誰もがわかること、彼らがすべきこと2011年03月19日 10時00分00秒

カシラダカの雌
福島第一原発の深刻な事故を見続けて思うのです。なぜ、かれら(東電、政府、原子力関係者)は適切な対応と処置、そして情報公開をしないのか、ということです。とりわけ、していることが的確かどうか、そして有用な助言や助力が得られるか、さらには無用な不安や非難を退けて信頼を取り戻せるかはその情報の公開にあることは自明だからです。IAEAまでもが自前の測定を行うといって専門家チームを派遣してきています。情けなく、恥ずかしい。

私が思うに、建屋が吹っ飛んだ時からどうすればよいか考えていたのですが(学生時代の講義を思い起こして)、中性子の吸収剤としてのホウ酸(韓国とフランスが申し出)を入れるにしても、水を入れるのでも、無人の機械をなぜ使わないのか、ということです。誰もが思いつくように、有人のヘリなどではなく、無人の農薬散布などに使う小型ヘリを使って投下すればいいのです。あるいは、ヘリにダクトやパイプ(もちろんとっかかりをつけて)建屋内の燃料プールに掛かるようにして遠隔地から水をポンプで流し込むという方法もあると思うのです。

さらに、今からでも、IAEAや諸外国とくにアメリカなどと競合するかもしれませんが、放射能の2次元だけでなく(16日から文科省のページで発表、でも遅すぎた)、3次元分布を一定時間ごとに測定しすべてのデータを生データを含めてアジアにはもちろん、太平洋岸の諸国にすべて伝達することです。そしてかれらがおこなったこと、おこなっていること、そしてこれからの計画をすべて公開、外からの助言や助力を頼むことです。それが早期の核反応や熱の発生の収束の糸口となると信じます。

それにしても、避難が遅すぎる。

連携と伝達網2011年03月18日 09時17分23秒

カシラダカのオス
中央の政府は実質的に機能していないようにみえますが、各自治体の働きは決定的に重要です。その意味で、分断されている現状の解消と地域内外の連絡網・伝達網の再構築あるいは新規の構成を直ちに行うことが必要ではないでしょうか。県レベルの全体的な支援と協力は担当部署が速やかに連絡を取り合い、進めればいいのですし、より小さな自治体、つまり市町村レベルでの相互扶助と具体的な物資の輸送の取り決めをすることは焦眉の急と思われます。

もう一つ、寸断されているインターネットなどの補助電源や緊急電源での運用と各避難所や自治体の特設の場所と部署を結ぶ通信・伝達手段の回復と運用、すべての人たちの共用を造るのはどうでしょうか。これもまた、上記の輸送網と道路あるいは鉄道貨物の復旧が鍵になりますが、まず今生きている人たちから助け合う体制を築くことは大きなきっかけになると信じます。

さらにもう一度、日本全体での燃料・食糧・生活必需品などの存在状況をまとめて送り合う体制を各自治体が協力して一本化させることが必要です。その上で、情報を互いに共有し合う仕組みを早急に構築することは無用の買い占めや滞り、不足、そして情報不足による混乱や不安、いらだちなどを解消することにつながると考えます。無能な政府に頼らない体制と仕組みをわたしたち自らの手によってつくらなければなりません。

道理と帰結2010年11月28日 20時27分11秒

柊の花
朝は晴れていたのですが、8時前から暗くなり、降雨となりました。冬色の空で、予定していた探鳥会は抜けてお休みにしました。なにせ、会場までは自転車です。雨の中を走るのは遠慮したかったのです。その後は反対に晴れてきて、午後も雨はなし。夕方になっての降雨となり、夜はまた晴れて、と冬空では行動も渋りがちです。どうも、こういった天候は人の心を憂鬱にさせます。

でも気象変化も気候変動もその原因により結果を生じています。その理由は合理的に説明がつくものです。そして、人の行為や言動もまた、道理に基づけばすべて理解され得ます。しかるに、そうでない場合は私たちは決して受容できませんし、してはなりません。また、そこには推移や展開に順序と必然が存在します。なければ、それは認容できません。これは以前にも記事にしました。実際問題として、あり得なかったことに起因する現在はありませんし、これからは決して生じません。これは自然の摂理です。

ですから、どこにも、『もう』も『むだ』もあり得ないのです。それを有るはずのない場所からいくら言おうとも、それはまさに『むだ』なのです。それをその者たち自身が気づき、過去にさかのぼって改めない限り、今日も明日もありません。彼らには。

