昨日の黄砂の記録 ― 2006年04月09日 22時47分13秒
現象の終了: 1900 (夕暮れで見えなくなったため)
視程: NW 1.8km, NE 1.8km, E 1.8km
強度: ∞として2
*注意*記号は大気現象の観測記録記号で、天気図記号(日本式・国際式とも)とは異なります。
朝は南よりの風で雨がサーと降り、その後8時頃から北よりの風に変わり 続いて雨風共に強くなったのです。この雨はしかし10時前には止んで風だけが強く吹き付けてきました。この頃からでした。最初はその前の雨と急な気温の低下で霧が出たのかと思われたのですが、遠くの山々までも見通せなくなり、空の状態さえ判別できなくなりました。太陽は出ていたようですがはっきりとは見えず、かといって暈もかからず、その一方で強い北よりの風は相変わらず吹きすさび、その揺れがみられなかったのです。
視程はその見通しの定義どおり、ある地点を定めて八方を見通すのですが、その「変種」として、私は逆に移動観測で距離指標を見いだして確定 することにしました。これは都合よく指標物体を見いだせない場合に有効 です。邪道だ、本来の約束に反する、と言われればそれまでですが、実際的でかえって確度が高まります。距離指標を見いだして、その見え方を移動しながら確認すればよいのです。これで、本来の地上観測の約束の、5kmまでは0.1km単位で、との視程を得ることが容易になります。
夕刻近く(日没1時間前)、空は周囲も含めて黄色く染まり、この煙霧状態の原因は間違いなく、黄砂であった、と確認しました。緑も黄白色に染まり、消えた一日でした。
咲かぬ間に散りぬべきかも黄雲風黄雲とは黄砂(による空)の状態のことです。これをもたらしたのは黄砂を運んできた強烈な北西の風でした。やっと咲きかけた桜の花が散ってしまわないかと気をもんだのはつかの間の杞憂だったようです。
今日は緑に青い空、そして白と薄桃色の桜がそこかしこに咲き出していました。
春の嵐 ― 2006年04月11日 22時43分02秒
アメダスの自動記録ではこの地では最高、11m/sでしたが、時折の突風は 台風と変わらぬ強さでした。叩き付けるような雨も時にあり、湿度も高めで じっとりと濡れています。風の吹く、というよりまうように襲いかかってくる南風は瞬間瞬間震えるほどです。アメダスの観測地点は海よりの平地なんで この強風を正しくとらえられていないようにも感じられます。時間ごとの数値では実感とは離れてしまうものです。
この一日、まだ止まない嵐で、せっかく咲き始めた桜も散ってしまったことでしょう。今年は、寒い長い冬の末にまた短い命を散らせてしまう、緑はそれでもこれからです。緑と花 ― 2006年04月12日 22時12分51秒
一方で、緑はまだまだです。道ばたの草も低木もまだ芽の段階です。この対照は際だっていて、気温の高さにそぐわないのです。田畑もまだこれまでの低温と遅い降雪のせいで起こしたり耕したりの光景もまだぼちぼちなのです。実際、いまなお、田んぼの色はタネツケグサの白が優っていて、いまだに水はけさえはじまっていないような放置されたままのところが目立ちます。 枯れ色の山肌、常緑部分に混じっての桜色、遠くの国境付近の残雪の山々を見ると、その歩みは私の足のごとく、と思うほど鈍いのです。
春の増水はいつものことと言っても、増減の頻度が高まっているように思えます。長く冷たい冬の結果はどう出るのか、これもまた地球温暖化の顕著な効果として現れたのか、と考えてしまいます。時期を選び時季を得た自然な緑の萌えや広がりがどこか遅く、出現状況やパターンが違ってきているように思えて仕方がありません。しけ(湿気)は恵みか ― 2006年04月13日 21時16分48秒
鬱屈した気分やそれ以上の気の滅入りを引き起こすのは決まって、この季節の変わり目の常ですが、このしけは列島全体に及んでいて、社会の停滞を惹き起こしているかのようです。真の進展、進歩は変わらぬ繰り返しにはありません。過去、現在を見つめてその過ちに気づき、誤りを正し同じ愚を再びとしないことです。暖かな風や雨に促されて少しく高揚させてちょっと跳ねてみる、そんな気持ちの穏やかな高ぶりをもたらすような思考や精神の進歩をどこか、抑え込むような雰囲気以上の圧力や愚かな単純化が横行しているのです。変えるべきは私たちであり、その選択を進んだ方向に見つけていかねば、このままでは衰退の方向にどんどん、滑り落ちていくような気がしてなりません。
望まない気候変動を引き起こしたのは私たち人間であり、また変えうるのは やはり私たちでしかありません。おかしな社会、日本を作らないために、そこかしこに兆候を見て取れる今のうちに、行動をおこすべきです。交通安全 ― 2006年04月15日 21時25分00秒
運転免許の更新に行くと必ず、「交通安全協会」なる中間介在者の存在にこのときだけ行き当たります。でも、これも言うまでもなく、強制的な加入、つまり、支払い義務などありません。当たり前のことですが、警察が背後にいるために、多くの人たちがお金をだまし取られます。これはテレビでも取り上げられ、問題となり、窓口が別になった府県もありますが、たいてい、不当な利得の犠牲者と更新にきた人たちはなってしまうのです。もっと、声をあげるべきです。いえ、この「協会」そのものをなくすべきです。心底、怒りを覚えます。
