どこを向いた話か2013年09月30日 21時16分31秒

朝と夜の同居
復興特別税の「前倒し」撤廃、消費税引き上げ、法人税減税、………一体、誰のための内閣か、と怒りが湧いてくることはないでしょうか。確かに、消費税増税には首相は慎重らしいのですが、それでも増税を口にして、その時機を見計らっているらしい、との報道や事実もあり、どこか、大規模な企業のみを優遇している政策の形を変えた延長でしかないのは見え透いています。9時のNHKでも福島などの人たちの声を穏やかに紹介していましたが、あまりに切り捨てようとする意図のあからさまな姿に何を誰のために、と言いたくなるのです。福島の原発も「制御下にある」などとうそをいい、心配ないなどとのたまうのですから、あきれます。

経済の再生とばかり見かけの活性化をもくろむところに足腰のしっかりした確かな流れや基盤の再生などは望めないでしょう。どうしてそんなに急ぐのか、と思いはまだ遙か先の復興と新生に向けた地域だけでない日本の社会にあるのです。そんなにたやすい復興ではありますまい。社会の下支えもままならぬ人々の生活と、とりわけ困難な状況にある雇用環境(非正規がそもそも存在すること自体、異常)、少子高齢化の急速な進行など、むしろそんなに大企業を優遇する理由などどこにも見当たらないはずです。

変わってゆく地球環境やグローバル化の圧力のなかにいる日本の状態をみるにつけ、拙速な延長線上の旧態依然とした愚策の反復に将来を見据えた政治と経済制御の見通しある判断と政策は見えてきません。彼らに日本の転換期を担う資格はないのです。現に求められるのはそんな古くさい頭ではなく、斬新で大胆な積極的前進を図る施策と人々の教化でしょう。啓蒙は有識者や職業教員などに任せてもうまくはないでしょう。政治を担う人々が人々の声を受け止め、変革を進める気概をもつことです。でないと、滅びます。

計数器変更2012年02月26日 09時35分58秒

ブログをご覧になられた方はお分かりのように、アクセスカウンターを変更しました。以前のものは内実を反映していなかったので、このカウンターは幾分、改善されると信じます。

まあ、ただどれほどの数値か、ということに取り立てて意味も思いもありませんし、もちろん、一喜一憂することもありませんでした。訪問される人数の目安として、いえ、見てくださっている方もいらっしゃるのだな、という、一種の安心感と充足感の印でしょうか。

とにかく、一新されるというのは何にしても気分も変わるものです。

オリンパスの魔2011年11月08日 19時20分03秒

やっぱり、というか因果を自明のこととして不正な処理と隠蔽工作が明らかにされました。現社長はようやく、自覚したのでしょう。イギリス人の元社長は全く正しかったわけです。その前社長を解任してまで隠そうとしてきた旧経営陣の情けなさ、恥知らずの姿勢は日本の企業の優位性を危うくさせます。

同様に、ようやく、各政党とともに、民主党もまた、TPPのその悪魔的な意図に気づき始めたのではないでしょうか。国民新党の亀井氏も首相に進言してくれたのですし、これからの、いえ、今の日本の危機にさらにその土台と礎をなし崩す危険性に首相以下、政権中枢だけでなく官僚も偉そうで何も見えていない企業の主導者たちもまた、目覚めるべきです。

光学はその光の追求の結果です。真実に目覚めるとき、ものごとが動き始めるのです。

五十歩百歩2011年10月25日 07時32分45秒

原子炉建屋
原子力発電所の事故発生における避難指示の範囲を半径10km以内から30km以内に広げるとした政府の対策案について、舞鶴市は年内での計画は時間的に不足とのことを言ってました。でも、誰もがわかるように、ひとたび原発事故が起これば、10kmも30kmも実質的には差も違いもありません。福島の例ではっきりとしています。単に、時間的・気候的・地形的な違いに過ぎないからです。どちらにしても脳天気な発想です。

広範な地域に直接的に放射能をもった物質が撒き散らされあるいは吹き飛び、さらに時間をかけて降ってくる、それだけではすまないことは福島の現状で火を見るよりも明らかなのにまだ継続的な運転と維持を考えている人たちはいったいどういう思考回路でものを言っているのでしょうか。島国では避難する場所など限られています。また、水源としても大きな役割を果たしている森林にいたっては除染など到底不能です。とにかく事故を起こさせないこと、そのためには即刻、前原発の停止と廃炉しかないわけです。この意味で、ノーベル物理学賞受賞者の益川教授が「研究」といったのはそれなりに意味をもちます。

どんな対策も訓練も無意味です。この国の将来を憂うならば、まず何が何でも原子力などから完全に撤退することです。範囲の問題でも、安全対策の問題でも、技術の問題でもありません。想定の大小でさえもないのです。起きたらそれで日本は消えるのです。そんな数字は無意味なのです。

