いつか冷たい雨が2008年10月01日 22時44分29秒

クモガタヒョウモンのメス
イルカ作詞作曲のこの歌、今日またすぐに浮かびました。今朝早くやっと明るくなりかけた道路の中央寄りに猫が車にはねられ、轢かれて死んでいました。その惨状はとても直視できないほどで、写真にはとても撮れませんでした。暗い内にはねられたのでしょう。それから何台もの車が通ったらしく、内臓などが散乱していて、思わず涙がこみ上げてきました。私にできたのはただ、何度も祈ることだけだったのです。


……………
広い道路の真中で ひかれてしまった みけ猫
その上を何台もの車が 通りすぎていく
思わず目をとじてしまった 私を許して下さい
みんなだって そう思っていると信じたいのです
……………
人間以外の物達にも もっとやさしくして下さい
同じ時を生きているのだから
朝が来れば夜も来るし
産まれて そして死んで行く
私が土になったら
お花達よ そこから咲いて下さい

目を背けたくなる、そんな現実を誰しも見、あるいは目の当たりにして堪え難い思いにとらわれる、そんな経験があると思います。とりわけ、いつも通る道でそんな光景を目にすると酷く辛い心象となって、いつまでも残ってしまいます。今日の場合、道路が原因であり、その前に人間の横柄さ、傲慢さ、身勝手さが先にあります。どんなに暗くても、誰も通らないからといって前も注意しないで、ライトで照らして確かめもしないで超過速度で突っ走る、そんな運転者にこそ、責任があります。もちろん、他にない道路を真ん中に敷設して他の生物たちの邪魔をしているのも同罪です。もっと、他の動物たちの生活も考慮すべきでした。人間中心の環境にこそ恨みがあるのです。

峠で見つけたのはクモガタヒョウモンのメスでした。明るい光を羽いっぱいに受けて暖まっていました。道路でなくてよかったのです。時折、道路にチョウが落ちたり轢かれたり(いえ、当たって落ちた)して死んでいるのを見つけることもありますから、何も地を這うような動物たちだけではないのです。考え直さなければならない、そんな警告を死を持って与えてくれているのです。

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公平な晴れ2008年10月02日 21時11分22秒

キセキレイ
今日も昨日に続いてほぼ快晴(午後は少し曇りました)、北風は強めでしたが気持ちのよい空気でした。キセキレイは何羽も飛び交い、よくいるセグロセキレイより多いくらいです。どうしてかはあまり考えていません。どの人に対しても、この空は平等な青い空ですから。何より、公平で公正で平等な社会環境の中で、均等に機会が誰に対しても与えられ、誰かが誰かを不当におとしめたり障害を負わせたり、あらぬ区別を強いたりしない、そんな社会でなければ本当の社会とはいえません。

翻って今の現代社会をちょっと斜めに見ただけでもよく見えてきます。報道を待つまでもなく、この社会は、特に日本社会は住めば住むほどその不公平さ、不公正さ、不平等さを感じさせるのです。それらに加えて、いずこも偏った人、物、機会、、、と不均衡の重なりです。とても生き辛い、息苦しくてどこか窮屈な、閉鎖的な集団と階層の支配する社会が見えてきます。一度は明治維新で打ち破ったはずだったのに、それも新たな支配構造を造り出し、また現代は逆に江戸時代の感覚を戻したかのような現実を構成しています。

社会は私たち自身が形成していくはずなのに、どうも誰かが、あるいは特別な階層の人たちが特権的に組み上げていこうとしているかのような事実を私たちは知っています。でも、もうそんな旧態依然とした構造も含めて、変革と進歩をこそ、まず、選挙で示さなければなりません。そして、何ら遠慮も躊躇もなく、代表者たちに意見をし、批判を浴びせなければなりません。

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福知山線事故犠牲者の自殺2008年10月03日 21時32分00秒

ウラギンシジミ
尼崎のJR脱線事故での負傷者の男性が自殺したとの報道は、社会のケアももちろん、直接接してきた人たちのケアも支えにも慰めにもならなかったこと、無力な面をまた浮き彫りにしています。25歳、まだこれから、何とでも取り戻せるのではないか、との周囲やおそらく家族の方々の期待と支え合いが及ばない精神的な障害の深さをあらためて知らしめてくれたのです。亡くなった男性はもう戻りません。同じく、3年半前に亡くなられた方々の命もまた、戻らないのです。そんな、悲惨な現場に居合わせ、自らも怪我を負い、堪え難い苦痛と光景を眼前にした彼の心の状態はJRの連中はもちろん、親しい人々さえ及びもつかなかったのです。