尖閣ビデオ流出と民主党2010年11月06日 20時54分55秒

土曜の昼下がりの遊覧船
今日は朝から好天そのもので昼間は20℃近くまで気温も上昇、歩いて汗をかきました。それにしても、この陽気にもかかわらず、湖には人がいません。釣り人が数えるほど、遊覧船にもそんなに人は乗っておらず、寂しい限りです。一方で、静かな湖面にはカモ類が合わせると数百羽、いえ、数えられない対岸近くを合わせると一千羽ほどもいたでしょうか。五つの湖全体ではかなりの数になったでしょう。すれ違ったのはサイクリングの人ひとりと車数台でした。

それにしても民主党は政権党の体を成していません。今日も国土交通大臣は八ッ場ダム中止を撤回するつもりの発言です。これで幾たび公約・マニフェストを反故にしたでしょうか。そして今回の尖閣諸島中国漁船衝突事件の撮影ビデオの流出です。いえ、流出自体は自民党であったとしても、またほかの政党が政権にあったとしてもあったでしょうけど、その後の対応がなっていません。一貫性の無さと毅然として方向性を示し明確なことばで実行していく、そんな姿勢や態度がありません。とりわけ、菅首相の発言や会見の言い方を聞いているとこちらがイライラしてきます。どこか、他への気配りとはいえない寄りかかりの姿勢ばかりです。信頼を置けません。

流出したビデオの内容は待っていた映像でしたし、例によって中国は進路妨害だとか事実をねじ曲げて、一目瞭然の「証拠」を手前勝手に使っていますが、改めて中国漁船の横暴といいかがりの元が見られてその意味ではよかったと思います。海上保安部の人の仕業ではないようですし、誰がどうやって入手して投稿したのかなどどうでもいいように思えてきます。今朝の朝ズバッ!で海上保安部の元職員との質疑応答でいっていたように、命がけで国際法に則ってやっている海保の人たちのいらだちや歯がゆさ、やむにやまれぬ気持ちなどを察するにつけ、民主党や船長釈放を決めたとされる地検あるいは検察庁の情けなさとふがいなさばかりが目についてやりきれません。昨年の8月31日に戻って、初心に返ってやり直していただきたいのです、民主党さん。

断層のイメージ2010年10月19日 21時19分16秒

段差と食い違い
この地域は丘陵地帯と河岸段丘、海食に伴う段丘様地形など、意外と多くの凹凸があったのですが、近年、といっても10年から20年くらいでしょうか、かなり「土地改良」や各種の工事・改修などで失われてきています。過去からのメッセージを受け取れなくなっているのです。そういった工事や「改修・改良」の名の下に為された破壊と喪失に伴い、観察できた未調査の断層や地形に現れる地史は情報を遮断されて私たちの明日の環境と生活が逆に大きな不安と危険の中に置かれてしまっています。

同じく、過去の日本や周辺国、そして強大な中国・ロシアなどの示されるべき歴史も見えなくなっているようです。私たち自身はようやく、とりわけ近代以降の歴史に向き合うことで侵略戦争や過ちを知り、認識を高めることに少なからず目覚めてきています。それに引き替え、特に現代の中国はその人民に対し、誤った観念や思想・思考、一方的な視点や思い込みの正当化の方法まで、間違った教育に長きを費やしてきました。本当の姿を知るかどうかではなく、自ら史料や史跡、記録などに当たって考えていく、物の見方を知るという基本的な訓練や学習をないがしろにしてきた結果が最近の、有る報道では「やらせ」や「官製」のデモとされていますが、反日暴動の扇動に現れているように思われます。

写真のように、そこの狭い小川に小さな橋を架けるように私たちは過去と向き合い、現在を知り、明日を築いていかねばなりません。その過程と道程において私たち自身を含めて自然にある、真の姿形を描いていく時間をいつも大切に持ち続けることが必要です。そのためにも、これ以上の破壊と埋設行為をやめるべきです。暴力に未来はあり得ません。

糺さない、改めない、直さない2010年10月09日 21時20分48秒

ことばの誤り1
写真の看板は誤りを含んでいます。正しくことばを感じとれる人ならば、「危ない*から*」「入らないで」「ください」の組み合わせで最初の文節に間違いがあることはすぐにおわかりと思います。理由や原因を受ける場合に「から」は肯定の(表現の)述語や用言につながります。です*から*、これは「危ない*ので*」に直さなければなりません。こういった例は各地各所で散見されます。それを糺しあるいは質し、その姿勢や態度を改めて直す、そういった流れで変えていく環境を私たちは創っていかねばなりません。でないと、むちゃくちゃな中国やまるでことばの通じないアフリカの部族やアラブの部族のようになってしまいます。

