ヘイトスピーチの原因2014年02月25日 20時11分33秒

ヘイトスピーチ
この岩波新書は勤務先の図書館の新刊で借りてよんだのですが、あるところへの車中で読みながら涙が出てきました。その現実と歴史のひどさや背景を思うと、なぜ、こんなにも酷いことばでの声の暴力がまかりとおるのか、と同じ日本人としてあまりに悲しく、もしかすると肩をふるわせていたかも知れません。被害に逢い続けた在日韓国・朝鮮人や中国人、その他の外国人など、同じ人間なのにどうしてひどい言動をするのか、全く理解できません。それに、関東大震災での集団殺人など、我が耳目を疑いたくなることばかりです。

いまなお、適切な調査さえ行われていないようで、こんなことが許される民主々義社会がどこにあるのか、と静かな怒りが湧いてきます。でも、彼らだけではないのです。特定の個人や団体、あるいは弱い立場や排斥的な被害を受けている人たちはそれらと同様の声の暴力を受けています。わたし自身、それを実感しています。単なる人格否定や干渉・妨害にとどまりません。私生活を含めた生活侵害(妨害を超えている)、間断をつけて反撃や証拠のつかめない形での声の暴力、名誉毀損くらいではない言いふらし、聞こえよがしの悪口雑言、その人権の否定的な言動はときに大声で継続的です。

原因は何でしょうか。第1に、そういった者たちの内面の醜さや自己中心的な自分本位の決めつけ、思い込み、その正当化に伴うより弱い他者への不満のはけ口としての攻撃は身に降りかからないような形態で感情をまるで人間なら当然といわんばかりに口から出されるものがあります。第2に、社会のある種の「寛容さ」があります。明かな社会悪でしかないのに、その「暴力」を恐れて知らぬ顔をする、自分たちもその中にはいったり横からのったりすることで自身の不満を解消させる、そういった卑屈で偏狭な弱さの裏返しでしょうか。

この日本には、基本的人権だけでなく、そういうことから生じる諍いや戦争さえもうけつけない、とした誇るべき憲法があります。その世界において、名誉ある地位を占めたいと思う、という立派な前文があります。私たちはその暗い歴史に学んでその根絶を誓ったはずなのです。どの人も同じ人間として、ともに助け合い、手を取り合い、分かち合って生きるその責務があります。自らの欲望や利己心、了見の狭さ、一方的な主張の強弁による押し通しで「勝つ」ことを自己目的として行うようなヘイトスピーチや中傷キャンペーンもまた、社会として許容してはならないことです。

集団ではなく、ひとりひとりが最大限尊重され、その命と生活が自由で豊かになれるように、弱虫の典型である、声の暴力をふるう者たちに私たちは私たち自身のために、私たち自身によって立ち向かわなければなりません。過去の罪をあがなうためには、そんな行為を認めない社会を作り直すことです。それがヘイトクライムで亡くなった心優しい、あるいは多くの「外国人」への最大の供養となり、ひいては私たち自身をもその子々孫々まで、救うことになる、とわたしは信じます。

日本海の呼称2014年02月04日 22時23分31秒

誰が決めるのか
「日本海」の呼び名をアメリカ・バージニア州議会では歴史教科書で韓国系住民7万余の「働きかけ」により(東海)(トンヘ)と併記すること、と議決し、州議会の上院などでも可決する見通しだとニュース9で伝えていました。静かな怒りがこみ上げてきました。歴史的に中国を始め、多くの国々から地域から認知されてきた唯一の名称だと信じますし、地質学的にも、日本列島の形成過程からこの間の海域の形成はこの日本と共にあるものです。韓国にとっての「海」では本来、あり得ません。

それはともかく、韓国系住民の行動と行為は圧力であり、横暴でしかありません。かつて、暗い歴史の中で、私たち日本人が謝罪した行為と何ら変わりはありません。数の暴力や圧倒的な声により米議会がその力に屈した形であり、どこにも正義はありません。米国務省やワシントン・ポスト紙のいうとおり、地名は歴史をもち、その意味を伝えています。韓国系住民の同じ声を合わせた数の主張で歴史は決められませんし、そもそも、州議会で歴史の教科書は書き換えうるものではないでしょう。

