社会の基盤2011年07月18日 01時57分50秒

垂れ幕1
写真は町役場に掲げられている垂れ幕です。「社会を明るくする運動」の今月の標語(?)ですが、これは決定的に大切な求められる姿勢です。いえ、単に姿勢とか、態度とかの話ではなく、私たちが社会を築き存続させていく上で必要欠くべからざる基礎なのです。

誰かが誰かに対して陰でこそこそ、あるいは遠くから抵抗できない位置で一方的に(つまり、暴力的に)言いつける、といった非道を戒めています。この震災を契機に「絆」だとかいわれていますが、何よりも、互いに直接接して(つまり、ふれあう)ことばを交わし、対話をする、それこそが実在するが明確な実態はない「社会」という人間の形成する種の存在形態の存立を基礎づけているものであり、まさに直接的な互いのやりとりに他なりません。

だからこそ、まさに、強者の論理(実際には論理になっていない)で一方的に為されることがらに対するはっきりとした拒絶であり、支配ー服従の関係の否定に始まる最初の一歩でもあるわけです。対話を行い、互いを理解し合い、尊重し、議論を重ねる、それこそ近代の社会の基盤となっているのです。決して、7月ひと月だけのかけ声に終わらせてはなりません。子どもからお年寄りまですべての人々が肝に銘じて実践し、そのことばどおり、社会を明るくしていかなければなりません。

ここは日本だ2011年07月10日 05時10分06秒

モジズリ
モジズリ(別名ネジバナ)はランの一種で道ばたなどでもにょきにょきと生えてくる愛らしい花です。7月に入って見つけました。時期的には例年、6月に早生するのもあり、環境を映す一つの鏡ともいえます。この花の巻き方の方向や付き具合、長さ、大きさ、色などなど、調べたり(つまり測ったり)考えたりしてずいぶん悩みましたが、いまだそれなりの結論には至っていません。なお、着眼点や視点などの転換が必要なのかも、と思っています。

この国は滅びかけているのではないのか、とさえこの頃思います。頼りにならない政府や行政機関、身勝手な財界、好き勝手な大学、被災地にいまだ届かないという義援金、遅々として進まない復興以前の後片付け、そして致命的な原発事故、さらに一般の人たちも...。なにか、基本的なものを忘れようとしているかのようです。確かに、震災直後はその礼節や規範意識を忘れていない側面が出て賞賛されはしましたが、本来鑑みるべき姿勢や内面の倫理と立脚点に課題以上のものを感じさせます。

人間尊重、いえ、基本的人権の尊重、人間としての尊厳、自由の本当の意味、個人としての存在にあるべき意識と規範の礎の認識など、民主主義社会における最も基本的な価値や空気のように認知すべき人間の在りように関する意識の希薄化に危惧を抱かせます。実際、弱い者いじめや一方的で暴力容認とさえ思える社会の姿形を見るにつけ、本当に人々はひとりひとりの人間の存在を理解しているのか、疑問を感じるからです。そういった奥底からの意識と何よりの行動において見直して初めて、本当の復興と新生を見いだせるのではないか、そんな思いに至ります。

暗示と顕示2011年06月20日 20時47分05秒

夕焼け
暗示の反意語は本来、明示なわけですが、その一歩進めたことばとして、顕示を使います。単に、明示するだけではことは進まない、その典型としての今国会の復興に関する法なのです。3ヶ月も経ってやっと「復興」に法的な基礎を与えた、というのです。遅いですよ。せめて、1ヶ月以内にできなかったのか、と。早急に進めるべき、との多くの声のあるときにあからさまにはっきりと大声で叫ぶほどに示すべきだったのです。さすればすべては後からついてきたはずです。とにかく、もたもた感は拭えません。

夕暮れの海岸線の上、紅色の夕焼けはなにやら暗示的です。どこか、終末感さえ漂うその光り方を見ているとこれからのこの国の行く末を案じられます。地盤沈下くらいではすまない、沈みゆく風景に似た社会の岐路に立つわたしたちにとり、このままの指導者層でいいのか、今一度考えてみることです。今頃復興法案などでとやかくいっている人たちのなおさらの政争と「足の引っ張り合い」(昨日のTBSのインタビューに答えていた女性のことば)を見るにつけ、どうなるのだろうか、と深刻に考え込んでしまいます。

