悲しい時代2015年09月28日 18時39分44秒

今朝の「おはよう日本」(この番組名に首をかしげる方は多いでしょう)の関東甲信越版(7:45~8:00)でコオロギ相撲を取り上げていました。奇麗だった(失礼!)和久田麻由子アナはとても楽しそうに笑い、突っ込みをいれていましたが、この時代になぜ?と感じられた方は正常な感覚をお持ちだと共感を覚えます。大の大人がまた今になって、 とそのごく最近始めたのも疑念や悲嘆(あるいは慨嘆?)に繋がるのは私だけではなかったと思うのです。子供のころ、田畑や草むらで捕まえてきては同じように子供同士でなさった方も多いと信じます。

今の時期、夜になると(日没後2時間弱後くらい)スズムシと前後して聞こえてくる虫の音と共に私たち自身の心の安らぎに働きかけるように秋の夜の静謐さを「その音色」に増幅させて時空に共鳴させて残響として私たち日本人に社会のある姿を映し出しているかのような感覚を覚えさせます。ここは日本、我々は他ならぬ日本人なのだ、と再認識させてくれます。コオロギより、スズムシの方が我々に好まれる理由です。時折その弦を止め、再開させてより強く、また更に染入らせるように響かせているのは彼らの命のメッセージだと信じるのは思い込みが強すぎるでしょうか。

麻由子さんは若く都会に住まわれているからかもしれません。ただ、私たちの子供のころのコオロギの対戦などの遊びとは異なる今になっての中国流のコオロギ相撲に違和感と共に秋の夜のもの悲しさとは全く異なった現代の悲しい姿、例えば、小さな昆虫の生の儚い命を懸けてつなぐ悲しい旋律を果たしてその企画と日本とは感覚や情感の違う中国直輸入での遊びのなかで語り継ぐ~何か~を見出させることに繋がるとは思えません。知られていたこのコオロギ相撲の突発的な再開はやはりその場限りに留めたいと願います。共に生きる小さな命の生の発露に我々自身の命を映し、見つめなおし祈る我々自身は奏でられる音色と語り継ぐべき命の実存にそれを体に響かせて明日を知る、日本の有様そのままの姿は決して中国流のコオロギ相撲(対戦)ではありますまい。美しかった麻由子さんの空間への投影として受け止めていきたいのです。

カルトや社会悪の形成の手段2014年09月17日 06時09分17秒

カルト集団や奇妙な新興宗教、果てはテロリスト集団まで、その存立を支えているのはその中や周辺・底辺で同居する女性達である、とのフランス2のニュースを見ると、そこにはよく言われる、「洗脳」や繰り返し流されるプロパガンダではない心情や観念形成に平行した刷り込みがあることはしばしば指摘されています。知らない人はいなくても、そこから自ら抜け出て正常で健全な精神と心や体を取り戻すことのできた人はごく少数であることもまた、報道されています。その場面や心情に訴える情緒を揺さぶることばや現実のほんの一側面、あるいは都合のいい写真や映像の一部分により、簡単に騙され、鵜呑みにしてしまって自らをその地や囲われた社会や建物に入り込んでしまった、そんな例はたくさんあるのです。

なにより、日常的に多く見られるのは、テロリスト集団に通底するそれの化けたような姿です。ことばの反復、声のある種の「プロパガンダ」 (Propaganda noir)、ありもしないことをさもあったかのように構成しそのイメージを植え付ける手法、間断的な誤った「情報」の喧伝や「伝言ゲーム」、人と人とのつながりを悪用し束縛する「ささやき」などなど、その手口の巧妙さは恐ろしいほどです。それでもなお、精神や心情の健全さを保つこともまた、私たちがバックボーンとしてもつ、社会を正常に機能させる倫理と論理とその中の道理に基づく人間らしさそのものを失わないよう、そういった悪のプロパガンダに導いてしまう、「正当化」という手法に染まることのない、疑いと拒絶の気概を持つ人々を育てなければなりません。

ひとりひとりの幸福と社会の持続を願うなら、そのようなカルトもテロリストも、あるいはもっと卑近な、変なことを認めないことをはっきりと、何度も話すことです。誤りも繰り返されるとそれに対する感覚をおかしくさせてしまいます。そんな神経回路を作り上げることのないように騙されない思考、つまり理性と知性と悟性を養うことこそ、肝要ではないでしょうか。