恐ろしいのは、これが通る、と知ったとき、この手法や手口で何でも通そうとすることです。「力は正義なり」とは、かつてプラトンが述べたことで、勝てば官軍、みたいな力の支配のことです。数、すなわち力、とは蔑むべき思考です。そのために、このあとに続く暗い歴史と一体化していったのです。まさに、歴史はそれを排除するべし、と私たちに教えてくれたのです。韓国系住民や今の韓国の、たとえば竹島や漁業権についての一方的な、しかも圧倒的なやり方にはおぞましさしか感じません(従軍慰安婦や侵略・併合などは違う)。彼らにとり、受け容れてはならない方法を自らが使うなどとは。

自らにとって、被支配的な鬱屈間を卑怯な手法で「倍返し」したのでしょうか。してはならないことをして、正義が成り立つでしょうか。民主々義とは相容れない上に、繰り返しになりますが、歴史や歴史研究者の良心と事実とに基づき決められることです。声を合わせて押しかけてわーわーすればそれでなんでも正義なり、とは卑屈で幼稚な振る舞いだと思われてもしかたありません。人間として、あるいは民族として、国家として、あってはならない行為です。対等だからこそ、事実と歴史に基づく(歪曲したり捏造したりするのではなく)確かな認識からはじめなければなりません。

違和感と疲れ2013年12月22日 17時23分21秒

関東北の町
講習は今日で終わりました。はるばると来た甲斐はあったとはおもうのですが、寒くて、風邪をひきかけているようで、少々鼻づまりがあり、頭も痛い。ただ、終わった安堵感はひとしおです。すぐに帰途につくのは簡単ですが、県境の車での峠越えを考えると、来しなのあわやのスリップが頭によぎり、深夜の雪道が案じられます。それで、家族とも相談のうえ、予定通り、もう一晩泊まることにしました。決して、環境はいいとはいえませんが、身を守り、事故の確率を低めるためには必要です。

今回の大学行きでの障害は、1つには携帯電話を(目の前に置きながら)持ち忘れたこと、2つにはオーバーコートを着てこなかったこと、3つには案内をよく読まず、無料の弁当を見送ったことでした。そして、不便さと不自由さをかこつことは遠い旅先では辛いことだと再認識したことです。やはり、チェックシートを作り、短い外出でも確実にそろえるか準備することだと。

昨日はどこかの小学生が大勢いて、ロビーや各階で騒がしく、引率していた指導者らしき(一応先生と呼ばれていた)者たちの不手際が恨まれます。どこか、変で、髪は染めていたし、携帯電話を子供たちの目の前や囲まれていてもてにしていじり、服装は子供並みでわたしはつい、訝しいまなざしを向けてしまいました。どうみても、小学校の教師にはみえませんでした。どこか、ここの空気が冷たく、人々は淡泊でひっきりなしの電車のようです。ビルと住宅で緑はほとんどなく、おかしな感覚にとらわれた到着時と幾分か和らいだ今の差違にまだ慣れません。昨日はとても疲れましたし、安まらない時は神経を高ぶらせます。明日、いくらか和らいでいくと信じます。

今日の大学の講義でも先生が話されていたように、アリストテレス以来の論理の大前提は必然とされます。これはまた、数学の公理にもにて、その必然性はゆるぎなきっものと考えるのは幻想ではないと思うのです。この論理による誤りの矯正、つまり、論理療法も有効な手段として心理学的にも求めうる社会の改善の方法だとわかりました。少しでも、今の社会のゆがみを人々の力を合わせて直してゆきたいものです。

置き去りにしたもの2013年12月20日 20時43分24秒

月夜
きのう、きょうと空は晴れて、洗濯物は良く乾き、日本海側としては意外なほどの好天でした。夕刻、雨になりましたが、いつもながら、気象庁の情報の不確かさには手を合わせたくなります。それにしても、経済、経済、経済。アベノミクスとかいっても、要はあっちを向いているわけで、復興特別法人税は「前倒し」で廃止、オリンピック・パラリンピックのための人事と対策、見かけは非正規の解消でも「多様な」正規従業員の増加を狙うという、購買層の確保、等々、とにかくお金のために向いている方向は違っています。

