違和感と疲れ2013年12月22日 17時23分21秒

関東北の町
講習は今日で終わりました。はるばると来た甲斐はあったとはおもうのですが、寒くて、風邪をひきかけているようで、少々鼻づまりがあり、頭も痛い。ただ、終わった安堵感はひとしおです。すぐに帰途につくのは簡単ですが、県境の車での峠越えを考えると、来しなのあわやのスリップが頭によぎり、深夜の雪道が案じられます。それで、家族とも相談のうえ、予定通り、もう一晩泊まることにしました。決して、環境はいいとはいえませんが、身を守り、事故の確率を低めるためには必要です。

今回の大学行きでの障害は、1つには携帯電話を(目の前に置きながら)持ち忘れたこと、2つにはオーバーコートを着てこなかったこと、3つには案内をよく読まず、無料の弁当を見送ったことでした。そして、不便さと不自由さをかこつことは遠い旅先では辛いことだと再認識したことです。やはり、チェックシートを作り、短い外出でも確実にそろえるか準備することだと。

昨日はどこかの小学生が大勢いて、ロビーや各階で騒がしく、引率していた指導者らしき(一応先生と呼ばれていた)者たちの不手際が恨まれます。どこか、変で、髪は染めていたし、携帯電話を子供たちの目の前や囲まれていてもてにしていじり、服装は子供並みでわたしはつい、訝しいまなざしを向けてしまいました。どうみても、小学校の教師にはみえませんでした。どこか、ここの空気が冷たく、人々は淡泊でひっきりなしの電車のようです。ビルと住宅で緑はほとんどなく、おかしな感覚にとらわれた到着時と幾分か和らいだ今の差違にまだ慣れません。昨日はとても疲れましたし、安まらない時は神経を高ぶらせます。明日、いくらか和らいでいくと信じます。

今日の大学の講義でも先生が話されていたように、アリストテレス以来の論理の大前提は必然とされます。これはまた、数学の公理にもにて、その必然性はゆるぎなきっものと考えるのは幻想ではないと思うのです。この論理による誤りの矯正、つまり、論理療法も有効な手段として心理学的にも求めうる社会の改善の方法だとわかりました。少しでも、今の社会のゆがみを人々の力を合わせて直してゆきたいものです。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「山路を登りながら、こう考えた。」で始まる小説の作者は誰か。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://midori.asablo.jp/blog/2013/12/22/7138781/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。