外界の怖れ2014年09月15日 06時44分04秒

きのうのことでしたが、電車に乗って目的地へと向かう途中、座っていたら乗り込んできた若い夫婦とその幼いこどもの連れが目の前をゆっくりと歩いて過ぎていきました。そのこどもはしきりに周囲の乗客をにこりともせずにキロキロと見渡していたのです。そして、空いた席、あるいは誰かが譲った席(どちらだったか失念)、に父親がそのこどもを座らせたのですが(おとなしくすわっていられるね、とかなんとか言ったようだ)、数秒後、急に泣き出して、その父親に縋り付いたのでした。大きな声で、ずっと泣き止まないままでした。

その間、乗客たちは乗り込んできたときからのまま無表情で、その親子に席を譲ってあげた眼鏡をかけた中年男性だけがにこにこしていましたが、都会からの電車ではその乗客たちの態度や表情はごく当たり前の光景だったでしょう。ただ、そのこどもにとっては、おそらく、初めての環境であり、その無表情さと冷淡さの混じった列車内の雰囲気はとてつもなく恐ろしい、不気味で耐え難い状況だったにちがいありません。

入ってきたときから、乗客一人ひとりの顔を矯めつ眇めつ見つめていたさまはまさに恐怖の館への第一歩であったのです。父親にしがみつく様子と泣く声の恐怖そのものの響きはそれ以外のなにものでもなかったと感じました。おそらく、推量に過ぎませんが、このこどもはまだ電車という環境に慣れるには相当な時間と体験が必要でしょう。もっと、親しみやすい人々との触れ合いを積み重ねていくことがその前提となるはずです。

脳とヒト2014年08月18日 06時02分58秒

行おうとしているときに外部から何かがあるとそれはその行為や前提となる思考の妨げになります。それの繰り返しは短期記憶を破壊し、あるいはもっとひどいことに、その形成過程を断ってしまいます。これが長く続くと記憶の機能に障害が生まれてきます。これはなにも、「学習」に関わることだけで無く、日常生活におけるさまざまな障害につながって現れるのです。

他人の指図や命令(強要)はそういう障害と密接に関係します。そのある種の「受容」や「従順」は脳の機能にとって著しい妨げとなります。それゆえに多くの人々(あるいはヒトの多く)は抗うのです。それは、意思や自我の対極にあるからでしょう。ただ、それと共に、ヒトの社会の原理的な価値判断や倫理観念は多くの人々に意思や自我と同じ範疇にある「私たち」という集合の中にごく自然に見出されるものです。社会的に、あるいは個々人のよりよい関係に必要で自然に形成されることが期待されるのであればそれには妨げは形成されないでしょう。多くの人々の社会的な教育、つまり形成過程=「人格」の完成に導く時間=はそこにヒトの社会の尺度と価値を求めるのですし、これはまた、脳の障害を低減させ、機能の回復へと導かれるのです。

ヒトの生体としての拒絶反応のひとつの発現としての関係性への抵抗と回避や疎外その統合的な生存に必然的であるといえます。様々な生体反応として現れる種々の症状はヒトの社会の健全な存在に不可欠なのです。多くの人々にとってそれが自然な存在であるわけです。その妨げとなっているのは、その障害になる傷害行為などが多くの人々のヒトとしての精神的な存立に障害となっていることなのです。精神の健全性とは相容れないからです。それ故に、その紛れもない一員にとって責を負うことなど、どこにもないのです。

生きる前提2014年08月05日 06時01分12秒

なによりも、私たちはその存在の人としての生活が人間性に対する基本的な肯定と尊厳にあることを忘れてはなりません。その本質的な意味で、暴力やその形態における威迫、脅迫、抑圧、あるいはあらゆるその文脈での恐怖感からの脱却や救済が必要です。脅かされる何物かがあるのなら、その物理的な回避はとりわけ、弱者に求められます。

また、どのようなそれらの正当化や詭弁論理による是認は私たちは受容できないのです。これは私たちの存在に関わることだからです。暴力や巧妙で狡猾な手口による幻惑や誘い込み等の流布による恐怖感を私たちは手を取り合い、はねつけなければなりません。無知や無垢につけ込む行為から私たちは自由でなければなりません。真意を隠した接近に否、と言わねばなりません。

