三浦和義元社長の自殺2008年10月11日 21時19分32秒

カワミドリの花
夜のニュースで最初に報じられて驚くと共に、なぜこうなったのか、アメリカの警察・検察・裁判所はその原因と責任を自覚してほしいと思いました。公正と公平を看板にしているアメリカ社会で不公正で理不尽な逮捕と裁判が行われようとしていたからです。誰よりもそれを肌で心底恐ろしく感じていたのは当の三浦氏だったでしょう。27年前の事件でどうして今確たる証拠や事実を示されないままに突然逮捕され、日本では無罪とされた一連の経緯を裁判所は別個に扱い、本来殺人の事実を確認できなかったという結果で終わったことを再度見直すのは逆に正義にかなう行為ではありません。また、そういった手続きや手法は日本を対等な国家として見なしていないとも受け取れます。

三浦氏の心理状態はいかばかりか、推し量るだけでも怖れを感じます。やってはならないことをしてしまったのはアメリカの警察と検察だったのですし、裁判所(判事)は基本的な思考と判断を誤っていたのです。悪く言えば、アメリカの警察は立件と追求をその成果獲得の目的のためだけに行ってきたともいえます。何一つ示さないまま強引に引っ張ったのは本来、行き過ぎどころか人権の否定でさえあるのです。表向きは気丈な姿勢を見せていた三浦氏ですが、現実に移送され留置された時間はその心理的な絶望感を急速に膨らませたに違いありません。

日本政府はアメリカ政府やロサンゼルス市警察と裁判所に対し、強く抗議と保護をしなかった責任の追及をしなければ、また同様のケースが生じた際になお酷い扱いを同胞が受けることを黙って見捨ててしまうことになりかねません。たとえどんな疑いを受けようとも、国内の最高裁判所で無罪とされた人を二十数年も経てなお、意図的に無理矢理(としか思えない)裁こうとした米国の一部に対しては強い憤りと日本あるいは外国に対する侮蔑と見下げた態度と姿勢を感じざるを得ません。これら、二つの意味でしっかりとした強い態度で米国に臨んでほしいのです。「同盟国」だというなら、いうまでもないことです。対等な関係なら何でも言えて当然ではないですか。

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秋らしさ2008年10月12日 21時35分11秒

アキアカネのオス
空は晴れ、天高く馬肥ゆる秋、そのままの好天でした。気温もさわやかで20℃未満、北風も少し寒く感じられるくらいでした。今日はどこも彼処も地区の体育大会とかで、ちょうどもってこいの気候、参加は*もう*しませんが、よい季節です。空の色がいいです。深みと色合いの濃さは秋そのものですし、雲の波はいかにもの空です。

山のそばや周辺の道沿いではトンボたちが群れています。いつぞやアキアカネが減ったよ、と記事にしたのですが、今年は意外に多く見つけられます。今日の山の神社の参道入り口付近ではお日様の暖かさを受ける場所のせいか、群れでいるかのように多かったのです。この後の産卵と生育を期待したいものです。

思いもかけない失敗や過ちは誰にでもあるわけで、問題なのは、それを待ってましたと言わんばかりに責め立てる材料や理由にして自らの目的を達しようとする輩がいることです。原因は自分たちの醜さ、幼さ、愚かさであり、偏見や先入観に充ち満ちた目と耳がそうさせたのを責任転嫁し、正当化せんがための行為であることです。更によくないのはそれを認識しようとしないところであり、その変質性は際だっています。秋だから、といって、許されません。

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目的、標的、計画的2008年10月13日 19時47分35秒

西日のキタテハ
何のためにするのか、と思われる行為や行動は多々見られます。人間でも、動物でも、あるいは、意思はないと思われている植物でも、実際にはそれらに意味を見いだすわけです。それはしかし、観察者たるヒトがいて初めて言えることでもあり、ただ存在しているだけでは何も言えません。でもそれらが合理的で結果をもたらす可能性を持ったものならばそれらは自然と認められますが、そうでない場合、しばしば不幸な結果、あるいは望まない現実に遭遇することになるわけです。遺伝的・環境的な誘因をもったならばそれらは計画的でも理にかない、意味をもちます。けれど........。

