造形の発生2005年05月16日 16時04分07秒

今朝の地方番組の中で、『……デザインを学ぶ……』という句を 使って今日の予定の一部を告げていましたが、基本的にこれは 誤りを含んでいるのです。表面的にも、「デザイン」は学ぶもので もなく習うものでもありません。それは目的をもって造られたもの であり、それはその計画者の意図の表現であり、何より、その発 生の時点ですでに為され得た存在だからです。つまり、模倣や習作、類型化にその意味はありません。設計・計画立案・図案、 などなど、その表出はそのものが意図なのです。他者がそれを もとにして行動することはその意図に沿うものでまさにしてやった り、でしょうが、その方法などは本来、あり得ないのです。表出者 が自ら造り出してこその「デザイン」であり、方法・手段そのもの なのだからです。

もともと、この design という語はその意図、故意を示すの で、第一義的に計画的で目的的なことばです。これは指し示すと ころの企図であり、ニュース読みの彼等や「デザインを”学ぶ” 」ところのかれらの思い描くきれいで差し障りのない好ましい 類の行為ではありません。 by design とは、まさに、 故意に、という意味の決まり文句で、そのものずばりを言い当てています。それを知ること、知ろうとするあらゆる行為はその 意図者の思うつぼなのです。

木々の伸長、葉の造り、根の張り方、等々、すべてはまた環境 中の営みの生きるための意図からでています。造形美、という といかにも美しく感じますが、現実には、これらはすべて、その 目的のために”造られた”形なのです。私たちが為すべきなのは、 その表出を知り習うことではなく、その意味を事実として捉え、 その理由を考え原因を探ることです。そして、それなら、何を どうすべきか、をこそ、学ぶために行為することでしょう。もし そうしなければ、過去から現在まで、そしておそらくはこれから もされつづけるであろう破壊や改変の理由と原因となりつづ けることは間違いなく、また一方でその行為者や作為者たち の目的にかなうがごとく、騙されることに思いをいたさずにの りつづけて事実を知ること、見つめることを失ってしまうでしょう。 それは自身の放棄であり、退化に他なりません。

『デザインを学ぶ』など、愚か者の言いぐさであり、無知蒙昧の 行為です。「よらしむべし、知らしむべからず」のことばどおり、 されるがままにされてしまうことを良しとするのでしょうか。

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