鳥取地震の発生と続くイタリア地震 ― 2016年11月01日 10時05分48秒
その日のテレビニュースには震源は従来の東の断層とは西側の「空白地域」だと報道、西村京大教授はいくつものブロック状のプレートの動きだろう、とのこと、小原東大地震研教授は9月頃から活発化していた「知られていた」従来の地域の動き、とのこと。南北方向である。
中央構造線の西の熊本地震の東方向の変移は西村さんの言う複数のブロックの不安定性を起因とする歪みの北方向への「伝播」が「断層」の「横ずれ」(そう発表されてはいるーI doubt it-)に発生の表出へと時間的に連続した、と推測するのが適切でしょう。地割れの映像や写真は見ても、そやから隠れていた「断層」の「よこずれ」だと断定するのは安易な事務手続きのようで、原因や真因を示すことには至っていない。
昨日、一昨日と報道されたイタリア中部の大地震は直接的な原因は異なっても「一連の」各地の地震の発生と連関のある地表面の変動の以前から動きのある地域への表出だと考えれば理解される現象やないか、とみなされるわけです。
日本とイタリアが大きさ・面積・方向において(+緯度)似通った存在と形成ですよ、と地理の時間に教わった人も多いと信じます。これら『二つの地震』は現在の地表面を中心とした大気の変動を伴う気候変動と平行している、と現状を示した観測値と時間的な変位のグラフを見て理解されるのです。いうまでもなく、科学的に。地球規模を考えるのですから、地球を見てごく小さな狭い「場所」2カ所にきわめて短い「静かな」Durationを挟んで発生した事実に着眼すれば本当の発生原因は真因として自明な記述も可能だと考えられます。観測値に基づいたグラフ化ー事実を表すためにーを試みる。目の当たりにできるのと違いますやろか。実測できれば、と。
恋は大吉 ― 2014年03月23日 21時59分02秒
健康と教育 ― 2014年03月09日 08時33分21秒
そして、これを可能にするのは、単に日本の伝統的な社会の価値観や共同体の働きにある、というのではなく、やはり、教育の果たす形成的な機能こそ、崩れつつある私たちの社会において鍵となる、と私は考えます。ともすれば、ゆがんだ見方や教授の賞賛する集団的な機能とは正反対の束縛や抑圧、迫害さえ起こる現実の日本の各層の社会構造からみれば教育による人々の啓蒙や様々な必要とされる意識と思考の醸成に必要不可欠となる、それこそ、教授のいうところの助け合いや関わり合いを基礎づける思いやりや互いの認め合う基本的な人権意識を実感的に、実際的に浸透させていくことです。
ポピュレーションアプローチによる視覚的な把握と上流への働きかけを効果づけるためにも、この社会階層の全般に渡った取り組みには教育によるものごとの基本的で道理に基づいた本質的な刷り込みはやはり見過ごせないと思うのです。なんでも簡単な視覚的な表現や引きつけで誘導したらいい、としてすべてがうまく変わっていく、そう単純に期待するのも現実的に無理があるように感じさせられます。教授も始めに述べたように、かつて日本はその識字率や教育の高さと緻密さとある平等性からそういったアプローチを可能ならしめてきたはずだからです。今現在、その日本の教育の危うさやゆがみや格差が問題となっています。どのように立て直すかではなく、どうこれからを創っていくか、が問われているように思います。そして、パブリックヘルスの視点から、社会の仕組みを私たち自身の意欲的な行動に結びつけるような基礎的な知識や思考と考え方の形成により変えていき、より健全な社会と一人一人の健康をもたらすように仕向けていくことが求められると信じます。春の雪 ― 2014年03月07日 06時18分22秒
写真は先週の実家のマンサクの花です。早春の畑のこの色を見るときいつもこれからの幸福を願わずにはいられません。明るい日射しと冷たさの同居したそのときに早く訪れて欲しい本当の春を待ちわびているこの気持ちの絶えない日々です。