リーダーの不在、意思決定の曖昧さ、後手後手の対策など、とてもいらいらします。政府や官僚抜きに復興と新生をリードする機関をすぐに作って独立させて進めていたらこんなに遅れたりばらばらになったりひどい状況のまま放置されたりしなかった、と思うのは私だけではないと思うのです。顕示するほどの強さや強引さ、そして明確な道筋を大きく示す行動こそ、今からでもなされなければどうにもなりません。本当に、心配でなりません。

維持ではなく新生を2011年06月18日 11時00分00秒

蛍の光2
石原伸晃幹事長だけでなく、その父親である石原慎太郎東京都知事もまた、「現在」の日本経済の維持のために原子力発電に代わるものはない、かのような発言をしています。代替エネルギーではまかなえない、というよくある主張ですが、そこに根本的な誤りを指摘しなければなりません。今回の大震災でわたしたちは何を学んだでしょうか。何を感じ取ったでしょうか。現状、いえ、過去のやり方や構築物、対策、仕組みでは何も防ぐことすらできなかった、その一点だけでも、すでに石原ファミリーの発想や思考では(同じく財界や自民党の)やっていけない、という認識や覚醒に至らない浅はかな視点にもはや未来はないのは自明です。

とにかく、原発はすでに過去の技術なのです。そして、いまだ未完成の、いえ、安全性はもちろん、経済的にも全く成り立たない遺物であることを一般の人たちははっきりと理解したのです。このまま運転を継続することも、新設もあり得ません。どうしようもない放射性廃棄物の処分には気の遠くなるような時間と労力とお金がかかるのです。よく言われる原発の3つの大問題、廃棄物・安全性・経済性、どれをとってもとても社会的に許容される発電方法たり得ないのです。福島第一原発の事故の賠償金だけでも兆のお金がかかります。そして二度と戻れないかもしれない、そんな土地を造ってしまったのです。

最初は苦しくとも、私たちはその持ち前の工夫とやり方で新たなエネルギーシステムと大電力に頼らない社会システム・仕組みを構築していかなければなりません。今までの仕組みや方法では立ちゆかない、その事実を自然から突きつけられたのです。ここで何もわからない、目覚めないとしたら、それこそ、日本経済の維持どころか、日本自体、なくなってしまいます。大転換とこの地震国に生きている、というはっきりとした認識を新たにすべきです。単に復興を図るだけではない、新生を目指すのだ、という強い気概をこそ、政治家たちにはもってもらいたいのです。今こそ、新らしい世界の主導者となる絶好の機会なのです。

意思決定の方法~イタリア原発国民投票~2011年06月15日 15時43分56秒

ホタルブクロ
14日に出たイタリアの原発再開を巡る国民投票の結果は実に明確な「否」の意思表示でした。原子力発電は、いわば、「時代遅れ」な2次エネルギーである、との94%を超える反対票はいかにフクシマが大きな影響を与えたか、という好ましくない日本の衝撃と、その政策への国民の参画のあり方を如実に示すものだったわけです。複雑な問題を孕んでいる、という言い方をドイツの先例ではしている方々も多いわけですが、それ以前にやはり、国家の施策のあり方に対する国民の関わりに一つの有効な方法を与えた、という点で注目すべきであるわけです。

小さな自治体などではしばしば重要な施策に対する住民の意思表示が住民投票という形で為されうることは日本国内においても見られるところです。すべてに渡っていちいち問うことはできないとしても、ときとして、まさに大げさではない、命や生活のかかった決定的な問題にその住民、あるいは国民全体がその是非を示すというのは自ら決定する権利の行使として認められるはずです。もちろん、まれにでもその多数意思の誤りなどはあり得ますし、その方法実現までの過程に障害や課題はつきものです。しかし自国、自治体の運命を左右しかねない決定的な意思決定に誰も加わることができないとしたら、それもまた、民主主義の意思決定の過程をないがしろにするものとも言えるのです。

