カルトや社会悪の形成の手段2014年09月17日 06時09分17秒

カルト集団や奇妙な新興宗教、果てはテロリスト集団まで、その存立を支えているのはその中や周辺・底辺で同居する女性達である、とのフランス2のニュースを見ると、そこにはよく言われる、「洗脳」や繰り返し流されるプロパガンダではない心情や観念形成に平行した刷り込みがあることはしばしば指摘されています。知らない人はいなくても、そこから自ら抜け出て正常で健全な精神と心や体を取り戻すことのできた人はごく少数であることもまた、報道されています。その場面や心情に訴える情緒を揺さぶることばや現実のほんの一側面、あるいは都合のいい写真や映像の一部分により、簡単に騙され、鵜呑みにしてしまって自らをその地や囲われた社会や建物に入り込んでしまった、そんな例はたくさんあるのです。

なにより、日常的に多く見られるのは、テロリスト集団に通底するそれの化けたような姿です。ことばの反復、声のある種の「プロパガンダ」 (Propaganda noir)、ありもしないことをさもあったかのように構成しそのイメージを植え付ける手法、間断的な誤った「情報」の喧伝や「伝言ゲーム」、人と人とのつながりを悪用し束縛する「ささやき」などなど、その手口の巧妙さは恐ろしいほどです。それでもなお、精神や心情の健全さを保つこともまた、私たちがバックボーンとしてもつ、社会を正常に機能させる倫理と論理とその中の道理に基づく人間らしさそのものを失わないよう、そういった悪のプロパガンダに導いてしまう、「正当化」という手法に染まることのない、疑いと拒絶の気概を持つ人々を育てなければなりません。

ひとりひとりの幸福と社会の持続を願うなら、そのようなカルトもテロリストも、あるいはもっと卑近な、変なことを認めないことをはっきりと、何度も話すことです。誤りも繰り返されるとそれに対する感覚をおかしくさせてしまいます。そんな神経回路を作り上げることのないように騙されない思考、つまり理性と知性と悟性を養うことこそ、肝要ではないでしょうか。

外界の怖れ2014年09月15日 06時44分04秒

きのうのことでしたが、電車に乗って目的地へと向かう途中、座っていたら乗り込んできた若い夫婦とその幼いこどもの連れが目の前をゆっくりと歩いて過ぎていきました。そのこどもはしきりに周囲の乗客をにこりともせずにキロキロと見渡していたのです。そして、空いた席、あるいは誰かが譲った席(どちらだったか失念)、に父親がそのこどもを座らせたのですが(おとなしくすわっていられるね、とかなんとか言ったようだ)、数秒後、急に泣き出して、その父親に縋り付いたのでした。大きな声で、ずっと泣き止まないままでした。

その間、乗客たちは乗り込んできたときからのまま無表情で、その親子に席を譲ってあげた眼鏡をかけた中年男性だけがにこにこしていましたが、都会からの電車ではその乗客たちの態度や表情はごく当たり前の光景だったでしょう。ただ、そのこどもにとっては、おそらく、初めての環境であり、その無表情さと冷淡さの混じった列車内の雰囲気はとてつもなく恐ろしい、不気味で耐え難い状況だったにちがいありません。

入ってきたときから、乗客一人ひとりの顔を矯めつ眇めつ見つめていたさまはまさに恐怖の館への第一歩であったのです。父親にしがみつく様子と泣く声の恐怖そのものの響きはそれ以外のなにものでもなかったと感じました。おそらく、推量に過ぎませんが、このこどもはまだ電車という環境に慣れるには相当な時間と体験が必要でしょう。もっと、親しみやすい人々との触れ合いを積み重ねていくことがその前提となるはずです。

求めなければ2014年08月18日 05時44分36秒

(いろいろな)注文の多すぎるものごとはその意に反して、何もできあがらないのです。ひとつのものをつくるのに注文が多すぎては中心にはわずかで、残りのほとんどがものの本体のようになってしまいます。本末転倒です。

必要なものは明示的に求めていかなければ為し得ません.求めなければ動かないし、得られない、とは摂理です。

命には必要なのです。それで、生き続けるのです。それは、他者のものでも、奪うものでもありません。でも、注文はゆがめば何もつくれません。早くに本体を得ることです。

台風ハーロン2014年08月10日 06時23分51秒

昨日午後から雨が降り出し、午後3時ごろには「通常の」降雨となっていましたが、その夕方、そして今朝にかけては次第に少雨となっていました。風は少しあるものの、警戒されたほどの大雨とはなっていません。今朝も空自体は明るく、前線と重なったほどには降雨は多くはないのです。ただ、台風の進路の東側にあたるわりには、蒸し暑さとは正反対の涼しさ、いえ、冷たささえ感じられるほどです。昨日も終日、22℃以下でしたし、こちらでは20℃ほどです。