評価に意味はあるか2011年10月17日 17時15分25秒

コサギ
様々な試験・人事・成果などで決まって行われる数値や段階・序列付けをした評価は実際的に意味を持つのでしょうか。代表的な評価として、相対評価と絶対評価があります。また、絶対評価も到達度評価とある基準を設けた場合の違いなどで分かれます。しかし、これらをたとえば、選別や篩い分けのために使うとなると本質的な問題を避けることができません。そもそも、対象の作業や行為の結果はそのときのその場のその状態での一側面に過ぎないからですし、その物差しは極めて恣意的であり、それによって誰かの能力や価値を測ることは不可能だからです。

にもかかわらず、しばしば、そして悲しいことに現代の社会に生きる人たちはその結果や過程さえもそういった一基準での単一の価値に基づく「物差し」、つまり「尺度」を盲目的に信頼しがちです。これは他方、そういった評価をされうる場合に被験者や被観察者を一面的に序列化したり差別したり区別したりします。これはされる人たちだけではなく、この社会にとってもまた、著しい不幸でもあるのです。

示された数値や段階の記号などに一喜一憂したり、ましてやそれによって人の価値や存在を決めつけたりするなど論外であることは多くの人たちは実感として分かるはずです。そう、「分かる」ことこそ、その人自身の「絶対的な価値」をその人自身によって表出し、理解し、現れていることに他なりません。必要なのはその人が自身の自立した精神を見失うことなく時間を創り続けることです。尺度は任意であり、絶対的なそれは存在しません。『汝自身を知れ』とはギリシャの格言ですが(一般にソクラテスのことばとされるが真偽は不明)その前段階の意味でもこういった評価は実質的な意味をなさないことは明白なのです。

男女の別離後の友情2011年09月25日 05時13分29秒

小女郎ヶ池北部
NHKーFMの深夜1時48分ごろの放送で、「恋愛関係が終わった男女間に友情は成り立つか」というアンケートの結果を発表していました。それは、
成り立つ: 123人、64.7%
成り立たない: 67人、35.3%
というものでした。これを聞いて、変やな、とすぐに感じました。その理由は、ここには、まず、男女の区別は示されていないこと、第二に、男女の組み合わせを考慮していない、という本質的欠陥があるからです。

成立する、というのを1とした期待値を求める、ということを考えてみます。仮定をいくつかもうける必要があります。

  • 男女比を1:1とする
  • この人数中には任意に男女が混合されている
  • 2人を男女として組み合わせて選ぶとする
とすると、
成立する場合の期待値は、
0.647 x 0.647(=0.419)
成立しない場合の期待値は、
0.647 x 0.353 + 0.353 x 0.647 + 0.353 x 0.353 (=0.581)
となり、その比は、0.419 : 0.581 となります。
しない方が大きくなるのです。あくまで仮定の上での計算ですが、実際にそうやってアンケートを取りまとめると近くなるはずです。これは「存在」の確率を考えてその期待値を計算する量子力学的な考えを知れば納得できます。

何より、一つでも反例があれば、成立する、という命題は否定されるわけです。現実に、友情なんて成り立たないという人が一人でもいればそんなことはないのだ、といえるからです。これはこういったアンケートで集計したらその多数によりそうなのだ、といえる、ということに常識的に抵抗を感じたり疑問を感じたりする、という実感と一致します。

タンポポの行方2011年06月09日 20時45分51秒

これからのバラ
生きるために生きている植物を使う、それは目的が手段を正当化する、という一例でしょうか。入院中に読んだ新聞に、小学生がタンポポの種を福島県に送り、セシウムを吸収させて刈り取ろうという話がありました。フィトレメディエーション(Phytoremediation)のひとつで、まだよく調べていませんが、選択的に取り込む割合が高いとのこと、それはそれでいいのですが.....。

国内の多くに今や支配的になりつつあるのは、萼が下向きにめくれている見るからに見苦しいセイヨウタンポポです。この種は確かに大量に取れますが、これを使うのはわたしは賛成できません。というのも、このセイヨウタンポポはいわゆるクローンで増えるタイプであり(高校の生物の教科書にもあります)、季節の見境なく蔓延るのです。放っておけば確かに増えて吸収してくれるかもしれませんが、後の始末や面倒を見なければ大変なことになってしまいます。

在来種は今でも残っています。わたしの住むこの土地でも数種、山あいや鉄道沿線にさえあります。他にも、田んぼの畦などにも残っているのもあるのですが(いくつか種を保存してます)、その生存や継承を危ぶませることになりかねません。これは日本固有のタンポポの種の保存にとって脅威となり、種でしか増えない在来種の保護と育成は焦眉の急となっているからです。小学生にも区別できますから、このあたりを考えて行わないと、ただでさえやっかいなセイヨウタンポポをややもすると人為的に増やすだけでなく、現実的には放置される割合が高くなり、放射性セシウム(137Cs)を却ってばらまくことにもなってしまうからです。

