三浦和義元社長の自殺 ― 2008年10月11日 21時19分32秒
三浦氏の心理状態はいかばかりか、推し量るだけでも怖れを感じます。やってはならないことをしてしまったのはアメリカの警察と検察だったのですし、裁判所(判事)は基本的な思考と判断を誤っていたのです。悪く言えば、アメリカの警察は立件と追求をその成果獲得の目的のためだけに行ってきたともいえます。何一つ示さないまま強引に引っ張ったのは本来、行き過ぎどころか人権の否定でさえあるのです。表向きは気丈な姿勢を見せていた三浦氏ですが、現実に移送され留置された時間はその心理的な絶望感を急速に膨らませたに違いありません。
日本政府はアメリカ政府やロサンゼルス市警察と裁判所に対し、強く抗議と保護をしなかった責任の追及をしなければ、また同様のケースが生じた際になお酷い扱いを同胞が受けることを黙って見捨ててしまうことになりかねません。たとえどんな疑いを受けようとも、国内の最高裁判所で無罪とされた人を二十数年も経てなお、意図的に無理矢理(としか思えない)裁こうとした米国の一部に対しては強い憤りと日本あるいは外国に対する侮蔑と見下げた態度と姿勢を感じざるを得ません。これら、二つの意味でしっかりとした強い態度で米国に臨んでほしいのです。「同盟国」だというなら、いうまでもないことです。対等な関係なら何でも言えて当然ではないですか。--- CLICK で拡大します ---
秋らしさ ― 2008年10月12日 21時35分11秒
山のそばや周辺の道沿いではトンボたちが群れています。いつぞやアキアカネが減ったよ、と記事にしたのですが、今年は意外に多く見つけられます。今日の山の神社の参道入り口付近ではお日様の暖かさを受ける場所のせいか、群れでいるかのように多かったのです。この後の産卵と生育を期待したいものです。
思いもかけない失敗や過ちは誰にでもあるわけで、問題なのは、それを待ってましたと言わんばかりに責め立てる材料や理由にして自らの目的を達しようとする輩がいることです。原因は自分たちの醜さ、幼さ、愚かさであり、偏見や先入観に充ち満ちた目と耳がそうさせたのを責任転嫁し、正当化せんがための行為であることです。更によくないのはそれを認識しようとしないところであり、その変質性は際だっています。秋だから、といって、許されません。=== CLICKで拡大します===
目的、標的、計画的 ― 2008年10月13日 19時47分35秒
もっともよくないのは標的を持つ場合ですが、それには必ず計画的な意図がついてきます。そのため、対象は犠牲になることを避けられず、傷つくくらいでは済まなくなるのです。生存と存続のための必然なら、自然の摂理にかなうでしょう。でも人間ではそうはいかないのです。わたしたちは合理性を見いだせない種類のそれらに計画性を併せ持たせ、ヒト同士でさえ、奪うのです。そこには本質的な必然性はありません。だからこそ、たとえば、悪意や利己的な目的を持ち、自分本位に思考し、遂行しようとするときには重大な侵害・蹂躙、そして否定へと進んでしまうのです。
ブレーズ・パスカルが述べたように、『人間は考える葦である』のですから、まず、自らを最低限、振り返ってみることです。顧みればこそ、見えなかった自分自身を見いだすことに気づくでしょう。だからこその人間です。単なる、生物としてのヒト、ではないのです。しかるに、キタテハのように、見境無く汚らしいセイタカアワダチソウにまで管をのばすような人間であってはなりません。それは支配者に魂を売ることと同じです。+++ CLICK で少し、拡大します。+++
見失わないために ― 2008年10月14日 21時16分54秒
でも一番怖いのは、そういった自身の方位センサーを探すのではなく、逆に自ら一方的に思いこんだり決めつけたり、果ては強圧的・暴力的に押しつけたりすることです。そんな人間が残念ながら、多いのです。とりわけ、多人数だったり、集団的であったり、「狂信的」に信じ込んだりするせいで少数や絶対少数の人間に刃を向けたり否定してしまったりすることがあり、これは残念ではすまされないわけで、到底、許されない態度・姿勢・行為であるのです。また、表面的な、あるいは表層に現れた見かけや部分的な事象や言動などで勝手に思いこみ、あるいは他に何も受け付けない態度で接しようとするのはその人自身にとっても著しく不幸な結果を招きます。
