自由貿易と公平性2011年11月01日 10時32分04秒

マルバグミの花
TPP参加の適否はかまびすしくなってようやく議論も始まったか、とおもえるのですが、どうも、昨日も記事にしたように、充分な数値や必要な情報の欠如で考えるべき道筋を失いかねない状況のように思えます。実際、現実の「自由貿易」などあり得ませんし、どこかが得をし、どこかが収奪され、不均衡は南北問題と併せて考えるべきところです。そこでわかるように、公平なやりとりがなされているとはいえないからです。

アメリカの言う「自由」とは、自国の企業の優位性を元にしたなかば一方的な押しつけですし、公正さをもとにして輸出入を適正に維持し衡量する仕組みも体系も先に考えてはいません。また、本来なされるべき公平性の確立に向けた調整や均衡を図る基礎をないがしろにしようとしているだけに思えます。この日本でさえ、充分な競争あるいは比較の土台や基盤とすべきところに本質的な欠陥をかかえています。もとより、すべての国々や地域間に何もルールなき「自由」な貿易など存立し得ません。これはこれまでの歴史からも教えられることです。

今一度、「自由」な経済とはなにか、公平・公正な取り決めや仕組み・枠組みとはなにか、を考え直し、現状でのアメリカの言うTPPの本質的問題をあらわにすべきなのです。

変わらない思い2011年11月02日 07時11分57秒

二つの岬
遠く、岬を望む海岸からはその茫漠たる海が広がり、なお悲しみは深く沈んでいきます。これから、と思うばかりの日々にどうしていたずらに時間ばかりをなくしていかねばならないのでしょうか。ヒトの寿命には限りがあり、その瞬間刹那はかけがえのない命の発露なのです。誰にも、奪う権利も壊す権利も、ましてや否定する権利もありません。人生に待ち時間はありません。

歩きながら考えることが増え、それはそれで脳の働きを高めるのですから好ましい結果なのですが、思い悩むことの方が多く、それは外を歩くという健康を求め維持する行為の対極にあることになります。それを解消しようと、たとえば創造の作業に至るときに妨げとなることがなければよいのですが、得ることができないのです。

なんとかしてうっちゃろう、除こうとして四苦八苦し、様々な所為で変えることを試みるのですが、またぞろ、邪魔がはいるのです。そこで、怒りが沸き立つのです。すべてを変えることこそ、明日の希望です。

冷えてきた時節2011年11月08日 16時37分54秒

無理の崩落
昨日から急に気温も下がりだし、いよいよ立冬の気候らしさとなったようです。同じく(何が?)新たな職場に就き、慣れない環境でひどくとまどっています。なにかしら、冷えつつあるのと同調するように進む環境はどこか、一方的に進められようとしているTPP交渉への参加意思表明に似ているようです。

やめるべきは何もかも、一方的な行為です。賛同どころか、破壊や消失、衰退につながる否定的な結果をもたらすのは自明です。そんな行為に及ぶ者たちの盲目的な行動に私たちは断固として拒絶する、そんな姿勢が問われます。

子供たちの真剣さ、最後までやり抜く姿を今の職場で見つめるにつけ、その正反対に使命感や命がけの強い精神と気概をわすれた首相以下にいったい今まで何をやってきたのか、何を忘れたのか、問わねばなりません。日本をこれ以上破壊してはなりません。

オリンパスの魔2011年11月08日 19時20分03秒

やっぱり、というか因果を自明のこととして不正な処理と隠蔽工作が明らかにされました。現社長はようやく、自覚したのでしょう。イギリス人の元社長は全く正しかったわけです。その前社長を解任してまで隠そうとしてきた旧経営陣の情けなさ、恥知らずの姿勢は日本の企業の優位性を危うくさせます。

同様に、ようやく、各政党とともに、民主党もまた、TPPのその悪魔的な意図に気づき始めたのではないでしょうか。国民新党の亀井氏も首相に進言してくれたのですし、これからの、いえ、今の日本の危機にさらにその土台と礎をなし崩す危険性に首相以下、政権中枢だけでなく官僚も偉そうで何も見えていない企業の主導者たちもまた、目覚めるべきです。

光学はその光の追求の結果です。真実に目覚めるとき、ものごとが動き始めるのです。

TPPの現実を知るべし2011年11月10日 16時36分42秒

貴重な国産松茸
先日来のニュース報道を視聴していると、どうも野田首相は参加表明をAPECまで、あるいはそのときにしそうな様子です。情けないのは、『国民の生活が第一』として総選挙で勝利した民主党です。賛否両論に気遣って曖昧な表現で済ませたのですから。何より、誰かの目を伺うような態度、こびへつらうと言っていい態度は捨てて、誰よりも私たち日本国民と日本の現状に眼をむけるべきでしょう。

反対の大合唱になおさからうように企業・経済界の代表たちは政府をけしかけています。でも、彼ら自身の足下を揺るがし、存立基盤たるこの日本の国土や世界に誇りうる制度、安全性という点で間違いなく高い信頼性をもち少ないながらも輸出さえしている農業、水産業に深刻で致命的な打撃を与えかねないことに考えを巡らすことです。農林水産省でさえ、自給率は13%に低下する、といっています。自分たちの食さえ脅かすことになるのに、どうして「グローバルな枠組み」にこだわるのでしょうか。

