変化を求めて2006年04月25日 21時28分46秒

まだ春は本来の姿ではないようです。今朝から雨あられ、雹も降り、冷たい北風で始まりましたが、昼前までには回復しました。でも気温はまだ低めで、北よりの風は強く、この時季にしてはかなりの寒さを感じます。人が変わらない分、季節よりも環境の著しい変化が大きくなったかのようです。

JR西日本の姿勢もうわべばかりで、中身に本質的な変化もなく、今日の夕方のニュースのコメントや負傷者・遺族の話にうなずくものを見いだして私たちの、とりわけ、強い衝撃や辛苦を味わった人々にその変化を知ったところでしょうか。上層の連中や支配的な者達の言動・行為に対し、私たちがその 誤りを指摘したださねばならないのです。そういった社会の中心的な変化こそ、本当に求められるのです。

もっと、心からその生を喜べるような、ほんとうの社会に造り変えなければなりません。その端緒となる部分や芽を一年前の不幸にあえいでいる人たちにも見いだせたのです。それに、早くしないと、手遅れになる、そんな思いを抱かせる身近な環境の変動を感じるのです。

チェルノブイリ事故20年2006年04月26日 21時09分57秒

史上最悪の原子力事故から20年目でもなお、彼の地の放射能は消えず、それ以上に、その影響は将来にわたって消えない、その恐ろしさを改めて知るこの日です。先日も、NHKで特集を組み、旧ソ連から現在のロシア・ベラルーシ・ウクライナの状況を伝えていました。不幸だった、ではすまされない現実をテレビ画面とはいえ、目の当たりにするとき、たとえば、IAEAなどのごまかしや覆い隠しや責任転嫁とさえ言えることばを知ると、とりわけ住民の言いしれぬ災禍を増幅して受容することになるのです。

原子力に携わる者なら、百も承知のことの最初の一つとして、放射性物質の放射能は決して消えることはなく、その放射線は永久に放出されつづける、という事実があります。チェルノブイリの原子炉一つでさえ、現実の放射能汚染は長期にわたり続くのです。測定し、確認し得た核種でも、その半減期から問題ないレベルまで減衰するまでには、それ以前に障害を受けた人々はなくなってしまいます。救いようがないのです。

ましてや、日本国内でも55基もの原子炉が存在し、日夜放射性物質を作り続けているのです。高レベル廃棄物の地中処分がどうのと盛んに喧伝しまだ原子力発電を無理矢理継続的に行おうとしていますが、限りある地中、つまり「埋葬」地は限度があり、しかも、その放射能はチェルノブイリの比ではなくなります。これもまた、原子力に携わったなら、百も承知のはずです。一日も早く、原子力利用を全面停止させ、これ以上の放射性物質を作らず、残さず、増やさないことです。だれもが、この日を機会に、目を見開いてほしいと思います。

チェルノブイリの教訓2006年04月27日 22時12分30秒

きょうのNHKのクローズアップ現代で取り上げられたチェルノブイリ事故の教訓は生かされるのでしょうか。分かり切った、当たり前の事実さえ、矮小化し覆い隠そうとする連中が支配的で威圧的な立場で原子力発電を進めています。ことさらそれが目立つのが、ほかならぬこの日本です。なぜ闇雲にまだ推進しようとするのでしょうか。ひとたび事故が起きれば、戻しようのない、救いようのない結果となることはすでに前例として、20年前の先例として、私たちは知っているのです。

小出・元NHK解説委員が端的にその教訓と共に語っていたように、時間以外、その被害から逃れるすべはありません。そして、その時間は人の一生など遙かにこえてしまうのです。半減期を示してそれで大丈夫、などと誤った言い方をする者さえいますが、大量の放射性物質が半分になっても、その影響は、その放射能は変わりません。自然のレベルまで減衰するのにどれほどの時間がかかるか、推進者たちはわかっていっているのでしょうか。時間はどうにもできない、と小出氏は言ってましたが、さらにどうしようもないのはすべての命でしょう。限りある一生を苦しみの中ですごさねばなりません。そして、逃れようがないのです。何代にもわたり、それが続くのです。

新緑の季節となり、新たな緑が周囲を包み始めましたが、その継承がそれ以前と変わらずなされるような、そんな環境を残さねばなりません。放射性物質は残してはなりません。増やしてはなりません。これ以上、作り出してはなりません。

水の色2006年04月28日 21時08分00秒

町の中心を南北に流れ下る川はその「水色」をよく変えます。その変化の感覚もまた変わります。上流域から人家集落は点在し、生活排水、農業排水、ときとして濁水もまた、大雨などに見られます。ご多分に漏れずというか、無理矢理、下水道整備もかなりされて、農業排水の処理設備もまた所々ありますが、やはり、その流入は流域各所に及んでいます。そのために汚れたり、色が変わったりしたのだ、とは言いません。本来的にそのための変量は小さいのです。それよりも川自体の構成に問題がありますし、川自体の浄化作用の小ささも一因なのです。

かなり上流の山奥まで入ったこともありますが、主流域ではすでに青白く見えるのです。もちろん、谷筋からの水はきれいに澄んでいます。そう、この川は淀みも少なく、上流域まで砂防工事と称した堰や堤が各所にあるのです。そのためか、川底の様子は自然を失っていて、その浄化作用を消してしまっています。中流域から下流は両岸、護岸工事がなされ、しばしば各所で川底までさらうような「通常工事」がなされるのです。

この川以外の、たとえば水田の周囲の溝でもまた、三面張りの水路であり、用水路さえ、昔の姿はありません。まったくの水路、排水路に過ぎません。 ですから、その色もまた、著しい変化を季節ごと、あるいは天候の急変やなんかで見せることになります。恐ろしいのは、だれもその問題を指摘もせず、知らしめることもせず、また疑問にさえ感じていないかのように、その水の環境を受け入れていることです。でも、声を上げて、まず、その意識と感覚から、変えなければならないと痛切に感じます。今からでも。

無感覚な無頓着2006年04月29日 21時05分43秒

田植えの準備を進める人たちは存外、無頓着に作業を進めています。季節の変化以上の気候の変動を感じないかのようにそのままに例年通りに行っているかのようです。去年とは違った田の風景もかき消すように代掻きをして畦を整え、その前には平然と変わらぬ手慣れで草を刈ります。農道沿いのあれた植生は実際的にもどうでもいいのかも知れませんし、むしろ刈りきって落とした方がいいとも思います。でも、周辺の草花は意外に大切です。たとえば、在来のタンポポなどは刈られると残った根でまた一年待たねばなりません。その間、子孫を増やすことができません。

他人にとって、存在自体、どうでもいいようにさえ思ってしまうのが自己中心性のなせる技ですが、実際、自分以外なら、どうしようともかまわない、酷いときには実験動物のように「扱って」平気です。他者に対する気遣いどころか、同じはずの血の通った人間の感覚を忘れているかのように全く心を感じさせません。そんな者達が、とりわけ、今の子供に増えているようなのです。そして、それを育てているのがまた、周囲の「大人」たちなのですからぞっとします。彼らもまた、他者の存在自体に無頓着で、どう傷つけようと、何を奪おうとも平然としているのです。

まず見つめ、その生を考え、自らの身に置いてみる、そんな基本的な態度というか、ごくごく当たり前の感覚が急速に失われてきています。貧しい生活環境にある子供だけでなく、今の大人達にそれが見られるのです。誰かが生きるためには、他者の犠牲はいとわない、とか、痛みは仕方がない、などと言葉だけで言い訳して平気なのです。でも、ひとりとして、無意味な命はないのです。