一般の私たちに何より求められたのは、障害を負ってしまった人たち、気持ちの優しい人たちの、ある意味での弱さ、不安、様々な障害に対して一緒に助力を含めて支え合える社会の仕組みや連帯意識を造り上げ、育て上げることだったはずです。近年盛んに言われているように、また防ぐ方策を多くの心ある人たちが考え、行動しているように、自殺の多さと増加を食い止める、そういった傾向に陥った人たちを救い生きていける本当に進んだ、前向きの社会を築いていく姿勢や態度にまだまだ遠く至らない事実をまた知ってしまったことは、世界でも有数の自殺国として更に原因の認識と変革を志向する必要を感じさせるところなのです。

何ができるのか、ではなく、何をするのか、どう考えるのか、そしてどれほど共感していくか、そういった積極的な心の姿勢が問われています。せっかく命だけは助かった人が、その心的障害から逃れることなしに、過去の事実と向き合うことで共に生きるよすがとすることなしに自らも過去に預けてしまった、そんな悲しすぎる現実を何とかして変えなければなりません。よくそうした場合、「克服」とか「克己」とかいって追い立てたり励ましたり、またしかりつけたりする、そんな誤った考えを押しつける輩が多いのですが、その本質的な誤りを自身の痛みとして知るところから始めることも、そういった風潮や自己責任ばかりを言いたがる連中には必要です。でも、そんな者たち以上に、何より周囲の人たちがその心情や事実を認識して社会の本当の意味での進歩につなげていくことがこの男性の死に報いることだと思うのです。

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熊さんが出たのか2008年10月04日 21時28分45秒

熊剥ぎか?
午後も晴れて暑いくらいの気温(26℃ほど)で、歩いていると汗が出ました。でも北よりの風のせいか、それほど暑くてうだるとか辛いとかいうほどではありませんでしたから、まあ、よかったのかな、というところです。それで、山に入りかけた道のすぐそば、檜か杉の直径30cmの幹に爪で長くひっかいた後を見つけてしまったのです。そしてその下の土を見て、これは………そう、クマの足跡にそっくりではないですか(写真左下)。

帰り道、知り合いに会ったので、いつも通るその道の木のひっかき傷はなんだと思うか尋ねたのですが、いや、気づかなかった、との答え。またよく見てみる、で済みましたが、さて、普段はクマの出る山ではないので、どうなんでしょうか、かなり気になります。実際、日参するほどの親しむ領域ですので。今年の秋はまだクマの出没情報はでていません。夏に半島の方で出たとの有線情報があったのですが。

クマのいる山ではもっとはっきりしたクマ剥ぎの後をみることがあります。今日の山の東南の山の山頂付近でがばっと剥いだ跡にでくわしたこともあります。山の荒れや木の実の不足が言われて久しいのですが、果たして、今年はどうなるのか、暑かった夏の影響はどうなのか、冬もまた、要注意です。

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雨の日曜日2008年10月05日 21時23分07秒

濡れたサクラタデ
朝は曇りで肌寒いながらもまあまあでしたが、10時前から雨がぽつぽつと降り出したりで昼には地面も道路も濡れてしまいました。それでも、そんな降りではなかったので歩いたのですが、雨露は人も花も頭を垂れさせるのです。山の近くの元田んぼの縁ではサクラタデが雨に濡れて穂が垂れてしまっていました。露は小さな花には重すぎます。

田んぼにはセグロセキレイに加えて、ハクセキレイやモズが飛んでいて雨にも負けず作業をする人たちとで日曜の風景を描いていました。私もまた、そんな一員であり、田舎の姿とはそういうもの、と思うと何をどういうこともなく、と片付けるより、淋しさや哀しさを感じてしまいます。他に、何もないのですから。

今を憂うる以上に、これからを心配してしまいます。こんな風景や自然とも異なるそんな環境に明日を見るのは青と灰色の寒々とした退色です。夢や希望をそこには期待できないのです。自ら創るものだ、とか開拓するものだ、といかにも、のことばを当ててみても、やはり現実を直視すればするほど、未来のこの地域の光溢れた輝かしさや躍動する生き生きとして命溢れる環境を思い描くことははなはだ困難なのです。

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水辺の無い田畑2008年10月06日 20時43分23秒