いまこの国は、誰もがいっているように、大変な危機にあります。復興だけでもどれほどのお金や労力、目に見えない作業がまっているかはかりしれませんし、原発の事故は観光にさえあまりに大きな打撃でした。一方的な「枠組み」や形ばかりの、ことばだけの「連携・パートナーシップ」などに騙されず、しっかりと足下を見つめ、新たな立脚点を探るべき、大転換のときなのです。野田さん、亡国の宰相として名を残すのはやめなさい。

独裁者は去るべし2011年11月13日 08時40分33秒

清武英利球団代表
プロ野球の巨人軍のいわゆる「内紛」や「騒動」は内部の問題としてとらえる向きが広がっていますが、これは単なる確執や意見の相違などの問題ではありません。渡辺恒夫氏のコメントでも上がったオリンパスなどの事件とは異なる、というのは本質的に誤りです。これもまた、大阪府の橋下氏の独裁的手法や発言等と変わらない、いえ、もっと根の深い病根であり、これは双方ともになくすべき民主主義に反する大きな問題なのです。

私は個人的に、事情や詳細よりも何よりも、相談することさえなかなかかなわなかった清武氏の心情と立場を重いものとして理解します。誰かが、なんらかの形で言わなければ顕在化も人々に知らしめることにもならなかったわけで、その意味でも清武氏を全面的に支持します。今回に限らず、渡辺氏はその独裁的な手法で批判を浴びています。仮にも社会の公器である新聞を牛耳り、その資金にものを言わせた戦力補強など、おそらく一般庶民の私などよりも野球界の人たちならその内実をよく知っているはずです。

最初に述べたように、本質的に、リビアのカダフィやオリンパスの旧経営陣、大阪の橋下氏などと全く変わらない、いえ、その隠然たる影響力などを鑑みればそれ以上に、この民主主義社会の敵といえるのです。これはまた、どんな人々にもいえることで、誰かが誰かの支配者であってはなりませんし、ましてや、どんな形であれ、絶対少数を含む少数の人を意のままにするなど、決してゆるされません。どんな形であれ、独裁者はすべて、消えなければなりません。それが、この現代日本の、この社会の法律以前の哲学であり、規範であり、礎です。

生きるために働くのか2011年11月17日 07時10分12秒

朝の光
やはり気象情報は嘘っぱちでした。明け方雨が降る、と。でも昨夜、いえ、夜半過ぎてすでに3時前にやんでいたようです。路面は濡れていましたが、空には月が煌々と輝き、冬の星座は西に傾いて全天、星でした。決定的に事実がすべてを決めたのです。

同じことがまた、労働の現実にもいえます。言われた話、誘因の記述、そういったことどもに事実はありません。その内実はすべて、その正当化にしかなかったのです。実際、対等で同等の労働、平等で同じ権限や資格のない場所に(職場に)労働の本質はありません。つまり、人間として、その労働の本質は一人の人間としての誇りや尊厳が存在していない、というところにあるのです。

ワークシェアリング、と一口にいいますが、単にケーキを分けるようにするだけでなく、同じテーブル、同じ椅子、同じ環境で対等に話しながら食べられる、そんな平等な関係のないところに労働の分かち合いはあり得ない、ということです。誰かが上に立ち、何も言えない、そんなところにどうして働く喜びがありましょうか。求められるのは本質的な平等なのです。

自己責任に非ず2011年11月17日 07時15分20秒

サワフタギの実
現実になされてきた侵害行為、蹂躙に対し、声を上げることもできない抵抗手段を持たない人たち(私も含めて)にとって、その状況や状態、不幸や不如意について責任を問われることなど、心外くらいではなく、あまりに理不尽であり、受け入れることなど到底、できないのです。犯罪行為や加害行為を行った者たちにこそ全責任があることは明々白々です。どうして、弱い人たちが何もしていないのに責任は自身にある、などと強者や加害者たちにいわれなければならないのでしょうか。

過去にも、たとえばイラクで人質になった3人に対して、自己責任をおしつけた事例がありましたが、同胞の困難に際し、ぐずぐずしたりあとでお金をだせ、などという政府や社会がどうして正当化されましょうか。困った人たちを救うことは何にもまして必要であり、命のかかったときにどうしてそんなことをいえたのでしょうか。人間として許されません。

生活上も、私生活の秘匿の権利、人との会話や相談を開披されない権利など、人権に関わることであまりにルーズでその意識を問われる事例が多いのです。でもそれらによって、つまり、そういった犯罪行為の結果をもとに被害者や困難者が酷い目に遭ったりなお人権を蹂躙されたりすることなど、決してあってはなりません。それは私たち自身を社会の中で守り、生きることに他ならないからです。

誇りと尊厳2011年11月19日 12時52分35秒

ホコリタケ
よく日本国憲法を読みます。いつもその中心的な基本的人権の条文に心惹かれる以上に時として金科玉条のごとく信じている自分自身を見いだし、はっとすることがあるのです。

何より、どんな仕事であれ、どんな状況であれ、人間としての尊厳をないがしろにすることには耐えがたい苦痛と屈辱感を抱きます。これは人間として極めて自然であり、何一つ、譲ることなどできはしません。ひとりの人間として、社会的な動物として、決してその立脚点を他所に譲れないのです。

写真のホコリタケはちょっと触ると胞子などが舞い上がります。そんな風に、キノコでも誇りがあるのです(洒落)。実際、私たちはその誇りにこそ、その存在を価値あるものとして再確認するのです。