イノシシを食す ― 2013年11月04日 21時02分36秒
有害鳥獣のひとつとして、とりわけ近年、その出没数の激増とともにその処分は大きな課題です。この地方一帯の処分施設も建設、稼働し、そこから運ばれた彼らの肉だったわけです。ただ、原因を鑑みれば我々人間の側にあるともいえ、バランスを失っている生態系の姿でもあるのです。単なる棲み分けではすまない現実があり、かつてのような山の管理や幅広い利用と植生の回復と多様化の保持にこそ解決策があるようです。
日本の地理的な分散と再配置、さらには就業と産業のバランスの回復も必要です。そして、何より、持続的な環境維持には活動する人間とその再生産も不可欠なのは今更いうまでもありません。少子高齢化は大問題で、とりわけ労働と結びついた少子化の危機的な状況はすぐに取り組まねばなりません。しかし、今の政府は前にも増して無策無能といわざるを得ません。わたしも含めて、若い人たちが安心して、安定した生活を営み、こどもをつくることができる本来の社会にしなければこの国は滅びます。2日目の朝 ― 2013年10月06日 22時31分59秒
今日は大変だと思っていましたが、やはり、昨日のような状態では昨日の記述に課題が残っていました。今日は予想とは裏腹に結果を残せたのではないか、と。
お勉強をしにいったのですから、他に何もなかったのは当然といえばそうなんですが、何のアフェアもなかったというのはあまりに寂しく、悲しい過ごし方です。夕方までで疲れましたし、何かがあるとは期待もできませんが、もし幸運の巡り合わせがあれば、とはいつも外に出る度に思うのです。晴れたのに。遠隔地での講習 ― 2013年10月05日 17時48分09秒
そんなわけで、早めに大学に到着し、ゆっくりとキャンパス内を歩きました。私の通った大学より広そうです。さすがに国立大学で、豊かな様子が窺えます。ただ、手入れはおろそかになっているような植え込みとか、道路や構内を見るとそんなにきれいな行き届いた環境ともいえないかも、と思ってしまいました。お昼は生協の食堂、ではなく、その前のベンチでコンビニ弁当。学生たちに混じるには少々、勇気が要りそうでした。
5時までかかったこの講習、これで沢山のお金と時間を費やした甲斐があるかどうか、これからに、まだかかると思うと、今から疲れてきます。よいことがこれから合わせて重なることを祈って。忘れられること ― 2013年10月01日 20時35分54秒
日頃、あまり交通機関を利用しないせいか、生徒達が記述するのをみていると、この地域の何を本当にわたしは考えているのだろうか、と内省してしまいます。現実に利用する未成年の彼らとは生活の様式も形態も方向も異なっているのだ、と実感します。そして、自分自身の生活圏にはない風景と環境をことばだけで素通りさせてしまうとき、もうすでにこの地域の思考に入らない部分を知るのです。
多く、自動車の利用の自意識による推進と不便さの解消のためになおさらに交通機関からの迂回と排除を進めるとき、わたしたちは社会の成り立ちにこれまで大きな役割を演じ、なお若い彼らの意識に深く根ざす風景から遠ざかることに私たち自身が衰退と衰亡に加担しているのだと感じさせられざるを得ません。失うわけにもいかず、かといってその不便さからは逃れることしか生活そのものを成り立たせられないジレンマの中、ただ記憶や意識から外に追いやる以外、方法のない今をどうするのがいいのか、考え込んでしまいます。解決策などありません、と言い切ることは一つの逃げ道でしょうか。秋の涼しさと新カメラ ― 2013年09月26日 19時57分38秒
暑さとは無縁の環境によることは心身の状態から知れたことで、その改善と修復の必要に迫られているのです。気温の低下はとてもよい薬となった一方、どこか無理している、という実感に自分自身のちぐはぐな心を感じ取ったのです。秋なのに。
今夜、新しいカメラが届きました。今までの黒一色の一眼レフとは異なる、明るい色のカメラです。なぜ、黒ばかりを造って売るのか、と怒りさえ感じていたので、手にした喜びは以前の一眼レフより大きいものがあります。もちろん、大陸の怪しげなカメラではなく、日本の有名メーカーのものです(ただし多国産)。これからの秋の涼しさの中、「疲れ」の解消にももしかすると一役買いそうです。議論と公平と ― 2013年09月25日 22時25分54秒
今日も、生徒会のリーダーを選ぶための全校集会があったのですが、その場に現れた立候補者はたったの一人でした。前の学校でも一人で、形だけは演説を行い、聞いたわけですが現実には単なる信任か否か、というだけのもの。小中で現在どうなのかは知りませんが、高校でこの調子では多くの自治体で無投票の頻出は頷けるところです。円満に、とか、丸くおさめる、とか、ともすればいいじゃない、と片付けられることの多い社会でどれほどの本質的な議論が期待されるでしょうか。
そして、裏では陰の取引や汚い裏取引、卑怯で卑劣な作為などが横行します。『分かるだろ』的な言い方や口封じ、無言の圧迫や示し合わせなど、本来受け容れてはならない少数への陰の暴力などが正論や公平な言論や存在すら否定している現状があるのです。立場がどうであれ、一旦、暴力的な行為(腕力や物理的な行為ではなく)が為されるとき、そこに公平・公正・衡平・対等な一人一人の存在は保証されません。何をするにしても、どのひともそういった立場での活動や仕事、言論が堂々とされないところでは何も成り立ち得ませんし、何一つ生まれません。建設的で前向きな社会の基盤を否定するような人々を作り出しているままでは教育をいくら叫んでも無意味でしょう。おとなとして必要なのはこの排除に他なりません。街灯のLED化 ― 2013年09月24日 21時29分19秒