しかるに、わたしたちの国はどうでしょうか。身勝手な「国策」の遂行によってあってはならない破壊と疎開を余儀なくされ、存在していた共同体は分散・消失の危機にあるのです。フクシマ第一原発の事故は地震と津波には帰することができません。これはまさに政策決定に致命的な誤りのあった典型的な事例といえます。そして、未だにもたもたして一向に収束の気配すら見えず、却ってその被害を広げる結果となっています。一致して当たらなければならない事態に直面しているにもかかわらず、自民党を中心とした政治家たちはいったい何をしているのでしょうか。彼らにこの国の重要な政策を決定し、遂行するだけの能力も資格もない、と大多数の国民は考えているのではないでしょうか。政争に明け暮れている場合ではありますまい。何をどうするか、そして行動するためにはどうするか、今為すべきを誤ってはなりません。

よくできた女2011年06月14日 09時28分19秒

よくできた女
バーバラ・ピムという英国の作家をご存じでしょうか。この作家の著作を初めて読んだのはもう15年以上前になります。ペーパーバックで、邦訳のない、Academic Question、という題の小説でした。薄めでしたのでよく読めたのですが、その「語り口」の良さ、流れ、会話を楽しめたものです。邦訳としては、表題のともう一作、『秋の四重奏』(Quartet in Autumn)があります。訳は違うのですが、こんどのこの作品の方がより受け入れやすいと思います。

一人の未婚女性を通して描かれた宗教道徳もあった時代の良き風景がとても好ましく、それでいて人間の姿はそのようなものである(あるべきか)と思えて、肩を張ることなく楽しめる作品です。清潔さや清廉さを基調としていたと読み取れるそれはそれの英国のかつての社会の有り様を会話を中心として安心して読み進められるのです。どろどろとした風俗やいかがわしさ、人間の本性を衝くような激しさはない分、本来の社会の人間の形を教えてくれているようにも思えます。

こういった素性の良い、「できの良い」小説は最近少なくなってきて、国内の若い作家たちの小説はとても「安心して」読めません。わたしの知るところでは、赤川次郎の小説~ジャンルは全く異なりますが~に似た雰囲気があると感じさせられます。深く求めない、あからさまに描写していないところに奥ゆかしさのようなものを見て、今では他とは違う、でもとても秀逸な文章と静かな変動によって社会の側面を見せてくれた、ある意味、心安らぐ作品として、日本でもそのような小説がもっとでてくれないかなと期するところです。あ、そうそう、朝吹真理子さんの作品にはそんなところがありますが。

まだ様子見2011年06月08日 20時21分42秒

朝のモンシロチョウ
まだ切った辺りが少々痛み、ふつうには歩けません。でも支障はないので必要なことはすませました。そして帰宅してどーでもいいことをしていたらなんだかとても眠くなり、2時間ばかり汗をかきながら寝ていました。薬のせいかどうかはわかりませんが、ちょっと疲れたかな、とは感じます。

今朝は気温も17℃を下回り、涼しげな、でも湿度は高めの朝でした。一頭のモンシロチョウが畑を飛び回ってはとまりどまりしていて、静けさの中に動あり、で生きているという感覚を取り戻せます。曇り空にも緑の鮮やかさが際立つ時間です。そのあとは次第に晴れてきて、日射しもあり、じきに夏みたいな外になりました。

しかしながらまだ本調子とはいかないようで、なかなか取り組むべきことには取りかかれません。一週間の隔絶的な生活から現実に帰って、新聞の記述に得心していたのです。政治のごたごたはどうも、原子力との癒着や推進・維持のためとか。自民党の思惑が透けて見えるようです。情けないひとたちです。たとえ彼らに代わっても、いえ、代わったらもっとひどくなる、と強く感じさせられました。

裁判所の無感覚2011年05月31日 09時30分05秒

卯の花(ウツギ)
きょうの新聞1面下に書いてありました。「新品」は常に期待はずれで買っては買い替えての繰り返しだ、と。実際そのとおりだと、ついこの間購入したZ68チップセットのマザーボードでの動作を見つめています。どこか変なのです。売り物のはずの動画で止まったり飛んだり複数のOSで動作異常になったりなどなど。今までと構成やOSは変わっていないのですが、造りに問題があるのかな、と。