本当に何を信じるのか、何を知りうるのか、それはねじ曲げられていない事実を無にして観察することから始まります。余計な先入観や一方的な偏見、常に上から見下ろすような態度、浅はかな判断や思考による勝手な行為、そういった誤りを避けるために何をするのが、どうするのが適切な、適正な判断や方向を見いだすのに役立つのかを自ら身につける、そのための機会あるごとの訓練や顧慮が求められます。大切なのは、その結果を求めようとすることではなく、ただ、そうすることで自らを見つめ直すこと、考え直すことで気づくことです。何よりも、自分自身を見失わないために。*** CLICK でちょっと拡大します ***
また、農薬入りインゲンマメ ― 2008年10月15日 21時58分13秒
今すべきは製品化から店頭までの間をいかに確かなものにするか、です。どうせ、犯人も段階も明らかにはできないでしょうし、そうならばこんどは見つけ出せる体制と複層的なチェック体制を敷くことでこれからを絶つしかありません。幸い、今度も亡くなったりしたのではありませんから。とにかく、透明性と開示の徹底を合わせて行い、それを日中間でどの業者に対しても求めることです。中国風に言えば、不満分子の仕業としか考えられませんから。
写真は色あせて黄色がほぼ完全に(真ん中尻近くに少し残っています)消えてしまったキアゲハです。まだ元気でしたから、夏型の個体の著しい褪色(鱗粉?)を伴う終わりかけの状態でしょう。見かけるのは珍しいといえばそうですが、他のゴマダラチョウとかと紛らわしいので止めてほしい、といったところです。--- CLICKで拡大します---
何を守るのか ― 2008年10月16日 21時12分50秒
本当に、公共の福祉にかなうことだったでしょうか。第二京阪道路の予定地だからという理由だけで、子供達の貴重な汗とささやかな楽しみと小さな夢を壊したのです。自身、弁護士でもあり子供を持つ親でもある橋下徹府知事はそれを正当化しました。最初に道路建設ありきで周辺の環境どころか、真下の大切な土と緑と命の元を平然と奪う彼ら公務員には基本的な態度や視点以前の心が欠けています。また、道路建設自体、必然性と将来に対する見込みや予測、影響、合理性は見えません。今からでも、止める、何もしない、という選択肢を検討すべきです。いったい、誰のための建設、道路なのでしょうか。小さな子ども達の涙を直に見ても彼らは何も感じなかったのでしょうか。
過ちをしでかし、その穴埋めをもくろみ、自らを守らんがために更に酷い行為や作為に走る者たちも数多くいます。そして更に悪いのは、はじめから誤りだとわかっていても無理矢理、しゃにむに押し通す、突き進むことにためらいを感じない連中です。逆らえない、とはよく言う、言われる決まり文句で逃げ口上ですが、本当に認識しているならそんな下手ないいわけなどせず、人間らしく、はっきりと権力や命令にあらがい、拒絶すべきでしょう。そういった姿勢こそ、暴力や横暴を許し、蔓延らせ、社会をつぶしてしまうのです。正当性など、かけらもありません。公務員はその職務を考え違いせず、その地域と住民をこそ守る、その基本的な立場において強欲な利益や目的追求に走ることを戒めるどころか、拒まなければなりません。誰のために仕事をしているのか、今一度、顧みることです。=== CLICK で少し拡大します ===
思いこみは不幸 ― 2008年10月17日 21時31分14秒
決めているのは互いの距離、つまり視程と空気をもった空間です。声が聞こえるかどうかはさらにその人それぞれの感覚の状態と心理状態、その間に意図的な指向をもたらすのかどうか、といった意思の問題によってきます。その結果により、一方的な思いこみが生じると、他者は見えなくなり、その声も音も聞かれなくなります。それがなお更に思いこみを深めてしまうのです。だからこそ、聞く耳を持つ、見る目を持つ、感じる心を持つことが必要になるのです。