ようやく、この地方の気温と釣り合いがとれてきたようですが、このままの気温の持続はまた、好ましくはありません。まだこちらでは、穂もでておらず、稲の生育に障害とならないか、心配されるからですし、一方、きのうのニュースで見た人も多かったと思うのですが、宮崎県あたりでは、実った(まだ青い稲でしたが)穂が水に浸かっています。それだけ、では判断も推量もできませんが、それだけでもこれからを危惧するには充分な鍵となると思うのです。

この11号を始め、今年の台風は直接的に日本列島に影響を与えています。近年の温暖化の定着傾向から―異変からプラトーに―想像される気候の変化の結果だと知るのは決して的外れではありません。変わってしまった環境と気候の平年化のもたらすさらなる変動と変化の広がりや定常化にこれからを憂うるのは私だけではないと思うのです。身近な測定と観察から注視していかねばなりません。

生きるために2014年08月05日 01時41分58秒

もし私たちが何かに束縛され、行動の自由を妨げられたり、心の自由を奪われたりする、およそこの「自由」なはずの日本においてあるはずのない非現実的な環境にあるとしたら、私たちにとってそれは何にも増して堪え難い非現実的な世界でしょう。もしそれが、日常的なある種の「ことば」によって作り上げあられるとしたら、それは伝達や意思疎通そのものを奪うことになるでしょう。それはまた、一方の側の「人間」であるはずの「力」をもった側にそれ自体を否定することにほかなりません。

どのようなことばであれ、話したり記したりする手段に否定を表す表現に縛られるとしたら、それ自体でその表現を不能としてしまうのです。ですから、その話者、発言者自身、その「自由」からの逃避を自ら求めることになるのです。かつて、エーリッヒ・フロムはその著書により、ナチスのその存在と束縛の非人間性を一方で指摘し、支配の反支配的な関係に唯々諾々とすることに私たち自身の自由の放棄を投射したのだ、と嘆いたのです。伝えるべきことば、そのための手段とその無意味さにそれ自身の言及する不能さと不毛さを見ることができないとしたら、その生を自ら否としてしまうのです。

生きるために、私たち自身はその生まれながらの自由をそのことばによって売り渡してはなりません。他者に対して発することばに否定を常に含む表現と言動にその話者自身はその生きる自由を自ら否定しているのです。ことばはそこに意思をもって伝達を担い、私たち自身の精神を具現化する手立てであるのですから、自らのことばにその否定を求めたとき、そのことばは自由を無くし意味も目的もなくなってしまうのです。

春の雪2014年03月07日 06時18分22秒

マンサクの花
きのうはそうでもなかったのですが、今朝は雪でした。降り積もるわけではなく、それほど季節風も強くなく、穏やかではあるのですが、どちらかといえば乾いた細かめの雪です。早朝、でるときはふっておらず、晴れ間もあったものですから傘も持たずにでてしまいました。途中からわーっと雪の空。

写真は先週の実家のマンサクの花です。早春の畑のこの色を見るときいつもこれからの幸福を願わずにはいられません。明るい日射しと冷たさの同居したそのときに早く訪れて欲しい本当の春を待ちわびているこの気持ちの絶えない日々です。

ブログ、ツイッター、ホームページなどは、他者への誹謗中傷やプライバシーの開披、あるいは名誉や尊厳、人権に関わる否定的なことばや侵害行為でなければ、本質的に自由です。どのような主張を述べ、展開するのかは自由です。良心に恥じないことばと社会正義のためにつづるそういったことばに非難や否定や排斥はあってはならないのです。

近くて遠い山2013年12月01日 20時34分48秒

多田ヶ岳
ようやく日程とわたしの予定は合う日を見いだしたので、今日は多田ヶ岳に12人で登りました。入山前はよく知られていて、町中から見える山なので、良い状態の道と直ぐに登れるところ、との先入観をもっていたのですが、登りでそれは大きな思い違いだと知るところとなりました。今日は山の会で登山道の整備をするため、わたしも荷を持ち、テープも使いながらの時間を過ごしたわけですが、有名な割に入山者もいないようで、あちこちを切ったり除けたり、看板や道標を修復したり、で山頂まで5時間もかかったのでした。

途中の崩壊場所では手前での大きな迂回と急斜面の登り道を新たに作り、分岐からはしんどい急登で、ちょうど12時前、長い歩きでした。でも山頂からは360℃の眺望で、天候もよく、やはり、前日に山歩きを決めたのはとてもよい選択でした。実に、7ヶ月ぶりでしたし、山の中はわたしにとってこの上ない心地よさを与えてくれ、山を歩くことで気持ちも良い方向にむかうと信じています。

