政治への取り組み2014年03月20日 21時24分15秒

NPO法人代表
きのうのNHKニュース9での若者たちの政治参加についてのレポートは注目すべきところでした。きょうのようなくだらない予算の話よりずっといいと思ったのはわたしだけでしょうか。

国家予算が債務の巨大化の中で無意味に作られ、消費税の増税による其の場凌ぎのごまかしがまかり通る現在、昨日のNPO法人の原田さんのような若い力と発想と行動こそ必要とされます。特定の政党とかではなく、彼らをも含めて私たちがもっと興味関心を持ち、私たちが、いえ、我々こそ政治の主役である、という強い信念を持つべきときなのです。

そのために、なんらかの政治参加や議論の定期的というよりももっと、定常的な場を設け、積極的な取り組みを促していく、そんな社会の有り様を私たち自らが構築することが私たち自身に於いて求められているのです。『何一つ変わらない』、とか、『私の一票で何も「変わらない」』といった受け身の姿勢では、まさに、何にも「変わらない」のです。我々の意識的な発言と行動こそが社会を、日本を「変えていく」からです。原田さんたちの取り組みだけではない、草の根の社会の活動を創り出し、広めれば社会も日本も「変えられる」、そう私は信じています。

議論と公平と2013年09月25日 22時25分54秒

イギリス議会
仲良しクラブ、とはしばしばなあなあで対立を意図的に避けて暗黙の了解(って、どうやるの?)を合意として全体の「総意」なるものを作り出すことを形容して言われることばです。ときとして、鮮明で先鋭な対立を回避し、妥協を図る、という意味で有効な場合はあるのですが、それもまれだというのはそれが暴力的な対立では無い限り、本来認められる形態ではない、というところに民主々義のそれこそ、合意と認識が存在するところです。

今日も、生徒会のリーダーを選ぶための全校集会があったのですが、その場に現れた立候補者はたったの一人でした。前の学校でも一人で、形だけは演説を行い、聞いたわけですが現実には単なる信任か否か、というだけのもの。小中で現在どうなのかは知りませんが、高校でこの調子では多くの自治体で無投票の頻出は頷けるところです。円満に、とか、丸くおさめる、とか、ともすればいいじゃない、と片付けられることの多い社会でどれほどの本質的な議論が期待されるでしょうか。

そして、裏では陰の取引や汚い裏取引、卑怯で卑劣な作為などが横行します。『分かるだろ』的な言い方や口封じ、無言の圧迫や示し合わせなど、本来受け容れてはならない少数への陰の暴力などが正論や公平な言論や存在すら否定している現状があるのです。立場がどうであれ、一旦、暴力的な行為(腕力や物理的な行為ではなく)が為されるとき、そこに公平・公正・衡平・対等な一人一人の存在は保証されません。何をするにしても、どのひともそういった立場での活動や仕事、言論が堂々とされないところでは何も成り立ち得ませんし、何一つ生まれません。建設的で前向きな社会の基盤を否定するような人々を作り出しているままでは教育をいくら叫んでも無意味でしょう。おとなとして必要なのはこの排除に他なりません。

重なりに善し悪し2013年09月11日 21時23分35秒

山々の重なり
けさの快晴の空の下、見える山々の重なりは次第に青をましていき、ついには薄く、空に戻ることを教えてくれていました。こういった重なりは美しく、穏やかにしてくれます。一方、悪意や醜さに基づく声や行為の重なりはとても堪え難く忍びがたく許容できない原因の一つです。そして、度重なる福島原発の放射能漏れはとても首相のいう制御下にあるとは言えない状況です。東電による発表、今夜のニュース9でもその東電による説明を現地で受けたキャスターの声、そこにはいつ終わるともしれない現実の困難さを映していました。

光の重なる様を見つめるとき、生きている実感にさえ浸ることができます。良きもの、良きこと、良き兆し、そんな時間と空間の共有こそ、私たちの望む姿です。幾重にも、とは文学的です。そのことばで甘利経産相は福島の一号機の汚染水漏れを防ぐ、とのたまったのですが、その重なりで緩やかにしたとしても、漏れ自体を何らかの方法で止めなければおなじことです。いまからでも、別の工学的な手法によるフェイルセーフの機構を考案すべきです。文学的な実効に乏しい間に合わせではよろしくありません。

思えば2年半前、事故を、いえ、津波を防げなかった思慮のなさはそういった冷却水タンクの羅列にその重なりを見ます。始めから無理な立地と安易な建設・予想しなかったが故の海への対処などを顧みれば、そこに見えるのは幻でしかない原子力の利用です。廃棄物をのみ考えても重なる目を閉じた人々の愚かさだけに割に合わない愚行を始めてしまったつけを今払い続けなければならない、汚染水と同じ現実の中に私たちはいるのです。

神様のお遣い2013年09月03日 13時56分23秒

ウスバキトンボ
午前中は天気予報(気象情報)は見事に外れて、晴れて暑い南風の吹く時間を過ごせました。運動がてら、海岸まで歩きました。残暑の日差しの中、釣りをする人、海岸でものを燃やす人、歩く人、などなど、週日にもかかわらずいるときはいるものです。わたしはといえば、振替休日2日目で少しばかり落ち着いてはいたのでした。久々に歩いたような気がします。山の中腹のお寺の上の神社にお参り。