ブログ、ツイッター、ホームページなどは、他者への誹謗中傷やプライバシーの開披、あるいは名誉や尊厳、人権に関わる否定的なことばや侵害行為でなければ、本質的に自由です。どのような主張を述べ、展開するのかは自由です。良心に恥じないことばと社会正義のためにつづるそういったことばに非難や否定や排斥はあってはならないのです。日本海の呼称 ― 2014年02月04日 22時23分31秒
それはともかく、韓国系住民の行動と行為は圧力であり、横暴でしかありません。かつて、暗い歴史の中で、私たち日本人が謝罪した行為と何ら変わりはありません。数の暴力や圧倒的な声により米議会がその力に屈した形であり、どこにも正義はありません。米国務省やワシントン・ポスト紙のいうとおり、地名は歴史をもち、その意味を伝えています。韓国系住民の同じ声を合わせた数の主張で歴史は決められませんし、そもそも、州議会で歴史の教科書は書き換えうるものではないでしょう。
恐ろしいのは、これが通る、と知ったとき、この手法や手口で何でも通そうとすることです。「力は正義なり」とは、かつてプラトンが述べたことで、勝てば官軍、みたいな力の支配のことです。数、すなわち力、とは蔑むべき思考です。そのために、このあとに続く暗い歴史と一体化していったのです。まさに、歴史はそれを排除するべし、と私たちに教えてくれたのです。韓国系住民や今の韓国の、たとえば竹島や漁業権についての一方的な、しかも圧倒的なやり方にはおぞましさしか感じません(従軍慰安婦や侵略・併合などは違う)。彼らにとり、受け容れてはならない方法を自らが使うなどとは。自らにとって、被支配的な鬱屈間を卑怯な手法で「倍返し」したのでしょうか。してはならないことをして、正義が成り立つでしょうか。民主々義とは相容れない上に、繰り返しになりますが、歴史や歴史研究者の良心と事実とに基づき決められることです。声を合わせて押しかけてわーわーすればそれでなんでも正義なり、とは卑屈で幼稚な振る舞いだと思われてもしかたありません。人間として、あるいは民族として、国家として、あってはならない行為です。対等だからこそ、事実と歴史に基づく(歪曲したり捏造したりするのではなく)確かな認識からはじめなければなりません。
夕刻の交差点 ― 2013年12月25日 18時52分12秒
これはまた、ひとつのアナロジーとしてとらえることもできます。真実は真っ赤で、真っ赤な嘘ではないのに、他者の多くがそんな色違いを並べ立て、その声や数にものを言わせて言い立てれば、たとえ黒でも白戸なり、赤も緑も黄色もなくなってしまう、ということを意味しています。恐ろしいですよね。何が言いたいかというと、本当のことは違っていても数が多ければ正しい、と言いくるめることができる、ということです。多数は正義、ではなく、また、正しさは多数決で決まるのでもありません。
昔、12人の怒れる陪審員、だったか、そんな白黒映画がありました。アメリカの話でしたが、1人だけ、異論を唱え、少しずつ、他の人を説得し、納得させていく過程を描いたものです。議論や反論、検証、論証を経て、その現実、いえ、真実はどこにあり、誰が裁かれるべきかを問うた名作です。多数の嘘や暴論やでっち上げもまた、真実の前にはひれ伏すのです。理性と人間性に基づく、論理と正しい倫理が無実の人を救い、社会正義が実現されるのです。交差点、というのは、その分かれ道なのですね。
穏やかな帰路 ― 2013年12月23日 19時59分17秒
しばらくして、その2人は静かになりましたが、後ろに座った2人はたちがわるかったのです。始めからしまいまで、しゃべりっぱなし。それも大きな声で。はた迷惑だ、ということがわからないのでしょうね。走行音にも負けませんでした。他の人たちはだれも話さず、話しても、2人だけに聞こえる程度の声で静かに話すわけです。それが列車内のマナーだということはいいおとなならば分かっているはずで、それに抗うかのようなそのおしゃべりは耳障りぐらいではすみませんでした。それにしても、よくそんなに話すことがあるものです。あきれかえる、とはこのことでしょうか。