生きるために2014年08月05日 01時41分58秒

もし私たちが何かに束縛され、行動の自由を妨げられたり、心の自由を奪われたりする、およそこの「自由」なはずの日本においてあるはずのない非現実的な環境にあるとしたら、私たちにとってそれは何にも増して堪え難い非現実的な世界でしょう。もしそれが、日常的なある種の「ことば」によって作り上げあられるとしたら、それは伝達や意思疎通そのものを奪うことになるでしょう。それはまた、一方の側の「人間」であるはずの「力」をもった側にそれ自体を否定することにほかなりません。

どのようなことばであれ、話したり記したりする手段に否定を表す表現に縛られるとしたら、それ自体でその表現を不能としてしまうのです。ですから、その話者、発言者自身、その「自由」からの逃避を自ら求めることになるのです。かつて、エーリッヒ・フロムはその著書により、ナチスのその存在と束縛の非人間性を一方で指摘し、支配の反支配的な関係に唯々諾々とすることに私たち自身の自由の放棄を投射したのだ、と嘆いたのです。伝えるべきことば、そのための手段とその無意味さにそれ自身の言及する不能さと不毛さを見ることができないとしたら、その生を自ら否としてしまうのです。

生きるために、私たち自身はその生まれながらの自由をそのことばによって売り渡してはなりません。他者に対して発することばに否定を常に含む表現と言動にその話者自身はその生きる自由を自ら否定しているのです。ことばはそこに意思をもって伝達を担い、私たち自身の精神を具現化する手立てであるのですから、自らのことばにその否定を求めたとき、そのことばは自由を無くし意味も目的もなくなってしまうのです。

政治への取り組み2014年03月20日 21時24分15秒

NPO法人代表
きのうのNHKニュース9での若者たちの政治参加についてのレポートは注目すべきところでした。きょうのようなくだらない予算の話よりずっといいと思ったのはわたしだけでしょうか。

国家予算が債務の巨大化の中で無意味に作られ、消費税の増税による其の場凌ぎのごまかしがまかり通る現在、昨日のNPO法人の原田さんのような若い力と発想と行動こそ必要とされます。特定の政党とかではなく、彼らをも含めて私たちがもっと興味関心を持ち、私たちが、いえ、我々こそ政治の主役である、という強い信念を持つべきときなのです。

そのために、なんらかの政治参加や議論の定期的というよりももっと、定常的な場を設け、積極的な取り組みを促していく、そんな社会の有り様を私たち自らが構築することが私たち自身に於いて求められているのです。『何一つ変わらない』、とか、『私の一票で何も「変わらない」』といった受け身の姿勢では、まさに、何にも「変わらない」のです。我々の意識的な発言と行動こそが社会を、日本を「変えていく」からです。原田さんたちの取り組みだけではない、草の根の社会の活動を創り出し、広めれば社会も日本も「変えられる」、そう私は信じています。

浦和レッズ横断幕事件2014年03月16日 21時09分08秒

春のあした
中川淳一郎氏(インターネットニュース編集者)の新聞への記事は注目に値するものでした。主に、埼玉の浦和レッズのサポーターの横断幕事件に関するものですが、そこから何が読み取れるか、なぜか、そういった本質的な、根源的な問いに迫るものです。

以前に私も記事にした、ヘイトスピーチ・ヘイトクライムと通底する「在日」へのいわれのない差別・区別があります。多くの日本人は彼らのような差別意識はないものと私は信じます。歴史的にも、朝鮮半島あるいは中国本土からの日本列島への移入者はたくさんいたし、わざわざ呼んで来てもいたわけで、その人々からの知識や技術は大和の国の建設と維持に与って力あったのですし、その「混血」は広くあったと思われます。どこからが「朝鮮人」で「中国人」で「日本人」か、あるいは南方の人々か、といったことはおそらく誰にもわかりません。彼ら自身、その血は何%がどういった起源なのかは100%わからないでしょう。