もっともよくないのは標的を持つ場合ですが、それには必ず計画的な意図がついてきます。そのため、対象は犠牲になることを避けられず、傷つくくらいでは済まなくなるのです。生存と存続のための必然なら、自然の摂理にかなうでしょう。でも人間ではそうはいかないのです。わたしたちは合理性を見いだせない種類のそれらに計画性を併せ持たせ、ヒト同士でさえ、奪うのです。そこには本質的な必然性はありません。だからこそ、たとえば、悪意や利己的な目的を持ち、自分本位に思考し、遂行しようとするときには重大な侵害・蹂躙、そして否定へと進んでしまうのです。

ブレーズ・パスカルが述べたように、『人間は考える葦である』のですから、まず、自らを最低限、振り返ってみることです。顧みればこそ、見えなかった自分自身を見いだすことに気づくでしょう。だからこその人間です。単なる、生物としてのヒト、ではないのです。しかるに、キタテハのように、見境無く汚らしいセイタカアワダチソウにまで管をのばすような人間であってはなりません。それは支配者に魂を売ることと同じです。

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見失わないために2008年10月14日 21時16分54秒

磁気センサHM55B(Hitachi)
写真はBANDAIの出している玩具、トレジャーガウストに使われた磁気方位センサーHM55B(日立金属)の最小基盤部分だけを取り出したものです(そうするのが目的で購入)。感度は1μT(テスラ)でも一つですが、簡単な回路で使える利点があります。5mm四方くらいで小さいので応用も利きそうです。方向を見失うのは誰にでもありうることで、不思議でも叱責の対象でもありませんが、もし人が自分自身を導くための自身の方位磁針を持つように思考したり観察したりするなら、過ちや基本的な誤りをしないですむでしょう。

でも一番怖いのは、そういった自身の方位センサーを探すのではなく、逆に自ら一方的に思いこんだり決めつけたり、果ては強圧的・暴力的に押しつけたりすることです。そんな人間が残念ながら、多いのです。とりわけ、多人数だったり、集団的であったり、「狂信的」に信じ込んだりするせいで少数や絶対少数の人間に刃を向けたり否定してしまったりすることがあり、これは残念ではすまされないわけで、到底、許されない態度・姿勢・行為であるのです。また、表面的な、あるいは表層に現れた見かけや部分的な事象や言動などで勝手に思いこみ、あるいは他に何も受け付けない態度で接しようとするのはその人自身にとっても著しく不幸な結果を招きます。

本当に何を信じるのか、何を知りうるのか、それはねじ曲げられていない事実を無にして観察することから始まります。余計な先入観や一方的な偏見、常に上から見下ろすような態度、浅はかな判断や思考による勝手な行為、そういった誤りを避けるために何をするのが、どうするのが適切な、適正な判断や方向を見いだすのに役立つのかを自ら身につける、そのための機会あるごとの訓練や顧慮が求められます。大切なのは、その結果を求めようとすることではなく、ただ、そうすることで自らを見つめ直すこと、考え直すことで気づくことです。何よりも、自分自身を見失わないために。

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また、農薬入りインゲンマメ2008年10月15日 21時58分13秒

秋のキアゲハ色落ち
いったい、誰が、何のために、農薬をしかも今度はそのまま薄めることも無しに食品に入れたのでしょうか。流通経路を考えると日本国内での混入(この言い方も優しすぎ―注入したというべきか)は取り扱い方を知れば無理でしょうから、また、(後になっていやいや認めることになる)中国国内での意図的な、まさに悪意そのものの添加だと考えるのがもっとも確からしいと思えます。今度は本当にきついですね。もうごまかしも無く直接的ですから。ギョウザのケースと同じやり方だと思われます。製造から荷になるまでが一番怪しいのですが(袋に穴はなかったと発表されたからその後ではない)、今度もやはりわからないままになりそうです。

今すべきは製品化から店頭までの間をいかに確かなものにするか、です。どうせ、犯人も段階も明らかにはできないでしょうし、そうならばこんどは見つけ出せる体制と複層的なチェック体制を敷くことでこれからを絶つしかありません。幸い、今度も亡くなったりしたのではありませんから。とにかく、透明性と開示の徹底を合わせて行い、それを日中間でどの業者に対しても求めることです。中国風に言えば、不満分子の仕業としか考えられませんから。

写真は色あせて黄色がほぼ完全に(真ん中尻近くに少し残っています)消えてしまったキアゲハです。まだ元気でしたから、夏型の個体の著しい褪色(鱗粉?)を伴う終わりかけの状態でしょう。見かけるのは珍しいといえばそうですが、他のゴマダラチョウとかと紛らわしいので止めてほしい、といったところです。

