生活コストの増大 ― 2013年08月01日 20時57分01秒
先頃も、ガソリン代の急騰が新聞に載ってました。159円前後とか。一気に、2週間で10円(1Lあたり)高くなっています。同様に、電気料金やガス代、輸入にかかるコストや原材料費の高騰、当然ながら製品は高くなるのです。インフレターゲットを設けてその変動幅に調整して維持することで一定の経済的な成果を導きだそうという、扱いやすい手法で見かけの豊かさの再興を図っていますが、それとて、わたしたちの収入の頭打ちや(むしろ目減り)さまざまな出費の大幅な増大を考えれば無意味以外の何ものでもありません。
多くの人々が何となくのって自民党の伸長を後押ししてはかない成長幻想に浸ることを夢見たかのようです。でも、社会的なコストはもっと、たとえば、テレビなどではっきりと誰にでも分かる形で示すことです。本当の姿、真実を伝えることこそ、報道のあるべき姿であり、そこからわたしたちは考えなければなりません。どのようにこれから、いまからを変えていくか、私たち自身の喫緊の課題として知らぬ顔は許されないからです。スペイン列車脱線事故―再び― ― 2013年08月06日 19時35分01秒
本当の原因は次のうち、どれでしょうか(あるいは他にあるのでしょうか)。
- 運転士が乗員と電話をしていた
- 経験20年以上の運転士の不注意(減速を忘れていた)だった
- 列車の自動制御装置がなかったためだった
- 減速がうまくゆかなかった
- 運転士の精神状態が変だった
- 列車の故障や不具合、あるいは経年劣化を見逃していた
- 定時到着という無言の圧力で急ぎすぎた
- 鉄道会社の別の理由を隠蔽するためだった
- 意図的な電話だった(陥れるため?)
あたった方には………名誉と賞賛が与えられるでしょう(うそです)。
あたりまえの話として、なぜ、速度超過に至ったのか、が問題なわけで、それを矮小化してベテランの運転士ひとりに責任を押しつけておしまい、では亡くなった79人の乗客は浮かばれますまい。なぜか、どうして経路や順序も熟知していた運転士がうまくできなかったのか、それを追求してつまびらかにするのが報道機関や捜査機関の役割です。どこか、胡散臭い。8年前の日本の福知山線脱線事故とあまりに似通った状況を知るとき、どうしてもこんな治め方に納得が行かない、と考えるのはわたしだけではないと思うからです。なぜ、国内の報道機関は福知山線脱線事故との類似性や原因追及について検討して論じないのか、いまだもっって不思議でなりません。あの事故を見聞きした人たちなら、ましてや、事故に巻き込まれた方々ならなおさら、その酷似した構図に思い至らないことなどあり得ないと考えます。スペイン当局やスペイン国民にも日本の経験を知らしむるべき、と信じます。ひとりのせいにして、あとは知らぬ顔で済ますなど、どこかおかしい。『よらしむべし、知らしむべからず』を地でいっているように思えてなりません。
監督官庁、鉄道会社、整備担当、他の乗務員、などなど、関係するところの責任逃れと運転士ひとりをスケープゴートにしたのだ、というのも大きな理由かもしれません。なんにしろ、先の本当の原因の追及こそ、犠牲者への手向けです。『わたしのせいじゃない』では済まないのです。脳細胞とストレス ― 2013年08月09日 06時26分50秒
単純に記憶するのは意味記憶でこどもの頃に優越しています。一方、その後はエピソード記憶がそれをしのぐようになります。つまり、無意味な羅列などを覚え込むこととか、試験前の一夜漬けなどは難しくなるわけです。可塑性とLTP、これは高校の生物でも取り扱われる内容ですが、そこに至る神経細胞についても書かれています。なにより大切なのは、さまざまな働きを考慮して、記憶の増強に薬物や類する方法を用いても、その使い方、あるいは過ぎた方法は極論すれば脳を破壊することです。アセチルコリンの過剰さは猛毒、サリン、によって酷くなり、無意識に何度も繰り返しよみがえる、繰り返される、という現象にさいなまれるのです。つまり、外部からのことばや声、酷い経験などはその反復で、たとえサリンがなくとも、同じ効果(障害)を引き起こす、ということです。
そして、もっと恐ろしいのは、そういった病的な傷害行為の結果がたとえば統合失調症などとなり、あるいは器質的な痴呆症に至り、海馬の大切な神経細胞が破壊されるということです。事実上、再生はされませんから、そういった外部からの行為はいうまでもなく、犯罪に他ならないということです。金属を折り曲げていくと、しまいにはぽきん、と折れるのと似ています。回復力や弾性は次第に失われて回復不能となるのです。だんだん慣れて、あるいは、「免疫」がついて抵抗できるようになるのだ、というような愚かしい考えは全く、論外です。その正反対に、ちょっとしたことで傷つきあるいは回復不能となってしまうのです。デフレ脱却ことさらに喧伝 ― 2013年08月15日 19時39分52秒