ジュズダマ近影
この地域では「土地改良」なる耕地整理もどきが進んでしまっていて、もう昔ながらの水路や水利は見られません。ほとんどの田んぼがポンプによる給水を行うただの田んぼのみ、になっています。それが便利なのは確かでも、命の水を大切に、命の元に使うという態度や心はもうありません。ただの水の供給手段でしかないのです。また、用水路もコンクリートで造った水路で、ほかには道路のそばの側溝やそのまがいものばかりです。

したがって、たまにあるのは三面張りのコンクリートの溝にすぎず、そこに生き物、とくに水生生物や水辺を大切な生息場所としている動物たちはほとんど姿を消しています。代わりに埋まっているのは従来なら見られなかった強い「雑草」だったり汚い「もの」だったりします。所々にはまだそれなりの植生を見つけることもできますが、珍しくなっています。そんな中、今日の写真のようなジュズダマは最近では本当に珍しく、思わず足を止めて撮った次第です。

けれども、昨日の記事でも言及したように、このままでは生物がどんどん、数も種類も減ってしまいます。とりわけ、上記のように、水辺で産卵・生長する生き物たちが眼に見えて少なくなってきているのです。心配されているのはチョウだけではなく、特にトンボやカエル、水生生物、その元となる水草や藻でしょう。飛び交うトンボはめっきり少なくなり、雲のようにさえ見えていたウスバキトンボもそんなに目立たなくなりました。いうまでもなく、植物の姿も徐々に変わり始めていて、このままいったい、どうなるのか、危機感を抱いているこの頃です。

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法に則って、とは何か2008年10月07日 21時40分11秒

ノブドウ
今日の国会の委員会での質疑応答では、麻生首相と舛添厚生労働相の二人の連続した場面を夕方のニュースで見ました。志位氏が、派遣の期間満期での配置換えなどによる派遣延長を質したのに対し、首相は『法に基づいて』、舛添大臣も『法に基づいて』と繰り返しました。でも、問題なのは、その法を使ってそう(違法)ならないように見かけ上、また実質交換として異なる職場や仕事を期間を区切って割り振ることにあるのです。これらはまさに、『法に基づいて』行われるので、厚生労働省は指導も勧告も告発もできません。

派遣で働いた経験のある方ならよくわかると思います。そして、その不法行為を外部に告発したり労働局などに申告したりすると、間違いなく、解雇されます。でもそれさえ、派遣の業務終了だとか、他に充足できたからだとかいったもっともらしい、実はことばだけの虚偽説明で正当化されているのです。そういったことを後で申告したりしても、実際のところ、臆病で企業よりの無能で腰の引けた労働局の役人は何もしてくれません。それどころか、そんな違法行為をした会社側を擁護することさえ堂々といってのけます。

法の精神とは上記とは全く異なります。そもそも、労働者派遣法自体、違法な立法です。法に基づく、とか、法に則る、というのは実定法の細則をそのまま適用したり「使って」いくことではありません。法が法としての実効を示しうる、強制しうるだけの論理と正当性を持っていること、それが法の存立を法たらしめるだけの意味を法としてもつことは必要条件です。でも上記の例は言うまでもなく、立法そのものに当初から疑念と誤りを指摘されていた法で運用するのは出発点から無理があります。実際には効果のまったくない無意味な制定法など不要です。今すぐ廃止し、そもそもの始まりである雇用実態自体をなくすことに一丸となって取り組むことこそ、世界でも恥ずかしい労働の姿を変えることにつながるはずです。

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円の価値を上げる2008年10月08日 21時12分10秒

ミドリヒョウモンのメス
以前の記事で伊藤隆敏東大教授の論を引き合いに出しましたが、実際、円はずっと以前に経済実態に基本的に合致した価値を為替レートで示したこともあり、その値に少しでも戻すこと、あるいは現在の適正価値を見いだすべく調整されるべきであることを考慮しなければなりません。平均株価の値下がりで騒いでいますが、実質的な状況として適切な価値の反映となっているのならその上下に右往左往してもしかたありません。円自体は本来、経済活動だけで決まってくるのではないはずだからです。

主要通貨に対して、軒並み連動する形での「円高」ですから、日本一国がどうこうしてもどうなるものでもないのです。また、企業が換算レート、為替レートを勝手に想定したり範囲を決めたりして対応するというのも元から間違ったやりかたなのです。むしろ、少し前の「円高」水準をさえ、維持する方向、あるいは高める方向で対応していたら数円の上下であわてたり、売れなくなるなどとあわてる必要はなかったはずです。必要なのは、日本の経済活動の波及と効果を強め、社会の価値を高め、それらの実態を円の価値として為替水準を適正に保つことなのです。安くうれない、とか、言う前に、原材料の輸入や調達、生産と販売の転換を考えないのは愚かです。