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何を守るのか2008年10月16日 21時12分50秒

ノビタキのメス
写真は西日の中のノビタキのメスです。完全な逆光ですが、腹は橙で目尻には何もなく、眼は大きめで草の茎に2本足でとまり移る様子は春のノビタキのそれと同じです。そんな、開けた田んぼの畦の草は乾いて輝いていました。2羽だけでしたが、秋もまっただ中、こんな一見何気ない何と言うこともない風景を、しかしながら、守りたいものです。でももっと、守らねばならないはずだったものを公務員は考え違いをしたのではなく、明らかに意図的にしかも力でもって無理矢理、奪いました。大阪府の、保育園の圃場を踏みにじり、勝手に裁判所の裁定を待たずに「強制収用」をやったのです。

本当に、公共の福祉にかなうことだったでしょうか。第二京阪道路の予定地だからという理由だけで、子供達の貴重な汗とささやかな楽しみと小さな夢を壊したのです。自身、弁護士でもあり子供を持つ親でもある橋下徹府知事はそれを正当化しました。最初に道路建設ありきで周辺の環境どころか、真下の大切な土と緑と命の元を平然と奪う彼ら公務員には基本的な態度や視点以前の心が欠けています。また、道路建設自体、必然性と将来に対する見込みや予測、影響、合理性は見えません。今からでも、止める、何もしない、という選択肢を検討すべきです。いったい、誰のための建設、道路なのでしょうか。小さな子ども達の涙を直に見ても彼らは何も感じなかったのでしょうか。

過ちをしでかし、その穴埋めをもくろみ、自らを守らんがために更に酷い行為や作為に走る者たちも数多くいます。そして更に悪いのは、はじめから誤りだとわかっていても無理矢理、しゃにむに押し通す、突き進むことにためらいを感じない連中です。逆らえない、とはよく言う、言われる決まり文句で逃げ口上ですが、本当に認識しているならそんな下手ないいわけなどせず、人間らしく、はっきりと権力や命令にあらがい、拒絶すべきでしょう。そういった姿勢こそ、暴力や横暴を許し、蔓延らせ、社会をつぶしてしまうのです。正当性など、かけらもありません。公務員はその職務を考え違いせず、その地域と住民をこそ守る、その基本的な立場において強欲な利益や目的追求に走ることを戒めるどころか、拒まなければなりません。誰のために仕事をしているのか、今一度、顧みることです。

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思いこみは不幸2008年10月17日 21時31分14秒

穂のノビタキ
刈り終わった田んぼの穂の上、ノビタキがまたやってきていました。移り変わるパノラマのように自分を回しながら写すのは秋の変わらない風景でした。そうやって見ているとそのままを見つめることに馴化できてくるのに気づきます。ノビタキはそれを教えてくれたのです。でも、人はそうしないことで互いを不幸にしています。勝手に思いこんで決めつけ、それでまた他者を攻撃したり排除したり、そんな意図をもつようになってくるのはあまりに不幸です。

決めているのは互いの距離、つまり視程と空気をもった空間です。声が聞こえるかどうかはさらにその人それぞれの感覚の状態と心理状態、その間に意図的な指向をもたらすのかどうか、といった意思の問題によってきます。その結果により、一方的な思いこみが生じると、他者は見えなくなり、その声も音も聞かれなくなります。それがなお更に思いこみを深めてしまうのです。だからこそ、聞く耳を持つ、見る目を持つ、感じる心を持つことが必要になるのです。

理解と信頼は頼るものでもなく、寄りかかるものでもなく、依ってきまるものでもありません。ただ、その人自身の心の持ちようにかかってきます。もっと易しくいえば、気持ちの持ち様により変わってくるのだともいえます。心身の状態、健康の善し悪しにより違ってくるのです。恣意的な見方ややり方、考え方の偏りや一方向の圧倒的な押しつけは大きな不幸なのです。自らさえ失っていくことに気づかなくなってしまうのです。

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機会を奪うな2008年10月18日 20時59分20秒

ホシハジロのつがい
山の麓の元池(古くから溜め池でしたが今はコンクリート造りの水槽のようになっている)にはときおり水鳥がやってきます。10月半ばの今見るのは珍しいのですが、写真のつがいの他にカイツブリが2羽いました。誰かが中にいくらか魚を放しているので時々潜っています。時に大型のカワウまで飛んできて漁るので困ったものですが、それでもこの周辺では数少ない食餌の機会を与えてくれます。峠を越えた東にも堤があり、そこはこの「池」より広く豊富ですのでもっと見る機会があります。