他方、誰もが訝しく気づいていてなんだ、と考えるこの方策のために、福島の人々はもはや戻れずに、他所での生活支援・賠償、年金や公務員給与の減額、教育の時間増による実質的な予算削減、少子化はもう既成事実としてその対策は上滑り、一方での特定秘密保護法、防衛費や防衛整備のための支出増加、いったい、どこに目をむけているのでしょうか。置き去りにしていくものは人々だけでなく、その命の代償として手に入れた民主々義や平和憲法や社会の豊かさ、子供達の歓声、老後の楽しみ、命を育み社会を維持するための基盤、すべて失われていきます。

目を向けるべきものから目をそらし、削るべきものは反対に増やし、残すべきものは破壊し、守るべきものを捨て去る、そんな社会の衰退と崩壊に向かうようなことばかりを私たちに突きつけているようです。いえ、はっきりと押しつけています。悲しい真実ばかりが見えてくるのです。

政治はアマチュア2013年12月19日 21時26分25秒

猪瀬都知事
猪瀬氏は行政や政務についてアマチュアだった、と緊急記者会見でのべましたが、そんなことは前任者のほとんどがそうであったわけで、それは決して猪瀬氏の弱点でも政治に携わる上での負の側面でもありません。ただ一点、お金の問題だけであったわけで、そのことを理解していなかったことが政治を担う上での致命的な欠点だったわけです。

もとより、政治家、なるものが職業としてあるのはおかしいので、政治はすべて素人でいいのです。選ぶ人もまた、素人です。人々の代表として、行政の長を務めてくれればいいのです。事務的なことや折衝その他は役人と協力してすればそれでいいので、誰も知事などにそんな職業意識を期待して選挙で選んでいるのではない、ということを立候補者たちは認識をして欲しいと考えます。その証拠に、猪瀬氏は過去最多の票を獲得し、その理由としてその正の、ポジティブな面が評価され期待をうけたのです。だからこそ、さんざん言われ、明確に退けられてきたお金の問題に考えが至らなかったのは意識の低さが一方で残っていた結果なのだ、ともいえるのです。

政治が職業化してしまったために腐敗が起こり、汚職がなされ、族や世襲といった、本来あり得ない議員や長が登場してしまったのです。その悪循環を断ち切るためにも、政治は、そして政治家は専門の職業でも職でもないよう、常に新しく選ばれてその信念や信条、目的となる政策、つまり、何を為すのか、というところに主眼を置き、人々の連帯のもと、進めて、議論を常に重ねることが社会の、民主々義のあるべき姿だと信じます。

余計な一言を: 猪瀬さん、アマチュアでいいのですよ。

違憲状態と原子力発電2013年12月18日 21時51分49秒

原子炉2基
きょうも、大阪高裁は違憲、名古屋高裁などは違憲状態、11月28日には広島高裁岡山支部が違憲・無効と1票の格差において憲法に反すると判示しています。大阪高裁と広島高裁岡山支部の判決は明瞭でよくわかりますが、他は違憲「状態」という、曖昧で意味不明な判決です。合理的な期間に何とかしていたからその間は違憲「状態」だというらしいのですが、どっちにしても違憲は違憲であり、それを特に「状態」をつけて政治に配慮しながら選挙は無効ではない、などという言い訳に我々は納得できるでしょうか。

原子力発電は、明らかに危険で不安定、多大な労力とお金と後処理に気の遠くなるような費用と時間がかかるわけで、それをとりあえず、今は必要だから、という詭弁で使い続けようとするのはどこかその違憲状態判決と似ています。福島の人々、遠くウクライナやなんかの被害を見ればそんな曖昧な根拠のない理由で原子力発電を続けることなど許されないはずです。ドイツは脱原発を決めています。レベル7の大事故にもかかわらず、これからも使い、多国へも輸出さえしようなどとは、どんな神経でしょうか。

法の下の平等、一票の価値の平等を考えれば、明確に数値で現れたその格差を国会や政治家たちの手前勝手なわがままでずるずると引き延ばしたりおかしな策を弄してやり過ごし、先送りばかりしてきた経緯からももはや違憲状態などといっていていいはずはないでしょう。違憲・無効、と裁判所は連携して、いえ、連帯して、今の政治にノーといわなければ、突きつけなければ何も変わりません。一部の暴走を食い止めるためにも、違憲・無効で選挙やり直しにすればいいのです。政治に遠慮などどうして必要でしょうか。混乱するならすればいいのです。いつまでも甘やかしてはいけません。