また何週間かぶりにミドリヒョウモンに出会いました。飛び方が、ハタハタとしてときとして滑るように羽ばたく様はその特徴です。晴れてその姿は薄まってしまいますが、まだやってきてくれるだけ幸いです。チョウのように、行き来する、あるいは飛来するのはごく自然です。同じく、一方通行で「もうける」ことにばかり眼を向けているばかな企業人ももう少し目を見開いて広い視野で見つめ、より長い目で物事を捉える姿勢や態度が求められます。

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機会と始点2008年10月09日 20時54分38秒

アサギマダラとフジバカマ
国籍はどうあれ、ノーベル賞に4人もの日本人(血として)が選ばれたことはとても嬉しい出来事です。いずれも30年~40数年という長い年月の「検証」や「展開」の後のことですからなおさらです。でも、それでも、私から見れば4人共にとても恵まれていた、という第一の理由を考えてしまいます。生まれ持った能力は別として、教育を「受ける」あるいは「授けられる」機会、継続と学ぶ場の環境の良さという機会、虐げられたり辱められたり抑えつけられたり不当に奪われたりしなかった「当然の」存在の認容と受容という機会、そういった機会をすべて受けていたという、間違いなく私の目からみるなら、「幸運」はその結果を導くのに不可欠な要因だったと思うのです。

ともすれば、それぞれに、「地道な努力」だとか、研究に打ち込む「精神」だとかいったことが強調されたり、また、各人自身の口からも出させたりしがちですが、それは本質的に違う、誤りだ、と考えます。大切なのは、そして、必要なのは始めるに当たっての機会の均等、対等な立場、衡平で偏りのない環境であるはずです。それらが整って、あるいは保証されて初めて、同じ場での研究や競争のやり方なりが意味をもってくるのです。後は、何を見いだすか、閃きや運を呼び込むかは本人次第、となるわけです。

そして、何より、自由であること、これは大前提です。いうまでもなく、自由に生きることのできる環境、自由に考える精神の自由、この二つが当たり前に保証されるところでこそ、意欲や粘り強さが発揮できるのです。もちろん、その方向に駆り立てる何ものかが必要なのはいうまでもありません。

家の裏の畑のフジバカマに例年どおり、アサギマダラがやってきました。よほどこのクマリンのにおいがお好きなようで(私も好きです)何時間もへばりついていました。英気を養ってまた、遠く遙かな飛翔にでるのでしょう。

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不安の連鎖の原因は2008年10月10日 21時26分03秒

ウラナミシジミ(のメス)
世界中を巻き込んでいる米国発の金融不安は危機や恐慌ということばさえ押し上げて、益々人々の心理を冷え込ませています。現実にそれは不安定な社会状況や生活自体に障害をもたらしているわけで、先日も記事にしたように、一国でどうこうできる問題でもないところになお、先行きさえ見えなくなる一層の不安の連鎖を引き起こしています。G7でもおそらく、実効のある声明すら出せないでしょうし、他の新興国とて、実質的に現在豊かな国々に依存している以上、何かをできるとは思えません。グローバルな(地球規模の)経済循環はその流れの向きや幅や通り道を調整するか、変えないとどうにもならないでしょう。

それでは、それを可能にするにはどういった原因を特に注視し捉えればよいでしょうか。歪んだ、ゆがんだお金の筋道がひとつ、偏在する資源や人口の恣意的な扱いによるいわゆる、「ダム」化や特権的で強権的な保持と操作の実際が二つめ、社会的な不安定さと争乱や強圧的な体制の存続を各地でもたらしている現実は金融や経済とまさに地球規模でつながっていますから、これが三番目です。でも、それでもなお、少数の国々による先導的な仕組みは必要だと思います。すべての国や社会に対等な立場での活動や働きを期待するのはまだ、というか、おそらく長い目で見ても、無理があります。それに、増大する人口に見合う食糧生産とエネルギー供給はまさに死活問題となります。これは第四に、そしてその重要性は今後益々大きくなっていくでしょう。

身の回りの実生活でも私たちはこの先、明日の不安を心理的に増大させています。上限やプラトーに近づいたかに見える成長神話とそれに伴う景気や社会の「発展」の頭打ちによる雇用・生活不安、そのための物価高、社会の不安定化、教育による感化育成の限界と困難さ、人間と社会の老化の進行、温暖化による環境の破壊的な悪化など、どれも見えたり見えないところで深刻化しています。いったい、何ができるでしょうか。どうすれば、よい方向に変えられるのでしょうか。

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