いじめの解釈と確認を求める-岐阜県瑞浪市-2006年10月29日 20時45分54秒

また少女の自殺。痛ましく、やりきれない環境です。教育の場であり、閉鎖的な「社会」でもある学校はそんな場所なのです。自ら命を絶った原因をそのまま受け止められない校長の姿勢にまた疑問を感じさせられます。

女の子の「いじめ」はとりわけ陰湿・執拗・潜在化がその特徴として言われています。その意味で男の子より深刻で発見と対処が困難だとされています。これはたとえば、イギリスでも同様で、

"Female bullies favour a strictly psychological approach to inflicting pain on others such as gossip and persistent criticism."
といった「定義」例もあるわけです。これからも、両親の確認した同級生(特に4名)の行為・言動などはこの彼女に対してかなり長い間、ことあるごとに、反復的にこそこそと続けられていたと思われます。

問題なのは今日の校長の発言で、どこか受け止め方が違う、方向や居場所が違う、と思えます。本当のいじめの実態や現実を理解していない上にどこか自分たちの立場や存在を第一としている態度が現れています。 さらに、たとえば校長が問題の女生徒たちに聞き取りや詰問をしたとして、それで「事実の確認」が可能かどうか、はなはだ疑問です。また、この校長では、たとえ「事実」を聞き出せたとしても、それを「認識」できるのかどうか、更に疑問を感じます。簡単に言って、この校長の態度や内心は、いじめた側の姿勢に酷似しています。よく言っても、傍観者側の態度でしかありません。

死を決意するまでに声なき声に取り憑かれ、追い詰められていったこの少女の気持ちや心をどこまでも理解していこうとする、そんな教育者として、人間としての心の姿勢を私はこの会見ではこの校長に感じられませんでした。

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