裁判所もまた、同じように感じます。新しい判事を迎えても、最高裁は奇妙な判決をだしました。君が代の起立斉唱は「慣例上の儀礼的な所作」で特定の強制・禁止ではなく、思想・良心の自由を直ちに制約しない、と下されたのです。特定の歌を参列者が一緒に起立してまで歌う、などというのを儀礼的ですませられるでしょうか。どこが「強制でない」のでしょうか。そもそも、全員が合わせて同じことをさせられるその「儀礼」に耐えがたい苦痛や屈辱、屈服感を感じないとしたらどんな感覚なのでしょうか。そもそも、全国民が心から、腹の底から誇りと自信を持って歌える歌でしょうか。

判事の皆さんは常に上から見下ろすように判決を下す立場です。絶対的に正しいはずがありません。ましてや、憲法に保障された基本的人権の最も大切な部分である内心の自由さえないがしろにしていい、そんな風に聞こえる判断です。敗戦で変えた憲法と変えなかった「国歌」は矛盾しています。もう、君の御代ではありません。民主主義国家なのです。菅内閣だけでなく、今の最高裁もまた、替え時かもしれません。過去に目を閉じ、現在にも未来に対しても盲目となっています。違憲審査を私たちがその当たり前の感覚で為すべき時かもしれません。

線量測定のプロトコル2011年05月28日 08時40分35秒

茅(チガヤ)の穂
きのうの夜のニュースウォッチ9で個人個人の放射線量測定を紹介していました。各所において発表される値との比較や変動などとの関連、その妥当性は大きな問題です。何より、個々人の「測定」はそれぞれの不安を加味しなければ語ることはできません。ですから、番組中、日本アイソトープ協会の方の忠言をどのように実現させるかが課題です。それで、その方を含め、専門家の方々が一般の線量測定の標準的なプロトコルを策定し、それに従った値をも収集して公表してはどうかと考えるのです。

とはいっても、少し学んだ方ならおわかりのように、基本的に放射線を計数するのはその種類とエネルギー、飛程、方向などにより異なり、またその機器によりその感度も含めて計数できる範囲などが変わってきます。個人の所有する器械は千差万別で、どのように標準化して統計的にも有意味な値(測定値)とするかはかなり難しいのです。ほとんどは線量等量によっていて、それもエネルギー分布や感度、応答時間など違いがでてきます。同じシーベルト(μSv/h)単位でも同じ場所でさえ機器と測定方法で変わってきます。番組中でいっていたように、高さや環境などでも違います。意味のあるデータとして扱える方法を早急に整える必要を感じさせます。今を無駄にしないために、そして無用の不安を抱かせないために。

イギリスの女性子供ケアサービス所長は裁判で勝って、その「正義によって動機づけられた(勇気づけられた)」と語っています。なにより、そういった正義を形作るために、裁判所も社会正義を全面に押し出してほしいのです。誤った判決によって延命や許可を出したが故に原発は危機的な状況をこの国に作り出してしまったのです。それに限らず、わたしたちはその正義に則った言動と行動を求められるのです。

復興・再建・救済2011年03月21日 16時18分56秒

スミレ早くも
けさの新聞に岩手県の達増知事が専業の「東北復興院」といった機関・役所を設けて一括してあたるようにしてはどうか、との提案が掲載されていました。これはいい方法です。深刻な原発の現状は専門家集団と誰か統合する人に主導させ、一方の広範な、そして長期化は必死の東北の難儀は窓口と執行を一本化して全国民の助力を結集するのに専任のしっかりした方を長に迎えて行うのは迅速な復興につながると信じます。

でも今すべきは何よりもまず、一人一人の救済なのは誰もがわかっていることです。誰かが言っていましたが、それぞれが人間らしい生活を送れるようにすること、それが第一です。それがなされて初めて、次に移れるのです。文字通り、地に足を付けて生きていける基礎を私たちは同じ人間として造ってやらねば成りません。そうすれば次に踏み出せるのです。そして町の再建、産業の再興へと導かれるのです。

写真のように今日まだ寒い風の中、早くもスミレが咲いていました。山の斜面、湖畔の低地とはいえ、この地方ではかなり早いほうです。たいてい、4月に入ってからですから、ことしの冬の寒さを鑑みれば不思議なくらいです。でもまだ、この一輪だけでしたけど。