見ると、狐が一匹登りの階段の下の方につくねん、とお座りしていました。わたしに気づき、山の中に消えたのでした。ここには4つの社があり、その一つはお稲荷さん。昨日と打って変わった明るい日射しを浴びようとでていたのでしょう。ちょうど、まさに、神様の前で。どこか、お迎えに会ったようで、よい兆しなのかも、と思うのです。弁天様に続いて、ここでもお祈り。写真はとれませんでした。神様のお遣いですものね。

午後は1時を過ぎて、降雨となる、晴れのち雨。気象情報などあてにする方に間違いがあるのです。外れて、万歳。明日につながる雨になりますように、頭の痛さと重さを生み出した帽子なしの太陽に。

きのうの風景2013年08月22日 07時05分21秒

大川遠景
きのうはさるところに面接に行って参りました。結果はまだ決まらない結果を残すことで、不確かなあしたに陽炎の中を見るようです。却って、遠くの風景の方がはっきりと目に残ります。

将来、いえ、あしたのこの国の行く末を考えるために、2冊の書籍を亡くなった書店ではない今もある書店で購入しました。これからを考えなければならないのです。また、その内容については述べたいと思っています。

今朝は狐の嫁入りでそのあと干しました。この暑さは困ります。頭も体も憔悴しきっています。本当に、愚かさには困ったものです。明らかになってもまだ変えようとしないのですから。

生活コストの増大2013年08月01日 20時57分01秒

コストが
フランス2ではしばしば数値をはっきり挙げて社会の側面を明確に報道しています。きょうはそのひとつで、生活コストの増大を取り上げていました。切り詰める、つまり削減できるところは減らすのですが、どうしても少なくできないところもでてきます。収入はどの国、社会でも上がらず、一方で社会的な費用や事業等での歳出は増大する傾向にあります。そして、その方がバランスを取る道筋よりも大きくなり続けるのです。

先頃も、ガソリン代の急騰が新聞に載ってました。159円前後とか。一気に、2週間で10円(1Lあたり)高くなっています。同様に、電気料金やガス代、輸入にかかるコストや原材料費の高騰、当然ながら製品は高くなるのです。インフレターゲットを設けてその変動幅に調整して維持することで一定の経済的な成果を導きだそうという、扱いやすい手法で見かけの豊かさの再興を図っていますが、それとて、わたしたちの収入の頭打ちや(むしろ目減り)さまざまな出費の大幅な増大を考えれば無意味以外の何ものでもありません。

多くの人々が何となくのって自民党の伸長を後押ししてはかない成長幻想に浸ることを夢見たかのようです。でも、社会的なコストはもっと、たとえば、テレビなどではっきりと誰にでも分かる形で示すことです。本当の姿、真実を伝えることこそ、報道のあるべき姿であり、そこからわたしたちは考えなければなりません。どのようにこれから、いまからを変えていくか、私たち自身の喫緊の課題として知らぬ顔は許されないからです。

わたしたちの存在2013年02月16日 20時06分12秒

(男女)共同参画
図のキャッチフレーズをご存じでしょうか。内閣府の昨年の男女共同参画週間のポスターです。これはそのまま継続的な標語として充分すぎるほどの意味を持っているといえます。何より、その、『あなたがいる わたしがいる 未来がある』は生物としてのヒトの語り継いでいく、種の存続そのものを意味します。それはより確かな、ポジティブな人々の建設的で生産的な活動を促進することばに他なりません。その反対をいえば、その継続を企図する者たちにわたしたちは退場を命ずることでもあるのです。<p>
きょうもまた、午後、必要なことどもの手続き的な行いのために出かけました。あちこちを巡るのは疲れます。ただ、その方向や訪問になんら制限も障害もあってはなりません。わたしだけでなく、正常でまっとうな人たちならば誰でも、その道を妨げられてはならないのです。あたりまえの、当然の人としての権利、基本的人権は侵害されることなど、あってはならないのです。だからこそ、その行為者はその罪故に罰をこの日本社会の存立の名において受けなければなりません。それを拒むのなら、もはや少なくとも日本人ではありえないでしょう。</p>
そして、これはまた、わたし自身にも保証されています。わたしがどこに何をしに行こうと、どんな人に会おうと、何を話そうと、それは悪意ある他者には無関係であり、なんの関わりもありません。善意ある心遣いや親切をその行為として結果として受け取ることにわたしはもちろん拒むことはないでしょう。ただ、現在何も特にありません。どこかで、誰かの優しいことばや振る舞いに触れて小さな幸福を得ることをただ虚心から願います。そして、『未来ある』共有を得ることにこれからも期待して生きていきたいと強く思っています。