多く、広く使われ出しているから、誰も何も言おうとしないから、(ここです、から)そのままでよい、そうする、では進歩や前進の前提となる誤りの指摘や思考が失われるどころか、奪われてしまいます。写真を撮った、何も看板もなかった区域に侵入した、それだけで何日も拘留されたり自由を奪われたりする、そんな理不尽な、では済まされない歪んだ社会の抑圧に手を貸すことになってはならないのです。人類の普遍的な原理をどんな社会においても実現させ、理解させ、当たり前の生活や人生がおくれるように私たちは声を大にして言わなければなりません。たとえ、どんなに現在の「社会体制」が支配的にその国や一部の地域にあろうとも、誤った観念や感覚はそれを推し進める人たち自身をも否定することになる、ということを思い知らさなければならないのです。

現在の中国では、かつての、そして時に今でも、日本でもあった、そしてある、『依らしむべし、知らしむべからず』の支配と従属的な関係の浸透を図る社会の「体制」がまだ崩れません。昨日のノーベル平和賞のニュースさえ中国人民には知らされません。社会を支え、維持し、発展、つまり進歩を目指すならばなおさら、その社会の支配構造を壊し、自由な空気の通る社会に変えてゆかねばならないのです。その第一歩に、最初に挙げた、ちょっとした「ことば」の問題があるのです。気になることばとしては、「御社」があります。日本語として、つまり、敬意表現として、この言い方や「よろしかったでしょうか」的な言い方は明らかに誤りであることを感じることさえ抑えるかのような就職活動やビジネスの慣行が横行しています。どちらも、尊敬語として間違っていることにどれほどの人がはっきりと知り、指摘しうるでしょうか。支配的だから、広く使われてきているから、そんな右へならえ的な態度でことばに対する大切な感覚さえ麻痺させているとしたら、それはひいては社会のゆがみや崩壊にさえつながっていくことにもなるのです。

ゼロ金利の愚2010年10月05日 20時21分51秒

マツダ、ロードスター
また日銀は馬鹿な政策に及びました。いつもそれも場当たり的でその場しのぎの間の抜けた突沸のような方策です。功を奏したことがいままであったでしょうか。それどころか、このゼロ金利政策は一般庶民をしてますます需要も意欲も減退させています。いつものこととはいえ、なぜこうも失望させることばかり続けるのでしょうか。実のある施策のあった試しがありません。何を見て、何をとらえてこんな意味のない決定をし続けるのでしょうか。することは始めから目に見えているから誰も期待しないし、何も得られないとわかっています。あまりに、愚かです。

消費・購買意欲や貨幣流通、貸し借りの活性化などはそもそも金利のもとをいじったからと言って何も変わりません。ある程度ないと却ってやりとりや貯蓄意欲を萎えさせてひいては購買への気持ちの高まりを抑えてしまうのです。むしろ、経済の下支えをなくし、足下がおぼつかなくなるかのように基盤を脆弱にしかねません。そして一時的な効果がたとえあったとしても、長い目で見たとき、大きな損失につながってしまうことになりかねないのです。金融担当者は、そして日本銀行の政策決定にあたる面々はわかってやっているのでしょうか。

必要なのは、しっかりとした枠組みの構築と仕組みの強化です。確かな利益の確保は貸し出すものや使うものだけでなく、一般のひとたちにも及ぶように全体の幅やふところを深く広げることなのです。一部を動かしても、社会全体の活力や活性につかの間の弛緩を与えるだけです。もし長く続けば、また人々の意欲や活動の減退へとつながってしまいます。手がないとはいえ、繰り返される愚策にはついてゆけません。

認知障害に対処する2010年10月03日 20時17分22秒

ナツメの木
現象や事象を知ることには違った段階が存在します。また、それぞれは人により異なります。しかし、普遍的で合理的な見方が必ず存在するのです。なぜなら、事実としてのできごととそこにある真実はただひとつだからです。それは第一義的には観察によるのですが、マクロな現象や事象の場合は揺らぎやぶれを感知することなくとらえることができるのです。