社会参加の第一は就業です。労働の機会はすべての適応年齢の人に開かれねばなりません。なぜなら、労働は憲法に保障された権利だからです。でもその権利が恣意的に「経営上の」「都合」で左右され奪われる状況が多発しています。その経験のある方なら頷けるはずですが、現実のそのされ方には酷いものがあります。声を上げるとなお酷くなる、そんな民主主義社会とは思えない事態を招くことはとても容認できないことです。もし、『働かざる者食うべからず』というのなら、すべての希望者にできる限り望みにあった仕事を与えることは生存のために必然的だといえます。

でも理不尽な就業機会の剥奪や排斥といえる理由を付けての不採用が横行しています。最初の入り口での選別以上の区別と排除は許されないと考えます。当たり前の権利として、労働権が社会の責任の名においてすべからく保障されるように機会の均等な採用条件と雇用条件を明文化して義務化すべきです。そのためにも、たとえば、時間外労働は原則認めないようにすれば雇用の機会は増えるはずです。そして、その実現のために、社会のコストを減じる方策と工夫をこそ、探っていかねばなりません。

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人生に次はない2008年10月19日 21時45分52秒

ミズヒキ近影
『まあ、待て。』、とか、『次にすればいいではないか』とか言う人が往々にしていますが、それらは完全な誤りです。はっきり言って、人生に二度は ない、のが真実であるわけですし、今度も次もその人にある道理がありません。言うまでもなく、人生に『待った』も待ち時間もないのです。そして、生きているのはまさに、たった今、があるのみであり、過去は現在に置き換わっているのです。将来はすべて、現在の移り変わりであるわけです。

よく、ポリシーなどという和製英語化した言い方をする人がいますが、これもあまりに人生や生活や仕事を軽く、あるいは対症療法的に考えた浅はかな物言いです。本当に言うのならば、フィロソフィー、つまり、哲学、というべきところです。何より持つべきはその Philosophy の実現に向けた態度と姿勢なわけで、軽々しい「方針」や「施策」の類ではありません。生きると言うことにつながるその表現の指し示すところはそんな拍子抜けしたPolicyではないからです。

持ち時間を認識し自覚するのが人それぞれだとしても、あるいは、時間の流れを感じる感覚に個人差や環境の差があったとしても、限られた生命活動に棹さすことも引き留めることもできない厳然たる摂理に私たちは支配されているからです。そして知るべきは自分自身の存在の不確かさであり、不安定な状態に他なりません。恣意的に、だからこそ、誰かや自分自身によって人生は左右されても、曲げられてもならないし、制御などもってのほかです。決めるのはその人自身の他ならぬ自意識からでる命の現出であり、他の何ものでもないのです。何も、待ってはならないのです。

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私の世界2008年10月20日 19時48分44秒

ホシハジロの幼鳥
坂本真綾の歌った「プラチナ」という曲の歌詞にあるように、私の世界は『.....夢と恋と不安でできてる......』のです。いい大人がいい年をして、と思われても、どう見られても、決して、三次元空間の時間的な変移だけで完結する世界ではないのです。その中で、いえ、それを超えた世界こそが私の生きている世界だと言えます。いまだ、夢見る心を失わず、というか、夢ばかり見て、恋い焦がれ、不安でいっぱいの生活に身を置いているのは紛れもない事実だからです。

明日こそ、と陳腐ながらそんな言い方をまだしていながらも、希望を失わない、希望に満ちた世界を信じている、そんな自分をいつも持っているのは生きている証なのですし、堪え難い思いに囚われて涙してもなおこれから、とつなぐ気持ちは誰にも増して強くなっています。小さな幼鳥も希望を浮かべて明日をいきるのですし、子ども達の姿もまた、明日の希望こそその笑顔に見えるのです。

だから、誰も、その思いを奪うのはもちろん、見下しても、否定しても、押しつぶしてもなりません。どの思いもかけがえのない生命の明日の姿を今に映しているからです。誰にもそれをないがしろにする権利はありません。どんなときも、何年経とうとも、生きているのはこれから生きることであり、その不安の中に夢を持ち、恋にいきるのは私の命の唯一無二の実在する姿なのです。

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