだと感じさせられざるを得ません。失うわけにもいかず、かといってその不便さからは逃れることしか生活そのものを成り立たせられないジレンマの中、ただ記憶や意識から外に追いやる以外、方法のない今をどうするのがいいのか、考え込んでしまいます。解決策などありません、と言い切ることは一つの逃げ道でしょうか。村田奈津恵さんに思う ― 2013年10月03日 19時54分00秒
でも、もちろん、何とかして電車を止められなかったか、と。多少、電車にダメージが残っても、直前で止められる方策を考えるべきときです。彼女の命はあまりにその代償としては何もない、ではむごすぎます。弱い人、抵抗できない人、自力では何もできない状況、たった一人で苦しんでいる人たち、そんな人たちのために誰もが手をさしのべ、少しでも助けになり、生きているなら、いつまでも力になってあげたい、そんな気持ちを持って歩む人たちを育て、あるいは増やしていきたい、そんなわたし自身の思いもまた、村田さんと共にありたいと願うのです。
自爆でもいい、困ったときに力になりたい、そんな気持ちは常に持っています。ただ、現在の職場での存在がそれを困難にしています。でもやはり、いつも、遅れても、時機を逸しても、後からでも何かをしてあげたいと行動してきました。何にもなくてもそれでええやんか、と。いつか、それもどこかで役に立つ、と信じます。村田さん、私たちはいつだってあなたの思いを忘れません。いつも、傍にいてください。遠隔地での講習 ― 2013年10月05日 17時48分09秒
そんなわけで、早めに大学に到着し、ゆっくりとキャンパス内を歩きました。私の通った大学より広そうです。さすがに国立大学で、豊かな様子が窺えます。ただ、手入れはおろそかになっているような植え込みとか、道路や構内を見るとそんなにきれいな行き届いた環境ともいえないかも、と思ってしまいました。お昼は生協の食堂、ではなく、その前のベンチでコンビニ弁当。学生たちに混じるには少々、勇気が要りそうでした。
5時までかかったこの講習、これで沢山のお金と時間を費やした甲斐があるかどうか、これからに、まだかかると思うと、今から疲れてきます。よいことがこれから合わせて重なることを祈って。2日目の朝 ― 2013年10月06日 22時31分59秒
今日は大変だと思っていましたが、やはり、昨日のような状態では昨日の記述に課題が残っていました。今日は予想とは裏腹に結果を残せたのではないか、と。
お勉強をしにいったのですから、他に何もなかったのは当然といえばそうなんですが、何のアフェアもなかったというのはあまりに寂しく、悲しい過ごし方です。夕方までで疲れましたし、何かがあるとは期待もできませんが、もし幸運の巡り合わせがあれば、とはいつも外に出る度に思うのです。晴れたのに。謝罪強要の裏側 ― 2013年10月08日 20時18分10秒
国谷キャスターのことばどおり、そうではなく、原因を探り、その解決に向けてよりよい仕組みや社会を目指して論議し、ここで、手を取り合い、互いに協力し合いながら改善あるいは新たなものを創り出していく、というプロセスの否定あるいは対極にあります。およそ、非論理的で非合理で実際問題として、非現実的なファセットの現出にほかなりません。それで、何も変わることなどないのです。これをまた、この地域でも声高に叫び、しかも陰から弱い人や小さな人、異質な人に対し(あるいは創り上げ)ありえない排撃に至るのです。
愚かさとは、愚かさに気づかないことだ、とは昔から言われることです。このことばさえ、幾度となく、そして多くの場所で多くの人たちから発せられながら、その愚かな者たちは全く聞き入れず、理解しようとはしません。そもそも、一方的に弱い人や声の小さな、あるいは出せない人に対して為される行為言動には正当性はありませんし、私的な断罪など許されることではありません。全く論外の行いが蔓延しているのです。これもまた、この社会の劣化・衰退のひとつの顕著な現出です。早く、パロディ映画のごとく、そのばかばかしさに気づき、改めなければ本当に、この社会は崩壊してしまいますよ。わたしはマララ ― 2013年10月09日 20時03分49秒
今朝、あわてて注文しましたら、日本のアマゾンで2000円以下で買えたことに後で気づきました。なんとも口惜しい。ただ、数週間待つより早く(7日間ほど)入手できるらしいのですが、どうなんでしょう。まあ、早く読んでみたい、という気持ちで600円の違いは(ハードカバー)よしとしましょうか。
日本でも、ことにこの地域ではそんなふざけた非道がまかり通るのです。非合理など、ごめんだ、とツイートしたら、前の勤務校の生徒がリツイートしてくれたのです。とても嬉しいときでした。日本人として、マララさんの戦いと彼女の身の安全のために、どんなことでも助力を惜しむまい、という思いからも、この民主々義で自由を尊重する社会に恥ずべき連中を放置しておいてはいけません。命を懸けて女子教育を訴え続ける彼女に顔向けのできない低位の連中はいっそどこかに放逐すべきかもしれません。前に記事にした、横浜の村田さんの純粋な勇気と思いを無意味にする社会に劣化させてはならないのです。マキの実を食す ― 2013年10月12日 11時21分33秒
反社会的癒着 ― 2013年10月30日 21時17分07秒
私たちにとり、必要なのは、個々人にしばしば振り向けられる行為への、それこそ、集団あるいは連帯した社会的な拒絶と追放への行動です。ひとまかせや当事者だけへの非難などで自分たちはしりません、といった態度が後を絶たない反社会的勢力の横暴とそれらとの癒着に認可を与えてしまっているからです。より厳格な立法と警察の働きや市民の勇気と協力、教育における暴力に対する姿勢の醸成と意識的な抗う取り組みなど、弱いひとりひとりでの反抗ではできない大きな力を培うことが焦眉の急です。
翻って、ごく身近でも、暴力に弱腰でなお、逆らってはいけない、とか、おとなしく引っ込むように手なずける、そして別の世界に住んでもらう、といった対応こそうまくおさめるために必要だ、といった「常識」や「賢明さ」のために、いつまでもその根は絶たれないままに残存するのです。私たちひとりひとりにとって、何より求められるのは、使い古されたことばですが、強きをくじき、弱気を助ける、といったわかりやすくそれでいて、ほんとうに勇気を求められる真の姿勢と行動です。どの人にとってもそれは逃れていいことではありません。この社会から、まさに、「反社会的勢力」をなくすために、あなたの足下から見直し、困っている人に手をさしのべ、力になり、いつも変わらずに接し、ときに連帯してあらゆる暴力に立ち向かう、その姿勢を育てませんか。
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