中国には多く、ゆがんだりくもったり斜めに見たりすることを何の疑問もなく当然と信じている人たちがいるのです。ありのままに見つめ、それを事実としてとらえ、自然な状態や順序や変化を知り、認識へと導く、といいう基本的な認知を彼ら自らが妨げてしまっています。知る前にそれをどうするかを勝手にきめているからです。これは何も、中国人に限ったことではありません。日本にもまた存在します。特に生まれつき歪んだ心を持って育ってきた不幸な、そして矯正不能な者たちは同じなのです。いずれにも共通するのはどちらも他者に対して迷惑以上の行為に及ぶことがしばしばあることです。その者たちだけで完結するのなら放っておけばよいのですが、そうでない場合が困るのです。

侵略的な攻撃や干渉・介入に至る場合がよくあり、ひとたびやり始めるともう何も見えなくなり、聞く耳を持たずにどんなに他者が傷つこうが蹂躙することに疑問もためらいもいだかなくなるのです。行為の認識どころか、認知すること自体にまったく至らない乖離性の傷害といってもいいくらいの人間性を完全に失ってしまったかのような態度をとり、尋常では考えられない行為に手を染め、言動に耳をふさぎたくなるような人間として信じられない振る舞いをするのです。9月の中国人はまさにそうでした。もっとも効果的でよい対処方法は自明ですが、そうせずに私たちはなくすための手立てを考えることができるのです。

決定的に違うこと2010年10月02日 21時23分13秒

ノビタキの雌・雄
中国とは日本あるいは私たちは決定的に違っているところがあります。基本的に、私たちはまさに基本的人権を憲法上だけでなく、社会的に保証されています。何を考え、何を思い、何を表現し、何を主張するかは一意的にその人自身によって決められるのです。他者の人権を侵害したりしなければ全く自由なのです。その上で、そしてそんな社会の中で私たちは様々な意見や考えを知り、互いに議論し合い、前進し進歩するのです。でも中国にはそれはありません。

社会を規定するのはまた、一方で、長い歴史と他国の人々などとの交流や輸入・修学などを通して、そして命をかけた戦いともいえる社会的な運動などで勝ち取ってきた、創り上げてきた倫理・道徳、社会の中の暗黙の不文律なのです。その中には根本的な善悪の判断や理解、その認知と受容といった不可欠のプロセスがあります。似たものは過去の尊敬を集めていた時代の中国にもありました。でも現代の中国にはそれはもうありません。自らの利己的な、さらには暴力的な欲望とその行使という現代社会で否定され排除される態度や行為、表出だけが顕著に、いえ、露わになっているのです。この部分的な側面はしかし、日本にもまた形を変えて見られる物もあるのです。

ここは日本です。尖閣諸島もまた日本です。そこには是非と帰属を決める論理と事実と民主主義が存在するのです。一方的な専横や独占の思想は人類の進歩の名において排除しなければならないのです。身勝手で自分本位の認知障害によって侵害も侵略もなされませんし、制服されることはありません。自由と誇りと尊厳をやせても涸れても私たちは手放すことなく、その存在の名において持ち続けるのです。

進化への序章2010年09月20日 20時25分21秒

イチモンジセセリのつがい
曇り空で一時、ぱらついたりした今日でしたが、そのせいか蒸し暑く感じられて彼岸とは思えない一日でした。例年と変わらぬ彼岸花も咲き始め、昨日記事にしたようにチョウたちも盛んに飛び回り、相手を見つけては明日を創ろうとしています。少しずつずれてきているのはその季節の変わり目の時間的な軸の位置でしょうか。植物の群落も優越する種の遷移や消長あるいは消失が際立って目立つように思えます。

私たちが考えるはずのこの先の未来を形作るのは私たち自身の先行する思考の後に生起する事象のあるべき姿です。それをこそ私たちの意志の具現化において創りうる新たな社会の形にしなければなりません。そのために今、生きているのですから。

翻って、それを否定したり、破壊したりするおよそ進歩とは相容れない行為言動を繰り返すところにまだ何一つ自らの姿さえ見いだせない不幸な、いえ、存在する意味を彼ら自身で奪うその愚かしさを当為としなければならないという、全くの無益をなお求めてやまない者たちはその対極にいます。そんな存在の有る限り、得られるものは何もないでしょう。明日をも奪うのですから。でもそれらが白日の下にさらされるのであれば、それはそれで社会の進歩となり、これからを明らかにするでしょう。