自由な心 ― 2013年09月23日 21時25分08秒
鳥のように………とうたうこの歌をくちずさむとき、わたしたちはまた、下界の狂おしいほどの抑圧的な環境にやりきれない思いで抵抗しているのです。そのために、内面の自由と私的生活は両輪として社会において認知されることは必然的に求められるのです。ひとりひとり、その思いを持ちながら、なぜ実現できていないのでしょうか。
自分が求めるなら、他者の自由を侵害してはならない、そういう約束を社会的に、もちろん、法的にも合意をもって生きているはずなのです。いうまでもなく、それは他者の権利を侵害するものであってはなりません。ただ、開放感をもしこの3日間で味わえなかったとしたら、この社会の構築にいまだ成功を収めてはいないことを私たち自身、再認識すべきです。JR北海道にしても、ひとりひとりの責任として、この社会にいきているというおよそ感覚的な理解を見失っていると気づくことです。今一度、足下から、自分自身から見つめ直してください。待宵月の夕暮れ ― 2013年09月18日 18時20分35秒
草刈りの作業に1時間、賑やかな生徒達の中にいて終われば台風のごとくうそのようになくなる喧噪と笑い声の彼方には残されたわびしさに声を再び失うのです。明日はまた違う、明るさと満ちあふれた若さの真っ只中に戻ることになるのです。
どこか、本当の姿とは違う、どこか真の営みとも異なる、対岸の光景に涼しさを超えた寒さや小さな姿の狂おしいほどの哀しみをこの土地いっぱいに溢れさせながら、どこか消えたきのうと同じ明日を見失うかのような時間の途切れ途切れにこの地の衰退を見いだしてしまうのです。デフレ脱却ことさらに喧伝 ― 2013年08月15日 19時39分52秒
以前にも言及したように、私たち一般の生活を支える給与や年金、生活費の低水準化など基本的な収入・支出のバランスは未だに、いえ、これからも取れる状態にはありません。そもそも、下支えするべき人々に、260万の失業者(3.9%とはそいういうこと=総務省統計局)が無収入でいるのに景気は自律的に回復、などとはいうべきではありません。給与も上がらず、生活の時間的な部分も含め、余裕のなさを考えればなおさらでしょう。変動幅の大きな食料品など、ある水準以内でおさまる程度でないと生活は誰にとってもままなりません。
必要なのは生活の安定が社会としてその仕組みや枠組みの中で図られること、そして維持していくことです。それには、あらゆるコストを低減させ、余計な支出を消すことです。物価が上昇傾向にあればいい、などと脳天気なことを発言する大臣に経済を「再生」させることなど、ましてや、「新生」をはかるべきことは頭にはないでしょう。同じことをいくら繰り返しても、限りある社会・地球を考えれば無限の成長や高水準化をもくろむのはあまりに愚かだと言わざるをえません。どのような社会や経済の形態が望ましいのか、いまだからこそ、誰もが考えなければなりません。物価上昇を本気で喜ぶ庶民がどこの世界にいるのでしょうか。脳細胞とストレス ― 2013年08月09日 06時26分50秒
単純に記憶するのは意味記憶でこどもの頃に優越しています。一方、その後はエピソード記憶がそれをしのぐようになります。つまり、無意味な羅列などを覚え込むこととか、試験前の一夜漬けなどは難しくなるわけです。可塑性とLTP、これは高校の生物でも取り扱われる内容ですが、そこに至る神経細胞についても書かれています。なにより大切なのは、さまざまな働きを考慮して、記憶の増強に薬物や類する方法を用いても、その使い方、あるいは過ぎた方法は極論すれば脳を破壊することです。アセチルコリンの過剰さは猛毒、サリン、によって酷くなり、無意識に何度も繰り返しよみがえる、繰り返される、という現象にさいなまれるのです。つまり、外部からのことばや声、酷い経験などはその反復で、たとえサリンがなくとも、同じ効果(障害)を引き起こす、ということです。
そして、もっと恐ろしいのは、そういった病的な傷害行為の結果がたとえば統合失調症などとなり、あるいは器質的な痴呆症に至り、海馬の大切な神経細胞が破壊されるということです。事実上、再生はされませんから、そういった外部からの行為はいうまでもなく、犯罪に他ならないということです。金属を折り曲げていくと、しまいにはぽきん、と折れるのと似ています。回復力や弾性は次第に失われて回復不能となるのです。だんだん慣れて、あるいは、「免疫」がついて抵抗できるようになるのだ、というような愚かしい考えは全く、論外です。その正反対に、ちょっとしたことで傷つきあるいは回復不能となってしまうのです。生活コストの増大 ― 2013年08月01日 20時57分01秒
先頃も、ガソリン代の急騰が新聞に載ってました。159円前後とか。一気に、2週間で10円(1Lあたり)高くなっています。同様に、電気料金やガス代、輸入にかかるコストや原材料費の高騰、当然ながら製品は高くなるのです。インフレターゲットを設けてその変動幅に調整して維持することで一定の経済的な成果を導きだそうという、扱いやすい手法で見かけの豊かさの再興を図っていますが、それとて、わたしたちの収入の頭打ちや(むしろ目減り)さまざまな出費の大幅な増大を考えれば無意味以外の何ものでもありません。
多くの人々が何となくのって自民党の伸長を後押ししてはかない成長幻想に浸ることを夢見たかのようです。でも、社会的なコストはもっと、たとえば、テレビなどではっきりと誰にでも分かる形で示すことです。本当の姿、真実を伝えることこそ、報道のあるべき姿であり、そこからわたしたちは考えなければなりません。どのようにこれから、いまからを変えていくか、私たち自身の喫緊の課題として知らぬ顔は許されないからです。バリバリつなガレーとLINEの行く末 ― 2013年07月30日 18時03分33秒