クレマチスの丘2013年02月11日 19時10分06秒

IZU PHOTO MUSEUM
宮崎学氏の動物写真展に出向いてきました。初めての土地、変な細い田んぼ道を通り、ぐるっと回ること9分、看板のある交差点に出て走らせ、着いたのは午後3時前。こぎれいな緩やかな山の上、どこか場違いな感じながらも目的の写真を見たのでした。工夫して撮影されていて、どれも見事な写真でした。フクロウの写真などは簡単には撮れません。また、けもの道の赤外線シャッターによる小動物や熊の写真は目を引きつけます。私も、テンを数度見かけたのですが、交通事故に遭った写真しかありません(以前、このブログで紹介)。<p>
今日も晴れていて、そんな中にひとりいるのは不自然ささえ感じさせられます。もっと早くにこちらに来ていれば、と今更ながら振り返ること何度目でしょうか。冬でも降雪もなく、晴れている、そんな環境でのびのびと過ごせたらどんなに幸せだったか。いつも遠い春を見つめているような、そんな哀しい生活の続く時間に無為を知るのです。</p>
静止した動物たちの姿、その命の一瞬に駆けた輝きにわたしたちは明日を思い、彼らの歩みに昨日を思いやるのです。無心に生きる時間のおそらくは彼らにとり一定でも一様でもないはずの無意識の流れの中に私たち自身の生きる道の一通りではない、ただ一度の人生の一瞬一瞬を切り取ったその本来共有しているに違いない時空の不如意さを発見するのです。生と死、それらを並べたとき、宮崎学氏は不可分ではない時間と営為を教えてくれているのです。

独裁者は去るべし2011年11月13日 08時40分33秒

清武英利球団代表
プロ野球の巨人軍のいわゆる「内紛」や「騒動」は内部の問題としてとらえる向きが広がっていますが、これは単なる確執や意見の相違などの問題ではありません。渡辺恒夫氏のコメントでも上がったオリンパスなどの事件とは異なる、というのは本質的に誤りです。これもまた、大阪府の橋下氏の独裁的手法や発言等と変わらない、いえ、もっと根の深い病根であり、これは双方ともになくすべき民主主義に反する大きな問題なのです。

私は個人的に、事情や詳細よりも何よりも、相談することさえなかなかかなわなかった清武氏の心情と立場を重いものとして理解します。誰かが、なんらかの形で言わなければ顕在化も人々に知らしめることにもならなかったわけで、その意味でも清武氏を全面的に支持します。今回に限らず、渡辺氏はその独裁的な手法で批判を浴びています。仮にも社会の公器である新聞を牛耳り、その資金にものを言わせた戦力補強など、おそらく一般庶民の私などよりも野球界の人たちならその内実をよく知っているはずです。

最初に述べたように、本質的に、リビアのカダフィやオリンパスの旧経営陣、大阪の橋下氏などと全く変わらない、いえ、その隠然たる影響力などを鑑みればそれ以上に、この民主主義社会の敵といえるのです。これはまた、どんな人々にもいえることで、誰かが誰かの支配者であってはなりませんし、ましてや、どんな形であれ、絶対少数を含む少数の人を意のままにするなど、決してゆるされません。どんな形であれ、独裁者はすべて、消えなければなりません。それが、この現代日本の、この社会の法律以前の哲学であり、規範であり、礎です。

リビア解放記念日2011年10月24日 11時31分07秒

解放宣言
昨日はリビアの暫定評議会によりリビアの解放が宣言された日でした。今朝のニュースで時差の関係で報道されたわけです。ニュースの中で女性が涙を流しながら祝っていましたが、またまた私も思わず涙がでたのです。重苦しさ、ちょっとしたなんでもない、些細なこと、気まぐれ、思いつき、そういった考えられない、取り上げてはならないことで人々の命が奪われた、と証言されています。いえ、大衆の面前、目の前でそうやってほとんどどうでもいい理由で処刑されてきたのです。そんな、憎むべき独裁政治と恐怖政治からの解放は何にもまして喜びであった、その日を祝わずして何を祝えというのでしょうか。

この日本でもまた、本当の、心からの自由な発言、言論、行動、そういったものが時として、いえ、しばしばなにがしかの忌まわしい「権力」や「暴力」によって奪われることがあるのです。でももちろん、自由と民主主義の国であるこの日本では決して許されることではありません。あらゆる恐怖からの自由、思想・良心の自由、互いを慈しみ思いやる真の意味での豊かな心、これらは本来私たちがその共同体としての歴史の中で培ってきた財産だったはずです。もちろん、その名を借りて、たとえば弱者や意見などを異にする人を区別したり排除したり虐待したり蹂躙したりすることなどは許されません。でも基本的にそういった支え合う精神こそなお必要とされるのです。

日常的な抑圧はまたこの小さな町でも行われています。その象徴としての午前11時半のある特定の歌手の持ち歌を拡声器で流す強要があります。誰もが自由に声を出し、批判し、変えていく、そんな当たり前の環境をいまだ造れないでいるこの社会の貧しさや情けなさに慄然とする瞬間さえ感じさせます。リビアの人たちが禁止されていた歌を解放の日に斉唱したとき、ほんとうの歌を人々の心に自由という精神の象徴として受け入れた、と思います。でもこの町のその歌はそれとは正反対の、私権や暴力の象徴でさえあるのです。