近づくクリスマス2013年12月17日 20時52分43秒

イルミネーション再び
夕暮れのウォーキングの一番の楽しみは最近はこのイルミネーションです。小学校の前庭にあるのですが、こどもたちが返った後におそらく点灯されるこの明かりはしかし、誰のためなのでしょうか。行き交う人もほとんど無く、近くの道路からは見えますが、運転中にはみられはしません。でもたまに、わたしのようなのんき者がその明かりを見つめて喜ぶのです。寒く暗い空の下、鮮やかな彩りは少し暖かな気分にさせてくれます。

キリスト教の習慣に過ぎないクリスマス、仏教徒のわたしにとり取り立てて何かを祝うものでもありませんが、商業ベースのことどもとは異なり、返った後も子供達のためにあるようで、なにかしら、ほっと、そして、希望を映すかのような光景です。先月から、1ヶ月も灯る光はそんな社会の灯火として、暗いこの世の中にひとときの明かりを暖かに見せてくれる造形です。通る人、見る人により、その思いはさまざまでしょう。そこにまた、明日への仄かな慈しみに満ちた光に新たな気持ちをいだかせてくれるものです。

辛く、悲しく、それでいて、いえ、だからこそ、将来への希望と願いと想いを胸に、歩く時を大切にしていきたいのです。少しずつ、前に進むために。

進む人間の劣化2013年12月05日 20時01分02秒

なぜ急ぐ?
夕暮れ、すでに暗くなっていた時間にいくつも見かけたのは、大のおとなたちの恥ずかしき人間としての質の低下でした。ひとつは、公共図書館脇の駐車場。おとながそのこどもらしき3人とキャッチボールをしていたのです。薄明かりで。もちろん、まだ、閉館ではなく、駐車場も出入りあり、で人目も迷惑も危険も顧みずこどもを従えてですから、あきれます。睨んでやりましたが、何処吹く風。へたに注意でもしようもんなら、反対にくってかかってくるのは必定ですから(言い訳ではありません)。公共の場所ですから、特定の何人かが占有し、しかも迷惑行為をしていいはずがない、ということは良識あるおとなならする前から分かっていそうですが、そうではないのです。

また、狭い歩道上、傍を車がびゅんびゅんと通っています。その歩道は学校帰りの中高生なども含めてしばしば行き交うところに、3分の2は塞いで並んで自転車を止めて話をしていたのです。邪魔だというだけでなく、他の自転車の通行にも暗いので極めて危険です。傍には自動車ですよ。わたしの行き帰り、15分以上あったかもしれません。

荷物を持ってきた運送屋。帰りに、少し離れてから一方的にわたしの気に掛かる内容(嫌がらせ)のことばをなげかけたのです。お客に対して。こちらは、届けてくれてありがとうございます、といった、そのすぐ後からです。何を考えているのでしょうか。しかも、背後から、という卑怯さです。それも、一方的に。

東京都の猪瀬知事は、言い訳ばかりを一方的にいっています。悪いことなどしてはいません、と。最初から、よくないことはわかりきっているのでしょうに、後でへたな言い訳ばかり。

総じて、昨今、明らかに悪い行為や言動をしでかしておいて、自己弁護どころか、被害者や弱い絶対少数に対して、一方的に反対に責め立てる言動の強弁を繰り返す輩が多いことは良心を持つ人たちなら、すでにはっきりと気づいていると思います。わたしは政府の回し者ではありませんが、小中学校の道徳なら、真っ先に課題として取り上げられることでしょう。それをすぐに忘れ、高校に入った途端、わるいおとな達に追従して悪に染まってしまうのです。右へ倣え、は悪さや悪意や人として恥ずべき、蔑むべき行為言動に付き従うことです。とくに、それが弱いものいじめへと向かうのです。その対象、つまり標的はクラスメートにとどまりません。教師だろうとなんだろうと、見境なしです。

猪瀬知事ではありませんが、決まって、そういった者たちは、「怖いから」、とか、「一緒にやらないとムシされるから」とかいった臆病者の言い訳ばかりです。情けない、で済まされないのは、そのために被害を受ける人がでることです。人間として、決してしてはならないことだ、という基本的な自覚と思考と自立した自己の確立ができていないのです。恐ろしいことです。