理解と信頼は頼るものでもなく、寄りかかるものでもなく、依ってきまるものでもありません。ただ、その人自身の心の持ちようにかかってきます。もっと易しくいえば、気持ちの持ち様により変わってくるのだともいえます。心身の状態、健康の善し悪しにより違ってくるのです。恣意的な見方ややり方、考え方の偏りや一方向の圧倒的な押しつけは大きな不幸なのです。自らさえ失っていくことに気づかなくなってしまうのです。+++ CLICK でちょっとだけ拡大します+++
機会を奪うな ― 2008年10月18日 20時59分20秒
社会参加の第一は就業です。労働の機会はすべての適応年齢の人に開かれねばなりません。なぜなら、労働は憲法に保障された権利だからです。でもその権利が恣意的に「経営上の」「都合」で左右され奪われる状況が多発しています。その経験のある方なら頷けるはずですが、現実のそのされ方には酷いものがあります。声を上げるとなお酷くなる、そんな民主主義社会とは思えない事態を招くことはとても容認できないことです。もし、『働かざる者食うべからず』というのなら、すべての希望者にできる限り望みにあった仕事を与えることは生存のために必然的だといえます。
でも理不尽な就業機会の剥奪や排斥といえる理由を付けての不採用が横行しています。最初の入り口での選別以上の区別と排除は許されないと考えます。当たり前の権利として、労働権が社会の責任の名においてすべからく保障されるように機会の均等な採用条件と雇用条件を明文化して義務化すべきです。そのためにも、たとえば、時間外労働は原則認めないようにすれば雇用の機会は増えるはずです。そして、その実現のために、社会のコストを減じる方策と工夫をこそ、探っていかねばなりません。--- CLICK で拡大します ---
人生に次はない ― 2008年10月19日 21時45分52秒
よく、ポリシーなどという和製英語化した言い方をする人がいますが、これもあまりに人生や生活や仕事を軽く、あるいは対症療法的に考えた浅はかな物言いです。本当に言うのならば、フィロソフィー、つまり、哲学、というべきところです。何より持つべきはその Philosophy の実現に向けた態度と姿勢なわけで、軽々しい「方針」や「施策」の類ではありません。生きると言うことにつながるその表現の指し示すところはそんな拍子抜けしたPolicyではないからです。
持ち時間を認識し自覚するのが人それぞれだとしても、あるいは、時間の流れを感じる感覚に個人差や環境の差があったとしても、限られた生命活動に棹さすことも引き留めることもできない厳然たる摂理に私たちは支配されているからです。そして知るべきは自分自身の存在の不確かさであり、不安定な状態に他なりません。恣意的に、だからこそ、誰かや自分自身によって人生は左右されても、曲げられてもならないし、制御などもってのほかです。決めるのはその人自身の他ならぬ自意識からでる命の現出であり、他の何ものでもないのです。何も、待ってはならないのです。+++ CLICK で少し拡大します +++
私の世界 ― 2008年10月20日 19時48分44秒
明日こそ、と陳腐ながらそんな言い方をまだしていながらも、希望を失わない、希望に満ちた世界を信じている、そんな自分をいつも持っているのは生きている証なのですし、堪え難い思いに囚われて涙してもなおこれから、とつなぐ気持ちは誰にも増して強くなっています。小さな幼鳥も希望を浮かべて明日をいきるのですし、子ども達の姿もまた、明日の希望こそその笑顔に見えるのです。
だから、誰も、その思いを奪うのはもちろん、見下しても、否定しても、押しつぶしてもなりません。どの思いもかけがえのない生命の明日の姿を今に映しているからです。誰にもそれをないがしろにする権利はありません。どんなときも、何年経とうとも、生きているのはこれから生きることであり、その不安の中に夢を持ち、恋にいきるのは私の命の唯一無二の実在する姿なのです。
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