汚染水とごみ掃除 ― 2013年09月20日 19時03分06秒
同様に、大量のタンク(ひとつで数百トン以上?)の福島の汚染水も水分のみの蒸発あるいは吸収させて容量をとにかく減らさなければ追っ着きません。方法はいくらでも考えられると思います。ただ、蒸発の過程での放射性物質の揮発や飛散は避けなければならないのはいうまでもありませんから、トリチウムを含まないように水のみを除くことから始めることです。
夕暮れの光の中、ナツメの木を見つけました。とてもおいしそうで、盗りたいとは思っても、高い場所で、足を滑らせたら危険なため、やめました。また、勝手にとっていいのかもわからず、口惜しさだけがのこりました。高い木で、とても下から収穫しているとは思えないのですが。秋の朝 ― 2013年09月19日 18時39分35秒
待宵月の夕暮れ ― 2013年09月18日 18時20分35秒
草刈りの作業に1時間、賑やかな生徒達の中にいて終われば台風のごとくうそのようになくなる喧噪と笑い声の彼方には残されたわびしさに声を再び失うのです。明日はまた違う、明るさと満ちあふれた若さの真っ只中に戻ることになるのです。
どこか、本当の姿とは違う、どこか真の営みとも異なる、対岸の光景に涼しさを超えた寒さや小さな姿の狂おしいほどの哀しみをこの土地いっぱいに溢れさせながら、どこか消えたきのうと同じ明日を見失うかのような時間の途切れ途切れにこの地の衰退を見いだしてしまうのです。大型台風 ― 2013年09月16日 20時29分58秒
実家に帰っていて、雨の間中、家からはほとんど出られませんでした。やみかけたときに川の様子を見にいきました。写真のように、普段なら5mほど下を流れている川はほとんど岸の水準まで迫っています。おわかりでしょうか。橋脚の赤い目印を超え、警戒水位となっています。岸の道路から上までは2.5mですから、50~60cmまでだということです。少し上流の観測点では2mほど余裕があり、通行禁止とされたものの、氾濫はなかったのです。
数十年に一度、とか気象庁は脅していましたが、水量は確かにここ数年なかったかもしれません。この頻度と程度の繰り返しにストップをかけるべく、原因から見直さなければ危険です。重なりに善し悪し ― 2013年09月11日 21時23分35秒
光の重なる様を見つめるとき、生きている実感にさえ浸ることができます。良きもの、良きこと、良き兆し、そんな時間と空間の共有こそ、私たちの望む姿です。幾重にも、とは文学的です。そのことばで甘利経産相は福島の一号機の汚染水漏れを防ぐ、とのたまったのですが、その重なりで緩やかにしたとしても、漏れ自体を何らかの方法で止めなければおなじことです。いまからでも、別の工学的な手法によるフェイルセーフの機構を考案すべきです。文学的な実効に乏しい間に合わせではよろしくありません。
思えば2年半前、事故を、いえ、津波を防げなかった思慮のなさはそういった冷却水タンクの羅列にその重なりを見ます。始めから無理な立地と安易な建設・予想しなかったが故の海への対処などを顧みれば、そこに見えるのは幻でしかない原子力の利用です。廃棄物をのみ考えても重なる目を閉じた人々の愚かさだけに割に合わない愚行を始めてしまったつけを今払い続けなければならない、汚染水と同じ現実の中に私たちはいるのです。夕暮れの風景 ― 2013年09月10日 19時18分45秒
三日月の南西の空、ふと見上げると東からの航空機でした。今頃、こんな土地には飛んでくるはずもない飛行機です。写真からも分かるように、国籍不明、灰色、わずかな灯火、低空、と(まあ、外国のではないのは分かりますけど)怪しげな飛行です。近いせいか、結構大きく見えたので自衛隊かどこかかも、とは想像しますが、果たしてどこの、どういった目的のかは不明です。
下の川をみれば、アオサギ3羽、コサギ1羽、縄張り争いでもしているかのようなやり合いのあとはなんにも残りません。行き交う自動車の傍には自転車(例外なく)の通りがあります。歩く人などほとんどいません。次第に薄暗くなる山々のシルエットを背景に降りてきた町には人声のない電灯の光の照明が静かにわたしを迎えていたのでした。変わらぬ時 ― 2013年09月07日 20時07分21秒
口先だけで、心から東北や日本の新生を願い目指しているのではない、とはっきり分かります。あまりに腹立たしい。オリンピックなど不要です。少なくとも、今は。未だ収束しないフクシマともう戻れない福島県の人々をおもうとき、こんな行動を国際的にも恥ずかしくもなくなぜしてしまうのか、首相として疑問符をつけざるを得ません。東京のひとたちも同罪です。
変わらない早朝の、灯台の緑の光をみるとき、常に守る日々の姿こそ、信頼といざというときの羅針盤として必要です。港湾だけでなく、沿岸地域を中心とした防災と日常的な整備のために税金と精力をつぎ込まなければなりません。私たちが、どこに生きているのか、再確認すべきです。神様のお遣い ― 2013年09月03日 13時56分23秒
見ると、狐が一匹登りの階段の下の方につくねん、とお座りしていました。わたしに気づき、山の中に消えたのでした。ここには4つの社があり、その一つはお稲荷さん。昨日と打って変わった明るい日射しを浴びようとでていたのでしょう。ちょうど、まさに、神様の前で。どこか、お迎えに会ったようで、よい兆しなのかも、と思うのです。弁天様に続いて、ここでもお祈り。写真はとれませんでした。神様のお遣いですものね。
午後は1時を過ぎて、降雨となる、晴れのち雨。気象情報などあてにする方に間違いがあるのです。外れて、万歳。明日につながる雨になりますように、頭の痛さと重さを生み出した帽子なしの太陽に。休日の悲嘆 ― 2013年08月27日 17時46分34秒
駐車場といい、店といい、この町の住民はなんという態度でしょうか。車を止めるとき、先客の駐車を待って進むのが通例でしょう。ましてや、自分が後からきて割り込むなど、論外です。ショップの店員にしても、買ってくれる客に、『こんなこといわれるのがいやなら買わなくていい』などと言い放つのですから、呆れますし、そもそも、初めて入った店でなぜそんなことをいわれなければならないのでしょうか。大切なお客を大事に扱わなくして、商いがなりたちますか。
写真のような、「思いやり」も「豊かな心」もかけらもありません。公徳心はもちろん、人に対する当たり前の姿勢や心がないのです。さらに、その西隣の町(市)ではもっとひどいものでした。子供も大人も人間らしい神経も感覚も持ち合わせていないようでした。基本的人権をやかましくどれほど言っても、ひとりひとりの心の貧しさはどんどん進んでいくようです。西に行くほど酷い、とは実感です。この社会は取り返しのつかない方向に堕ちていくのでしょうか。今すぐ、直さないと滅びます。
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