まあ、運のつきがよくないときは続くもので、乗り換えた列車内でもまた、すぐ近くにはまたまた、おばさん2人。これも大きな声でしゃべり続けること。いったい、きょうは何の日でしょうか。天皇陛下はこのようなおばさん2人組に遭遇したら、どんなお顔をされるのでしょうか。帰りはまったく、おばさん6人に祟られた道中でした。違和感と疲れ ― 2013年12月22日 17時23分21秒
今回の大学行きでの障害は、1つには携帯電話を(目の前に置きながら)持ち忘れたこと、2つにはオーバーコートを着てこなかったこと、3つには案内をよく読まず、無料の弁当を見送ったことでした。そして、不便さと不自由さをかこつことは遠い旅先では辛いことだと再認識したことです。やはり、チェックシートを作り、短い外出でも確実にそろえるか準備することだと。
昨日はどこかの小学生が大勢いて、ロビーや各階で騒がしく、引率していた指導者らしき(一応先生と呼ばれていた)者たちの不手際が恨まれます。どこか、変で、髪は染めていたし、携帯電話を子供たちの目の前や囲まれていてもてにしていじり、服装は子供並みでわたしはつい、訝しいまなざしを向けてしまいました。どうみても、小学校の教師にはみえませんでした。どこか、ここの空気が冷たく、人々は淡泊でひっきりなしの電車のようです。ビルと住宅で緑はほとんどなく、おかしな感覚にとらわれた到着時と幾分か和らいだ今の差違にまだ慣れません。昨日はとても疲れましたし、安まらない時は神経を高ぶらせます。明日、いくらか和らいでいくと信じます。今日の大学の講義でも先生が話されていたように、アリストテレス以来の論理の大前提は必然とされます。これはまた、数学の公理にもにて、その必然性はゆるぎなきっものと考えるのは幻想ではないと思うのです。この論理による誤りの矯正、つまり、論理療法も有効な手段として心理学的にも求めうる社会の改善の方法だとわかりました。少しでも、今の社会のゆがみを人々の力を合わせて直してゆきたいものです。
近づくクリスマス ― 2013年12月17日 20時52分43秒
キリスト教の習慣に過ぎないクリスマス、仏教徒のわたしにとり取り立てて何かを祝うものでもありませんが、商業ベースのことどもとは異なり、返った後も子供達のためにあるようで、なにかしら、ほっと、そして、希望を映すかのような光景です。先月から、1ヶ月も灯る光はそんな社会の灯火として、暗いこの世の中にひとときの明かりを暖かに見せてくれる造形です。通る人、見る人により、その思いはさまざまでしょう。そこにまた、明日への仄かな慈しみに満ちた光に新たな気持ちをいだかせてくれるものです。
辛く、悲しく、それでいて、いえ、だからこそ、将来への希望と願いと想いを胸に、歩く時を大切にしていきたいのです。少しずつ、前に進むために。近くて遠い山 ― 2013年12月01日 20時34分48秒
途中の崩壊場所では手前での大きな迂回と急斜面の登り道を新たに作り、分岐からはしんどい急登で、ちょうど12時前、長い歩きでした。でも山頂からは360℃の眺望で、天候もよく、やはり、前日に山歩きを決めたのはとてもよい選択でした。実に、7ヶ月ぶりでしたし、山の中はわたしにとってこの上ない心地よさを与えてくれ、山を歩くことで気持ちも良い方向にむかうと信じています。
下りも道はこのての山としては大変で、整備はこれからもかかせない、という、名の知れた山の割に歩く人は少ない、という現実と切り離せないというこの現状をどうすればいいのか、この町の人々共々、考える必要がありそうです。とくに、林道の崩れや荒れ様は早急な対策が求められます。とにもかくにも、好天で穏やかな初冬の山歩きは少し、健康を取り戻すきっかけとなったようです。
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