福知山線事故犠牲者の自殺2008年10月03日 21時32分00秒

ウラギンシジミ
尼崎のJR脱線事故での負傷者の男性が自殺したとの報道は、社会のケアももちろん、直接接してきた人たちのケアも支えにも慰めにもならなかったこと、無力な面をまた浮き彫りにしています。25歳、まだこれから、何とでも取り戻せるのではないか、との周囲やおそらく家族の方々の期待と支え合いが及ばない精神的な障害の深さをあらためて知らしめてくれたのです。亡くなった男性はもう戻りません。同じく、3年半前に亡くなられた方々の命もまた、戻らないのです。そんな、悲惨な現場に居合わせ、自らも怪我を負い、堪え難い苦痛と光景を眼前にした彼の心の状態はJRの連中はもちろん、親しい人々さえ及びもつかなかったのです。

一般の私たちに何より求められたのは、障害を負ってしまった人たち、気持ちの優しい人たちの、ある意味での弱さ、不安、様々な障害に対して一緒に助力を含めて支え合える社会の仕組みや連帯意識を造り上げ、育て上げることだったはずです。近年盛んに言われているように、また防ぐ方策を多くの心ある人たちが考え、行動しているように、自殺の多さと増加を食い止める、そういった傾向に陥った人たちを救い生きていける本当に進んだ、前向きの社会を築いていく姿勢や態度にまだまだ遠く至らない事実をまた知ってしまったことは、世界でも有数の自殺国として更に原因の認識と変革を志向する必要を感じさせるところなのです。

何ができるのか、ではなく、何をするのか、どう考えるのか、そしてどれほど共感していくか、そういった積極的な心の姿勢が問われています。せっかく命だけは助かった人が、その心的障害から逃れることなしに、過去の事実と向き合うことで共に生きるよすがとすることなしに自らも過去に預けてしまった、そんな悲しすぎる現実を何とかして変えなければなりません。よくそうした場合、「克服」とか「克己」とかいって追い立てたり励ましたり、またしかりつけたりする、そんな誤った考えを押しつける輩が多いのですが、その本質的な誤りを自身の痛みとして知るところから始めることも、そういった風潮や自己責任ばかりを言いたがる連中には必要です。でも、そんな者たち以上に、何より周囲の人たちがその心情や事実を認識して社会の本当の意味での進歩につなげていくことがこの男性の死に報いることだと思うのです。

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