下りも道はこのての山としては大変で、整備はこれからもかかせない、という、名の知れた山の割に歩く人は少ない、という現実と切り離せないというこの現状をどうすればいいのか、この町の人々共々、考える必要がありそうです。とくに、林道の崩れや荒れ様は早急な対策が求められます。とにもかくにも、好天で穏やかな初冬の山歩きは少し、健康を取り戻すきっかけとなったようです。

反社会的癒着2013年10月30日 21時17分07秒

浅黄斑蝶
みずほ銀行の反社会的勢力への融資問題は金融庁にも大きな責任がある、との指摘は大きな声となってそういった勢力への楯となったり反抗となったりせずに終わる傾向にあります。いつもそうです。ただ、その企業や行政当局の姿勢の弱さを非難して次第に収束、というパターンに終始するのです。なぜでしょうか。恐れや対応する個々人への暴力・暴力的威迫など、危害へとつながりかねない、という現実は毅然とした対応やそのバックアップを怯ませてしまっています。

私たちにとり、必要なのは、個々人にしばしば振り向けられる行為への、それこそ、集団あるいは連帯した社会的な拒絶と追放への行動です。ひとまかせや当事者だけへの非難などで自分たちはしりません、といった態度が後を絶たない反社会的勢力の横暴とそれらとの癒着に認可を与えてしまっているからです。より厳格な立法と警察の働きや市民の勇気と協力、教育における暴力に対する姿勢の醸成と意識的な抗う取り組みなど、弱いひとりひとりでの反抗ではできない大きな力を培うことが焦眉の急です。

翻って、ごく身近でも、暴力に弱腰でなお、逆らってはいけない、とか、おとなしく引っ込むように手なずける、そして別の世界に住んでもらう、といった対応こそうまくおさめるために必要だ、といった「常識」や「賢明さ」のために、いつまでもその根は絶たれないままに残存するのです。私たちひとりひとりにとって、何より求められるのは、使い古されたことばですが、強きをくじき、弱気を助ける、といったわかりやすくそれでいて、ほんとうに勇気を求められる真の姿勢と行動です。どの人にとってもそれは逃れていいことではありません。この社会から、まさに、「反社会的勢力」をなくすために、あなたの足下から見直し、困っている人に手をさしのべ、力になり、いつも変わらずに接し、ときに連帯してあらゆる暴力に立ち向かう、その姿勢を育てませんか。

遠隔地での講習2013年10月05日 17時48分09秒

三重大学
必修の講習のため、わざわざ遠い三重県まで昨夜着いて眠れないままに参加してきました。いや、眠い、眠い。講師の方(大学教授)もその話し方はちょうど、電車に揺られてうとうととする感覚で、かなり寝入りそうになりながらもなんとかその午後を切り抜けました。問題は明日の帰りです。翌日からまた仕事ですから。

そんなわけで、早めに大学に到着し、ゆっくりとキャンパス内を歩きました。私の通った大学より広そうです。さすがに国立大学で、豊かな様子が窺えます。ただ、手入れはおろそかになっているような植え込みとか、道路や構内を見るとそんなにきれいな行き届いた環境ともいえないかも、と思ってしまいました。お昼は生協の食堂、ではなく、その前のベンチでコンビニ弁当。学生たちに混じるには少々、勇気が要りそうでした。

5時までかかったこの講習、これで沢山のお金と時間を費やした甲斐があるかどうか、これからに、まだかかると思うと、今から疲れてきます。よいことがこれから合わせて重なることを祈って。

秋の涼しさと新カメラ2013年09月26日 19時57分38秒

早朝の見回り
昨夜からの強風は今朝も、午後も続いて、それと一緒に涼しい空気も運んでくれていました。おかげで体自体は楽にはなったわけですが、疲れというものはなかなか簡単には拭えないしろものです。昨日も、口唇の腫れ物を診てもらったところ、「疲れ」によるものだ、とのお医者のことばではっとしたわけです。薬の処方は別として、昨夜は夕食の後、寝てしまいました。それでも、暑さで倒れたのではないことが考えなければならない原因なのです。

暑さとは無縁の環境によることは心身の状態から知れたことで、その改善と修復の必要に迫られているのです。気温の低下はとてもよい薬となった一方、どこか無理している、という実感に自分自身のちぐはぐな心を感じ取ったのです。秋なのに。

今夜、新しいカメラが届きました。今までの黒一色の一眼レフとは異なる、明るい色のカメラです。なぜ、黒ばかりを造って売るのか、と怒りさえ感じていたので、手にした喜びは以前の一眼レフより大きいものがあります。もちろん、大陸の怪しげなカメラではなく、日本の有名メーカーのものです(ただし多国産)。これからの秋の涼しさの中、「疲れ」の解消にももしかすると一役買いそうです。