一方、その導入コストは大きく、これのみによりなかなか広く使われていない理由なのはこれも誰しもが分かっていることです。ただこれから先や電力消費の点を考えれば、初期投資の大きさは補って余り有る、といえることもまた、誰しもが知るところでしょう。
景観やモダンな印象は意外によろしく、うらぶれた感じの電灯や暗い道を思うと、どんどん、導入して欲しい、と強く感じます。古くさい町中に現代的な風景を取り入れる、そしてそれを広めることで衰退の一歩を辿るこの町にも新しい時代を予見させてくれます。違ったものの導入や昨日と違う明日を築くためにも異質とさえ言えるかもしれないことを進んで招くことにためらいや忌避あるいは排斥的な感覚をもつことは百害あって一利なし、です。文明開化の光のような感覚に襲われた朝でした。自由な心 ― 2013年09月23日 21時25分08秒
鳥のように………とうたうこの歌をくちずさむとき、わたしたちはまた、下界の狂おしいほどの抑圧的な環境にやりきれない思いで抵抗しているのです。そのために、内面の自由と私的生活は両輪として社会において認知されることは必然的に求められるのです。ひとりひとり、その思いを持ちながら、なぜ実現できていないのでしょうか。
自分が求めるなら、他者の自由を侵害してはならない、そういう約束を社会的に、もちろん、法的にも合意をもって生きているはずなのです。いうまでもなく、それは他者の権利を侵害するものであってはなりません。ただ、開放感をもしこの3日間で味わえなかったとしたら、この社会の構築にいまだ成功を収めてはいないことを私たち自身、再認識すべきです。JR北海道にしても、ひとりひとりの責任として、この社会にいきているというおよそ感覚的な理解を見失っていると気づくことです。今一度、足下から、自分自身から見つめ直してください。月明かりの朝 ― 2013年09月22日 07時28分57秒
ちょうどこの時期、スーパーからの帰り道は太陽の沈む向きとわたし(たち)の進行方向は一致し、その眩しさの中、信号が見えません。なんとなく走り抜ける走行車の流れに従い、わたしもまた、盲滅法に走り抜けるのです。ええんかいな。
そして、けさは曇りがちとなりつつあり、南東で発生した台風20号にまた蒸し暑さを予感し、嫌になるのです。そんな、つまらない日曜日、せめてもっちりパン(ごはんから作ったクルミ入りパンです)を噛みしめ、東に臨むのです。地域の貧しさと恐ろしさ ― 2013年09月21日 20時13分52秒
問題なのは、その男の子が黙ってしまってそんなことをしたことに罪の意識をもっていないかのような様子だったことです。お母さんがすぐさま叱れなかったのはよくあることで、その心情や戸惑いは理解できます。ただ、この男の子のように、そういった結果の分かっていることに躊躇いもなく、ふざけて平気でしてしまうとことに恐ろしさを感じたわけです。男の子は、『…大丈夫?痛かった?ごめん、もうしない』とでもいったらそれはそれで、大事に至らなければいいのですが(よくはないけど)、何も言わずに済んでしまったことです。
わたしはこの土地に来て、そういった光景や他所での事件を目耳にするたび、そして自分自身、その被害に遭うたび、この地域の人々の心の貧しさとひとの痛みを感じない暴力(腕力にとどまらない)の蔓延を実感しているのです。ある高校でも、以前に記事にしたかもしれませんが、誕生日の祝いだとかで胴上げをし、床に落とすという「悪ふざけ」を繰り返し、教室から別の部屋にわざわざ運んでまた胴上げ落としを繰り返す、という30分も続いたという、事件がありました。救急搬送されたのですが、そんなことをしたら命にさえかかわることなど、高校生ともなればする前にわかりきっていたはずですが、大勢でそれをして誰もとめなかった、という、新聞記事にもなった話を聞いて、さもありなん、と納得してしまいます。先のこどもにしても、ちょっと行き過ぎれば大変なことになっていたかもしれません。柔らかく弱い成長途上のこどもの首なのです。大げさではありません。わたし自身、生徒達の異常で異様な振る舞いに驚き、怖くなったことも何度かあります。また、住宅の周囲でのおとなやそのこどもの行為/言動に同じ気持ちに何度なったことでしょうか。こういった行為やそれらに対する「おとな」たちの姿勢を知る度に、この地域、土地の本質に根ざした振る舞いや行いである、としか思えないところに気づかされるのです。どこか、ここの人たちはこどもの時からそういったことを「許されて」きたために、高校生になっても、そして、体だけ「おとな」になっても平然と弱い人、弱い立場の人に対してその痛みや苦しみを全く感じることなくし続けている、そんな地域の体質のようなものをもっているのではないか、という強い心象を抱いています。
職場でも、パワーハラスメントをしてなお威張る人たちや嫌がらせ、一方的な決めつけで見下したり追いやったりするような行為に何の反省も罪の意識も持たないところをしばしば身をもってしることが多いのです。こどものときに、といっても、「おとな」達がそんなんですから、育たないのではないか、と考えてしまいます。わたしもようやく、恐怖に少し打ち勝ち、生徒達に対しても注意や警告をし、強い口調で言うことの必要性を認識できるようになったのですが、本来、教育はそういったところにはない、という有識者や経験者たちの箴言に戸惑いとためらいと迷いをいつも感じてしまうのです。どうするのが最良なのか、ということです。怒りを露わにし、叱りつける、怒鳴りつけるのは最短距離かもしれませんが。
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