社会の自律的な機能とは、ひとりひとりの人間の独立した人格がその存立基盤だとされ、いえ、当然視され、あたりまえに一人の人間が尊重されることです。ことさらに何も行わないでも、その機能の働きによって社会の仕組みや地域社会、あるいは社会全体に行き渡り、人間が人間らしく、互いを気遣い、それぞれが自由に、かつ、自身を律するように生き続ける空間を持ち、それを維持することなのです。その正反対の方向に急速に進みつつ有る様に思えてなりません。どこか、人間の劣化が進む、そんな低劣で愚劣で卑劣な、身勝手な自分本位のものだけが闊歩するようになったら、社会は崩壊するのです。

人権週間2013年12月04日 21時08分47秒

冬の曙
今日から人権週間。12月10日に世界人権宣言が採択され、人類普遍の原理としての人権の尊重、いえ、それ以上の意味を持たせた宣言として、広くその意識と認識を求めたのです。これは私たちにとって、極めて基本的で極めて本質的な社会の礎でもあり、この基本的人権の持つ意味を知らないでは人間としていきることはできないのです。自分自身を存立させるために、そして、他の人々の共存する社会そのものの存立と不可分の、不可侵の権利を掲げたのです。

ただ、それでもなお、現在の日本社会や小さくは地域社会、そして職場や学校などをみるとまだ、いえ、まるで逆戻りしたかのようにその人権の必然性がないがしろにされる現実をしばしば目の当たりにし、時として身に降りかかることさえまれではないという現状の中にさらにその人権を主張する意義を再確認し、劣化する一方のこの社会をよくするという雲をつかむような行動にもでようという気持ちになるのです。

勤務校では、この人権週間に合わせ、『「思い込み」で人権をないがしろにしてはいませんか』というような内容のモノクロポスターを掲示しています。それはまさに、この学校に於いて蔓延っている反社会的・非人間的な態度と行為を引き起こしている原因の大きな部分だからです。教師から示そうとも耳を傾け、あるいは思考し転換していく姿勢や決意を教師自身と生徒達個々人が持たなければ無意味です。何より、かけがえのない存在として、その命をそこなう人の道に反した振る舞いや言動をしない、させない、広めない、といった強い信念を醸成させていかなければなりません。私たちに、二度目の人生はありません。

寒さの中の冷たさとひどさ2013年11月28日 20時38分36秒

イルミネーション
勤めながらつとに思うのです。小中学校だけでなく、高等学校でもいわゆる、「道徳」に関する時間をカリキュラムに組み込むべきだ、と。もちろん、倫理は科目としてありますが、選択で、全員ではありません。わたしの高校時代は実質的に必修でした。いまでもその当時の教師のことばもいくらかを思い起こすことができます。今の生徒達を見るにつけ、『自由と規律』だけではない、もっと基本的な、根源的な命題に思考する時間をもつことは大学入試以前い必然だ、と感じるのです。

見かけの「友人」や「教師」、あるいは、他者に対する態度や接し方、ことばの暴力や精神的な未熟さと弱さからくる恐ろしいほどの無感覚を直に受け取るとき、彼らに本当に必要なのは数学の問題演習ではなく、ごくごく基本的で社会の成り立つ最も基本的なところに求めるべき人の道、とでも言うべきものだと実感させられます。とりわけ近年、日本社会の劣化が叫ばれて久しいですが、いっこうに良くはなりません。むしろ、その精神性や真の意味での「社会性」は低下の一途を辿っている、と分かります。

そして、教師もまた、そういった側面を露わにしていますし、周囲のおとなたちもまた、同罪です。そんな地域社会、いえ、社会全体にどこか受け容れられない非人間性を見いだしてしまうのです。これは、平然と道理や人間としての歩むべき道、あたりまえに身につけるべきところの倫理観やごく簡単で人間的な「神経」さえ否定している現実をさらけ出している姿なのです。背筋が凍り付くような、恐ろしい風潮です。ぞっとするような、耳目を疑う姿です。直ぐに、改めさせ、直すべきことばかりです。どんな「理由」も「言い訳」もはねつけるべきことばかりです。