以前にも言及したように、私たち一般の生活を支える給与や年金、生活費の低水準化など基本的な収入・支出のバランスは未だに、いえ、これからも取れる状態にはありません。そもそも、下支えするべき人々に、260万の失業者(3.9%とはそいういうこと=総務省統計局)が無収入でいるのに景気は自律的に回復、などとはいうべきではありません。給与も上がらず、生活の時間的な部分も含め、余裕のなさを考えればなおさらでしょう。変動幅の大きな食料品など、ある水準以内でおさまる程度でないと生活は誰にとってもままなりません。
必要なのは生活の安定が社会としてその仕組みや枠組みの中で図られること、そして維持していくことです。それには、あらゆるコストを低減させ、余計な支出を消すことです。物価が上昇傾向にあればいい、などと脳天気なことを発言する大臣に経済を「再生」させることなど、ましてや、「新生」をはかるべきことは頭にはないでしょう。同じことをいくら繰り返しても、限りある社会・地球を考えれば無限の成長や高水準化をもくろむのはあまりに愚かだと言わざるをえません。どのような社会や経済の形態が望ましいのか、いまだからこそ、誰もが考えなければなりません。物価上昇を本気で喜ぶ庶民がどこの世界にいるのでしょうか。きのうの風景 ― 2013年08月22日 07時05分21秒
「みんなの党」と「みんな」 ― 2013年08月24日 21時03分12秒
そもそも、「みんな」ということば自体、名付け自体、大きな抵抗を感じさせます。一部で固まって結党しているのに、「みんな」はないし、合わないから『出て行け』ではもはや「みんな」ではあり得ません。排斥や迫害、同調、ちょっとした、まさにほんの少しの違いでそうしているところに日本の社会の最も悪い面を際立たせているわけですから、社会も政治も理解していないと思われるわけです。
「みんな」は一般社会でも、とりわけ子供達の中でも、はみだしたり違ったりすることに対する手枷足枷、衡、となるキーワードです。そして、弱い者いじめや異質な人、同調しない人などに排撃を加える中心的なことばであり概念であり、恐ろしい圧力となって人々を縛り付けているのです。私たちはこれとは正反対のところにあるべきで、自立・独立の姿勢と発想をこそ、追求すべきことなのです。現実に、誰かとその他との対立からその他が「みんな」であろうとするとき、これはもはや「みんな」ではあり得ない、という厳然として、自明の事実からこのことばはそれ自体、否定されることになるのです。おわかりですよね。ですから、この、「みんな」ということばやその意味するところや実体がこの世界からなくなることを私たちは強く求めなければなりません。誰もが、かけがえのない一人の人間として何よりも尊重され、その尊厳や権利を対等に持つ社会をすべての人が手を携えてつくっていかなければなりません。休日の悲嘆 ― 2013年08月27日 17時46分34秒
駐車場といい、店といい、この町の住民はなんという態度でしょうか。車を止めるとき、先客の駐車を待って進むのが通例でしょう。ましてや、自分が後からきて割り込むなど、論外です。ショップの店員にしても、買ってくれる客に、『こんなこといわれるのがいやなら買わなくていい』などと言い放つのですから、呆れますし、そもそも、初めて入った店でなぜそんなことをいわれなければならないのでしょうか。大切なお客を大事に扱わなくして、商いがなりたちますか。
写真のような、「思いやり」も「豊かな心」もかけらもありません。公徳心はもちろん、人に対する当たり前の姿勢や心がないのです。さらに、その西隣の町(市)ではもっとひどいものでした。子供も大人も人間らしい神経も感覚も持ち合わせていないようでした。基本的人権をやかましくどれほど言っても、ひとりひとりの心の貧しさはどんどん進んでいくようです。西に行くほど酷い、とは実感です。この社会は取り返しのつかない方向に堕ちていくのでしょうか。今すぐ、直さないと滅びます。反・自由貿易論 ― 2013年08月30日 21時46分58秒
とにかく、この本をよく読んでください。国家として、社会としての存立さえ危ぶまれる状況に陥る可能性を孕んだ危険な動きを看過できるはずはないことを知るはずです。「自由貿易」による豊かさの幻想は強い思い込みと固定観念によるのだ、ということが繰り返し述べられています。日本的なもの、つまり、日本そのもの=国家として、社会の同一性の危機を知ります。外圧を喜び、あまつさえ、外国に要求する、という愚かさ(その外国から暴露されるほど)、科学的な主張のはき違え、社会を規定する法律や規則の基礎となっている了解事項や共通認識の否定や喪失・無知など、あまりに基本的で結果として不可避的な売国的行為などに気づかされます。
そういったまさに「愚かさ」はどこからくるのか、私たち自身を顧み、身近な社会の壊れた状態の深刻な現実に目を向けなければなりません。壊れゆくのはリードする政府や官僚などだけではありません。もっと卑近なところでそれは目を覆わんばかりの現状をさらけ出していることに私たちははっきりと気づくべきです。誰がそうしたのかを含め、知らないではすまされない、関係ない、ではすまないことに気づき、目を覚まして欲しいと強く思うのです。機会さえあれば、はっきりとそう言いたい、それがわたしの読後感の中心を占めています。
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