緑と土の道を散策するとき、そういった煩わしさや疎ましさ、警察の醜さなどと無縁のすがすがしさと命そのものを感じます。ここにこそ、本当の道行きの 姿を実感するのです。なにより、眼前の存在をありのままに見つめ、その事実を直視できる環境がそこにはあります。知るべきは、その現実の生でしょう。おかしな警察やその関連団体やどうでもいい講習会や運動などに寄って依ってはいけません。無意味な、それでいて税金の無駄使いである彼らの手慰みを認めてはなりません。許してはなりません。復活の春 ― 2006年04月16日 22時15分23秒
水路の代わりに水栓を付けて水のみの供給に変えてしまって以来、そういった田んぼにはかつての冬から春の湿性の植物やなんかが消えていたのです。ただ稲だけの栽培地として仕立てて、それ以外は雑草とした発想や排他的な耕作地としての水田にはその植物相の貧困さと共に、これまたかつて生息していた生き物たちの激減を知りました。ただ土地を単一種の耕作にのみ使う、そのために何度も土を入れ、改良を繰り返す、そんな貧しさは悲しくも命を消し去っているのです。循環を断ち切ってなおそんな繰り返しに明け暮れる現代の方法に豊かな食を求めるのは無理があります。
目的的な追求は効率と利益の追求の不可欠な動因だとうそぶいて正当化するのは指導的な人々の常です。でも、その結果はますます物事の歪みの増大と広範化につながっています。気づいたら、誰もが声を上げ、それが効果的に社会の中で支持され、確かな動きとなる、当たり前の民主主義の仕組みの働きがまた、恣意的に消されてきています。ごまかしや覆い隠しが横行し、嘘が当然のようにまかり通り、都合のいいことだけを単純な言葉で繰り返す、そんな現実をこそ、直視し、目を見開かねばなりません。竹島の不法占拠 ― 2006年04月20日 19時43分44秒
歴史的にも、また、法・国際法上も日本にその領有権があります。この経緯や歴史はたとえば、優れた解説で構成されている、竹島問題のページをごらんになれば、いえ、よく通読されれば理解・納得されると思います。実際問題として、その韓国のやり方とその姿勢そのものが、かつての日本を非難できるほどに正当ではないばかりか、あまりに非論理的で一方的であり、無理矢理支配権を確立しようとするその占有はほとんど戦時の対応と言えるほどです。私はもちろん、国粋主義者でも愛国論者でもありませんし、むしろその逆かもしれませんが、韓国の行動と暴言は(国際)社会として許容されるものではあり得ません。目的はその水域の占有にあることは第一に認められるところですが、それにしても、武力行使も辞さない姿勢を知るとき、ただそれこそ韓国人特有の感情に訴えてまでも領有を行うのはあまりに度が過ぎたわがままです。小さな子供のきかん坊がだだをこねるのと同じ理由を感じます。
不足していたのは、日本側からの正当な論拠によった主張とその表明と声であったでしょう。けれども、それを遙かに凌駕し、全く他者の声を受け付けない韓国の人たちとはなんなのでしょうか。大切なのは、その自然史的な流れと論理的で合理的な思考とその対等な議論です。はじめから、根拠のない主張を利己的にただその歪んだ感情をもとにして声高に叫び続け、実力行使をして当然とするところに、後からどうしようとも、正当性を見いだすのは不可能でしょう。最初の一歩は日本政府が聞く耳を持たない韓国にたいし、冷静さと協議を申し入れるだけでなく、もっと自国民を含めて明確な主張と説明をはっきりと何度も行うことです。それから、国際法に則り、解決をはかるべきです。春の風が泣いています。気がかりな春 ― 2006年04月21日 22時00分54秒
かつての例年の季節の移ろいを忘れたかのような今季の冬からの天候の変動はやはり、いつもと違う、としか考えられないのです。パターン化された気象解説とは相容れない感覚が働きます。彼らもまた、状況の説明はしても、原因そのものは触れずじまいですから、何のための気象情報なのか、と毒づいてしまいます。理解されないのは原因をうみだしてそのままに現実を理解しない困った人々ゆえでしょう。もう、自然の報復は始まっているのです。
ものごとの道理にかない、摂理にしたがう事象の推移に対し、対応を誤ると取り返しがつかなくなります。社会も自然も人間も同じことなのです。低年齢交際の末の殺人 ― 2006年04月22日 19時34分22秒
ニュースを見聞きして驚いたのは、2年前、つまり、11歳と13歳の子供の「交際」から事件が始まっていた、という事実です。逆にとらえれば、私の感覚からすれば、互いを大人と見た大人同士のつきあいよりも、生身の温もりやより近い関係を実感的に想像します。だからこそ、芽ばえ始めたばかりの命をやりとりするような危うい関係を想像できません。何か、欠落した大きな部分を感じざるを得ないのです。一日中人工環境を行き来している頻度の高い今の子供達にはその感覚すら、始めからないような恐ろしさを感じます。
ようやく新芽や新緑の息吹が見られるようになった現在、その中を歩いていて、変わらぬ動物たちの蠢きと接してそこに刃物を持ち込むような断罪を見いだすのは困難です。頭で知る、言葉で習うのではなく、実体験が日常的な形で受けられるような、そんな子供達の環境こそ必要と思いを強くし、まだ湿り気の残る土(アスファルトやコンクリートでは絶対ない)を踏みしめよろけながら考える午後です。黄砂ふたたび ― 2006年04月24日 21時19分01秒
現象の発現 0600 ∞
現象の終了 1900 (日没後薄明終わり近くで見えず)
視程 W 4.0km, S 3.0km (1410)
強度 ∞として1
それでも、田植えの準備がそこかしこで始まっています。タンポポも今が盛りで黄砂よりもこの黄色が目立ちます。キンポウゲも同じく光っています。
鮮やかさをこれから、の新しい緑もまた、ようやくの春を飾っています。小沢民主党の勝利で少しはこれから変わってほしいものです。
最近のコメント