裁判所の無感覚2011年05月31日 09時30分05秒

卯の花(ウツギ)
きょうの新聞1面下に書いてありました。「新品」は常に期待はずれで買っては買い替えての繰り返しだ、と。実際そのとおりだと、ついこの間購入したZ68チップセットのマザーボードでの動作を見つめています。どこか変なのです。売り物のはずの動画で止まったり飛んだり複数のOSで動作異常になったりなどなど。今までと構成やOSは変わっていないのですが、造りに問題があるのかな、と。

裁判所もまた、同じように感じます。新しい判事を迎えても、最高裁は奇妙な判決をだしました。君が代の起立斉唱は「慣例上の儀礼的な所作」で特定の強制・禁止ではなく、思想・良心の自由を直ちに制約しない、と下されたのです。特定の歌を参列者が一緒に起立してまで歌う、などというのを儀礼的ですませられるでしょうか。どこが「強制でない」のでしょうか。そもそも、全員が合わせて同じことをさせられるその「儀礼」に耐えがたい苦痛や屈辱、屈服感を感じないとしたらどんな感覚なのでしょうか。そもそも、全国民が心から、腹の底から誇りと自信を持って歌える歌でしょうか。

判事の皆さんは常に上から見下ろすように判決を下す立場です。絶対的に正しいはずがありません。ましてや、憲法に保障された基本的人権の最も大切な部分である内心の自由さえないがしろにしていい、そんな風に聞こえる判断です。敗戦で変えた憲法と変えなかった「国歌」は矛盾しています。もう、君の御代ではありません。民主主義国家なのです。菅内閣だけでなく、今の最高裁もまた、替え時かもしれません。過去に目を閉じ、現在にも未来に対しても盲目となっています。違憲審査を私たちがその当たり前の感覚で為すべき時かもしれません。

線量測定のプロトコル2011年05月28日 08時40分35秒

茅(チガヤ)の穂
きのうの夜のニュースウォッチ9で個人個人の放射線量測定を紹介していました。各所において発表される値との比較や変動などとの関連、その妥当性は大きな問題です。何より、個々人の「測定」はそれぞれの不安を加味しなければ語ることはできません。ですから、番組中、日本アイソトープ協会の方の忠言をどのように実現させるかが課題です。それで、その方を含め、専門家の方々が一般の線量測定の標準的なプロトコルを策定し、それに従った値をも収集して公表してはどうかと考えるのです。

とはいっても、少し学んだ方ならおわかりのように、基本的に放射線を計数するのはその種類とエネルギー、飛程、方向などにより異なり、またその機器によりその感度も含めて計数できる範囲などが変わってきます。個人の所有する器械は千差万別で、どのように標準化して統計的にも有意味な値(測定値)とするかはかなり難しいのです。ほとんどは線量等量によっていて、それもエネルギー分布や感度、応答時間など違いがでてきます。同じシーベルト(μSv/h)単位でも同じ場所でさえ機器と測定方法で変わってきます。番組中でいっていたように、高さや環境などでも違います。意味のあるデータとして扱える方法を早急に整える必要を感じさせます。今を無駄にしないために、そして無用の不安を抱かせないために。

イギリスの女性子供ケアサービス所長は裁判で勝って、その「正義によって動機づけられた(勇気づけられた)」と語っています。なにより、そういった正義を形作るために、裁判所も社会正義を全面に押し出してほしいのです。誤った判決によって延命や許可を出したが故に原発は危機的な状況をこの国に作り出してしまったのです。それに限らず、わたしたちはその正義に則った言動と行動を求められるのです。

iPhone入り2011年02月22日 18時26分25秒

河川の破壊か
今日も午前中で仕事が引けましたので、予定していた携帯電話の変更のために職場と同じ町のソフトバンクの店に出向きました。今まで、KDDIでしたが、その、ある意味、「閉じた世界」に不足を感じ、MNPでわたしもまた、世の流行に乗ってスマートフォン(iPhone)に変えたのです。

ショップのお姉さんはきれいな方で、思わず見つめてしまいましたが、それ以上は何もできるはずもなく、ただその作業と説明に見入っていました。まあ、なんやかやで、2時間もたっぷりかかり、私はいったい...。の心境で少し変な気分ではあったのですが、無事、近くにあったKDDIのショップにSIMカードも渡してアップルというよりはソフトバンクに転入したのでした。

帰り道、市内の最大河川では浚渫と同時の河川敷の整備なのか、撤去、つまり破壊なのかわからない作業を重機を使ってやっていました。この河川もまた、せっかくできていた二次的な環境さえも誰かの勝手な意図により奪われてしまうのです。生きていた生き物たちはどうしたでしょうか。春なのに。これからの命、わたしもまた、電話を変えて新たな出発です。