地域の貧しさと恐ろしさ2013年09月21日 20時13分52秒

船の係留場
夕方とはいっても日は落ちたあと、スーパーに買い物に行きました。そこで耳目を集めた出来事が。ある男の子が一緒にいた弟らしきこどもの髪の毛をひっぱり首を後ろにまげたのです。そして、「当然ながら」その小さい方のこどもが『ぎゃあ~』と大声を上げたのでした。その場はしん、となり、男の子が止めてまた元の状態に戻りました。お母さんらしき女の人は目を丸くしながら、『あんたなにしとんの』と男の子に向かって言いましたが、小さな子のほうが口を開いて『だって××ちゃんが………』といっただけでした。わたしもお母さんにはいえませんが、近づいて、他人のこどもとはいえ、しかるべきだったと後で思ったわけです。

問題なのは、その男の子が黙ってしまってそんなことをしたことに罪の意識をもっていないかのような様子だったことです。お母さんがすぐさま叱れなかったのはよくあることで、その心情や戸惑いは理解できます。ただ、この男の子のように、そういった結果の分かっていることに躊躇いもなく、ふざけて平気でしてしまうとことに恐ろしさを感じたわけです。男の子は、『…大丈夫?痛かった?ごめん、もうしない』とでもいったらそれはそれで、大事に至らなければいいのですが(よくはないけど)、何も言わずに済んでしまったことです。

わたしはこの土地に来て、そういった光景や他所での事件を目耳にするたび、そして自分自身、その被害に遭うたび、この地域の人々の心の貧しさとひとの痛みを感じない暴力(腕力にとどまらない)の蔓延を実感しているのです。ある高校でも、以前に記事にしたかもしれませんが、誕生日の祝いだとかで胴上げをし、床に落とすという「悪ふざけ」を繰り返し、教室から別の部屋にわざわざ運んでまた胴上げ落としを繰り返す、という30分も続いたという、事件がありました。救急搬送されたのですが、そんなことをしたら命にさえかかわることなど、高校生ともなればする前にわかりきっていたはずですが、大勢でそれをして誰もとめなかった、という、新聞記事にもなった話を聞いて、さもありなん、と納得してしまいます。先のこどもにしても、ちょっと行き過ぎれば大変なことになっていたかもしれません。柔らかく弱い成長途上のこどもの首なのです。大げさではありません。

わたし自身、生徒達の異常で異様な振る舞いに驚き、怖くなったことも何度かあります。また、住宅の周囲でのおとなやそのこどもの行為/言動に同じ気持ちに何度なったことでしょうか。こういった行為やそれらに対する「おとな」たちの姿勢を知る度に、この地域、土地の本質に根ざした振る舞いや行いである、としか思えないところに気づかされるのです。どこか、ここの人たちはこどもの時からそういったことを「許されて」きたために、高校生になっても、そして、体だけ「おとな」になっても平然と弱い人、弱い立場の人に対してその痛みや苦しみを全く感じることなくし続けている、そんな地域の体質のようなものをもっているのではないか、という強い心象を抱いています。

職場でも、パワーハラスメントをしてなお威張る人たちや嫌がらせ、一方的な決めつけで見下したり追いやったりするような行為に何の反省も罪の意識も持たないところをしばしば身をもってしることが多いのです。こどものときに、といっても、「おとな」達がそんなんですから、育たないのではないか、と考えてしまいます。わたしもようやく、恐怖に少し打ち勝ち、生徒達に対しても注意や警告をし、強い口調で言うことの必要性を認識できるようになったのですが、本来、教育はそういったところにはない、という有識者や経験者たちの箴言に戸惑いとためらいと迷いをいつも感じてしまうのです。どうするのが最良なのか、ということです。怒りを露わにし、叱りつける、怒鳴りつけるのは最短距離かもしれませんが。

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