型にはめる ― 2005年05月31日 20時43分40秒
何かを始める場合とか行う場合とかに決まって、これはこうするものだ、とか
それはこれこれこういう手順ややり方というものがあって、たとえばあれは昔
からそうなっているのだ、とか、実際に多くの人たちによって練り上げられ、
あるいは組み立てられ、または研究されてきたしっかりした型があるのだ、
とかいったことどもが意外に多くありますし、そう語られもしてきていましたが
、そういったことが当然視されたり、ひどいときには絶対視された場合、そこ
に異議をはさむどころか、避けたり逃げたりさえ、できないこともあります。
でもその中にいてもやはり、たとえ、何十年、何百年の歴史のあることであ
っても、ある人が偶然であったり、または充分に考えたり観察したりした中で
誤りや過ちを見いだすことはままあることなのです。
それが一人一人の行為言動、立ち居振る舞いにかかることであればなおさ ら、それは他者によって決められ得ることでもあらかじめ基準や枠組みのあ ることでもないのです。私たちが私たち自身によって私たち自身のことを決め てゆく場合、それは私たちの思考、経験、環境などから私たち自身に見いだ し得る私たち自身の中の、それが曖昧でぼんやりしたものであっても、私たち自身の物事として決めてゆくものです。
これはまた環境の改変にもいえることなのです。現実にかつてあって美しさ と循環のそれなりに調和のとれた姿を保っていたものが、誰かによって恣意 的に変えられ、おかしなねじ曲げられ方をして変な風に造り替えられてしま った例はいくつもあります。底から空まで、その環境の織り具合のちょうどよ かった川の流れが切られ止められ、全くありもしなかったものをまさに、異形 の人造と化した川を私は見ています。何かの型にはめたかのような、取って 付けたかのような不自然な環境を観光のためなのか、近隣住民までも反対 もせずに行ってしまったこの例はその典型の一つです。数少なかった下流域 の自然が完全に喪失してしまったのです。明日を、自ら奪ったのです。
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