Twitter やブログはしていても、このLINEはしていません。本質的に使いたくないな、と思っています。極端な話、次々と連鎖を繰り返してあっという間に広がる危険性や直接知らない人たちまで実体や人間を知らずに文字だけで伝わる恐ろしさがあるからですし、それは意図した、思っていたことではないことが誤って伝わり、おかしな方向に進むことが恐怖だからです。昔、伝言ゲームというのが行われましたが、これとよく似ています。列の最後では始めの内容と異なってくるのです。
伝言ゲームはいじめの端緒となり得ます。何より、特定の誰かが言ったことが他人に次々と伝えられる、という恐怖の中にあるからです。わたし自身、それでずいぶんと苦しみましたし、今もその後遺症にさいなまれています。遊びとはいえ、決してしてはならないゲームです。同じく、LINEも現代版のそれとなり、人を貶めたり、いじめの内輪での悪企みや誰かをそうする場とさえなるのです。その顕著で極端な例は、いうまでもなく、広島の呉で起きた集団暴行殺人事件でしょう。個人的には、LINEは有害アプリとして、使わないようにすべきだと思うのです。土用の丑の日 ― 2013年07月22日 18時43分29秒
平賀源内先生の発案から、日本中に広がったこの習慣、今では年中食べることで資源の枯渇も心配されるのは源内先生も予想しなかったことでしょう。周遊魚としてでなければ育たないこのウナギをどうするか、この日に食べるだけでなく、考えなければなりません。まず、始めるべきは、食べる量の低減、控えめにすることでしょうか。そうして少しずつ、稚魚を増やし、育てることに力を注ぐことです。幸い、内陸の湖沼も環境の改善は進んできていますから。いつからするの?今でしょ!
私たちにできること、いえ、進めなければならないこと、この漁業国でその大切な資源を適度に消費しつつ、ほどほどを心懸けた魚食の文化を再興することです。腹八分目で消費量の低め安定を図ることは維持可能な社会のひとつの姿です。自給はその消費量・需要の適正化もまた、寄与するはずだからです。その第一次産業の経済的な適正化を同時に創り上げること、焦眉の急と考えます。東南の突端の賑わい ― 2013年02月17日 17時50分46秒
早朝は快晴でしたが肝心の時は曇り空、冷たい中も物珍しくこの土地の特有の海浜の植物にしばしば目を奪われるわたしをみつけたのでした。鳥の数も種類もとても少なく、代わりの暖地性植物は有毒だというのも含めて目を惹くものがあります。先達の説明に耳を欹てながらそれぞれの姿を目に納め、一部写真にし、かなりの割合、人工的な植栽とされる灯台近くの水仙群落を眺めたのでした。
人を恐れないのはまた、海岸の足下まで寄っていて逃げなかったツグミとジョウビタキの雌で、2羽で追っかけごっこをしながら行き来する寒空のほのかなぬくもりを与えてくれるものかと思い込んでもみます。ホオジロもふつうならそんなに姿を人目に近くでさらすことは避けるのが習性のひとつと理解していますが、どうもこの突先での鳥類は人に警戒心はあまり無いように見受けられます。一因としては、気温の低さ、せり上がる風向、音のさざめき、遅いとはいいながらも雪の山より遙かにある餌など、この環境の特性だといえるようです。多く行き交う人の姿やそのおとなしさもまた、別の要因かもしれません。クレマチスの丘 ― 2013年02月11日 19時10分06秒
今日も晴れていて、そんな中にひとりいるのは不自然ささえ感じさせられます。もっと早くにこちらに来ていれば、と今更ながら振り返ること何度目でしょうか。冬でも降雪もなく、晴れている、そんな環境でのびのびと過ごせたらどんなに幸せだったか。いつも遠い春を見つめているような、そんな哀しい生活の続く時間に無為を知るのです。</p>
静止した動物たちの姿、その命の一瞬に駆けた輝きにわたしたちは明日を思い、彼らの歩みに昨日を思いやるのです。無心に生きる時間のおそらくは彼らにとり一定でも一様でもないはずの無意識の流れの中に私たち自身の生きる道の一通りではない、ただ一度の人生の一瞬一瞬を切り取ったその本来共有しているに違いない時空の不如意さを発見するのです。生と死、それらを並べたとき、宮崎学氏は不可分ではない時間と営為を教えてくれているのです。
ふつうのこと、自然なこと ― 2013年02月09日 11時23分07秒
『自由とは必然性の洞察である。』とは哲学者、ヘーゲルのことばですが、まさにそのとおりでわたしたちにとって本来、その「自由意志」によって何を必然的な合理的事象とみなすかはその過程を含めた(深い)洞察によって決まることです。その自己決定に至る経路に時間的な長短があるとしたらそれはその過程や環境の自然さに依存する、といえるでしょう。もし恣意的な何かがそこに意図的に入り込むとしたらそれはゆがむどころかそこで何も無くなってしまうという現実を私たちは経験することになります。</p>
生きていくうえで、我々ヒトだけでなく、かの動物たちもまた、その一見したところ行当りばったりの偶然の行動に見えても、そうでない方向に向かうのは必然であり、その自然な意思の発現であった、と後に知ることになります。これは例外なく、いわば、「ふつうの」結果であり、論理的にその時間的な経路における文脈を考えたとき、苦もなくまた無理もなく認識され、その認知過程はそのまま受容されうると私たちは受け止めることになるのです。そこに何ら不自然さはありません。










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