それにもまして、その差別意識や誰かをスケープゴートにする、その発想や手口や喧伝が恐ろしいと感じさせられます。この[ Japanese Only ]の横断幕で無観客試合を余儀なくされる日本のサッカーに誇れるものはあるでしょうか。この国土に住むすべての人々が「JAPANESE(日本人)」であり、その誰かを犠牲にしていい理由などどこにもありません。ましてや、その彼らは「在日」の自作自演である、とうそぶくその「二重基準」(中川氏による)は彼ら自身の、いえ、同じように誰かを何かが起こるたびに責任や罪を擦り付ける、まさに、「日本人」の人間性さえ問われる思考や良心とものの見方に起因しているのです。

これは、果たして、教育や社会の規制や啓蒙活動で矯正しあるいはなくしていくことができるでしょうか。どのような方策や人々の連帯が必要となるのでしょうか。「日本人」の一人ひとりに考えてもらいたい問題です。

健康と教育2014年03月09日 08時33分21秒

命の格差とは
イチロー・カワチ ハーバード大学教授による写真の書は多くのことを教えてくれますし、目を開かせてくれます。健康障害や生活習慣病を個人に帰するのは誤りで、社会環境の改善こそその解消や健康増進・維持に不可欠だということです。つまり、社会の仕組みを変えることこそが人々の寿命を伸ばし、社会を健全な形態にするのだ、と結論づけています。その理由は一読されると分かりますが、とくに簡単なグラフと数値により明確に理解できるのです。キーワードは、ソーシャルキャピタルとソーシャルサポートで、人々のつながりこそが命を救う、ということです。これは日本において顕著だそうです。

そして、これを可能にするのは、単に日本の伝統的な社会の価値観や共同体の働きにある、というのではなく、やはり、教育の果たす形成的な機能こそ、崩れつつある私たちの社会において鍵となる、と私は考えます。ともすれば、ゆがんだ見方や教授の賞賛する集団的な機能とは正反対の束縛や抑圧、迫害さえ起こる現実の日本の各層の社会構造からみれば教育による人々の啓蒙や様々な必要とされる意識と思考の醸成に必要不可欠となる、それこそ、教授のいうところの助け合いや関わり合いを基礎づける思いやりや互いの認め合う基本的な人権意識を実感的に、実際的に浸透させていくことです。

ポピュレーションアプローチによる視覚的な把握と上流への働きかけを効果づけるためにも、この社会階層の全般に渡った取り組みには教育によるものごとの基本的で道理に基づいた本質的な刷り込みはやはり見過ごせないと思うのです。なんでも簡単な視覚的な表現や引きつけで誘導したらいい、としてすべてがうまく変わっていく、そう単純に期待するのも現実的に無理があるように感じさせられます。教授も始めに述べたように、かつて日本はその識字率や教育の高さと緻密さとある平等性からそういったアプローチを可能ならしめてきたはずだからです。今現在、その日本の教育の危うさやゆがみや格差が問題となっています。どのように立て直すかではなく、どうこれからを創っていくか、が問われているように思います。そして、パブリックヘルスの視点から、社会の仕組みを私たち自身の意欲的な行動に結びつけるような基礎的な知識や思考と考え方の形成により変えていき、より健全な社会と一人一人の健康をもたらすように仕向けていくことが求められると信じます。

春の雪2014年03月07日 06時18分22秒

マンサクの花
きのうはそうでもなかったのですが、今朝は雪でした。降り積もるわけではなく、それほど季節風も強くなく、穏やかではあるのですが、どちらかといえば乾いた細かめの雪です。早朝、でるときはふっておらず、晴れ間もあったものですから傘も持たずにでてしまいました。途中からわーっと雪の空。

写真は先週の実家のマンサクの花です。早春の畑のこの色を見るときいつもこれからの幸福を願わずにはいられません。明るい日射しと冷たさの同居したそのときに早く訪れて欲しい本当の春を待ちわびているこの気持ちの絶えない日々です。

ブログ、ツイッター、ホームページなどは、他者への誹謗中傷やプライバシーの開披、あるいは名誉や尊厳、人権に関わる否定的なことばや侵害行為でなければ、本質的に自由です。どのような主張を述べ、展開するのかは自由です。良心に恥じないことばと社会正義のためにつづるそういったことばに非難や否定や排斥はあってはならないのです。