やらせか作為か誘導か-不自然なフジテレビの教育討論番組-2006年11月11日 21時16分42秒

夕方6時からのフジテレビ(系列)の『たけしの日本教育白書2006』で最初にでたテーマ、いじめ、での小学生の話とその後のスタジオでの話の進み方に変な感じを抱きました。どこか恣意的で準備されたかのような内容だったと思うのです。

確かに、出演者の顔ぶれはいいのですが、意図的な誘導がなされているような雰囲気です。その前の、小学生たちに尋ねた録画では、出席者全員が車座で向かい合い、互いを見聞きする環境であったこと、あまりにはっきり、大きな声でそれぞれが話していたこと、そしてもちろん、内容があまりに理解したくない声ばかりで形成されていたこと、などがあります。スタジオでもこの最初のテーマ、いじめを肯定するかのような発言を積極的に主張していたこと、解決や分析、追求といったことよりも現状肯定と受容に主眼があるかのような雰囲気を感じさせています。

もし小学生たちの話を真に受けるとすると、空恐ろしくなりますし、それを許容するかのような大人たちの発言はどう考えてもかなり抵抗があります。なにより、批判的な議論・討論の進め方があまりに乏しいように感じます。なにか意図した方向に進めようとする作為が感じられます。

小学生たちが、「いじめられるのは原因があるからだ」と当然のことのように、女の子が言うのには正直、気持ち悪くなりましたし、いじめはあって当然、と平然と主張するのには驚きました。同時に、もちろん、彼らが代表ではありませんし、すべてでもないことはわかっていますが、ことテレビ画面で見せられると本当のことであると錯覚してしまいます。「いじめられても誰にも相談しない」は確かにそういう傾向や割合はかなりになるということはわかります。相談や助力、ましてや先生などはかえって悪化させたり陰湿化・潜在化することも残念ながら事実です。でもここでは、そう判断し一人で悩むことが当然だとかふつうとかいうことを当たり前に受け止めろといっているように聞こえました。

「実際に、臭いしいやだ」とかいうことをいじめによって正当化しているのには呆れます。いくら小学生だからといって、いじめという卑怯で卑劣で陰湿で陰険な手段と行為言動を正当化する彼らをそのまま許容できるはずがありません。あまりに、はっきりいえば、いじめる側の身勝手な論理ばかりを際だたせすぎます。そういった発言ばかりをさせている聞き手や彼らを呼んで組ませたフジテレビの制作スタッフに疑念を感じます。最初に戻りますが、匿名で互いに見えない状態で一人一人に聞き取りをするといったような、本当の本音を聞き出す方法とは対極にある手法です。しかも、スタジオでこれを受けて徹底的に批判し、問題点を追求し、誤りや非人間性を質すためなのならわかるのですが、まったくそれとは正反対でした。

どうしてこういった番組を作り、こんな進行をするのか理解に苦しむ始まりでした。出演者たちは気づいているのでしょうか。

強風に乗って降りてきたイワミセキレイ2006年11月12日 21時00分39秒

小さきイワミセキレイの降臨
あまり見かけないセキレイがピッピッ、とさえずりながら飛んできました。あわてて、しかしそっと近づきながら写真に撮りましたが、これ以上は寄れませんでした。飛び立ったからです。

胸(首の下)の黒い模様がとくに特徴的です。ちらっとみて違うセキレイとわかるのですが、いかんせん、お近づきになるのが難しいのです。もっとはっきりした大きめの写真を何枚も撮っておきたかったのですが、この冬みたいな強風の中、いつまでもじっとはしていてくれません。

またあえるその時を楽しみとするのみです。この間のコホオアカらしき鳥といい、道に沿って現れるのがうれしい朝の散歩でした。

愚かな東京都のスギ伐採計画2006年11月13日 21時00分11秒

自身、花粉症だという石原東京都知事の肝いりで東京都は都内のスギを伐採する(し始めた)というのです。花粉量の少ない種類に変えるとか。

でも、これは愚行です。大切に育ててきたはずのスギをただ花粉症のために次々と伐採し、簡単には育たない木をまた代わりに植えようという、それ以上に「鼻」から売るにしてもたいした額にはならないスギと伐採費用の著しい不均衡をわかってやること、さらには、本質的に、減らしたからといって、スギやそのほかの植物の花粉はやはり存在し続ける上、それらがすこしでも浮遊していれば直接的に花粉症は変わりはしないからです。

なによりしかし、花粉症の原因はスギ花粉によるからではなく、そのために「花粉症」というアレルギー症状が生じてしまう原因こそが元凶だからです。そういった体質、身体の状態を作り出している環境そのものが問題なのです。前者を形成させてきたのもまた、後者の環境の変化・悪化がその原因です。スギ伐採という二次的自然、あるいは人工林の植生を変えることもまた、それなりに少しずつバランスされてきた環境をまた破壊することに他なりません。あまりに、思慮も感覚もなにもない、愚かな行為です。

蛇足ですが、花粉は何千年、何万年、いえ、それ以上前から存在します。また、明白な事実として、「花粉症」にならない人たちの方が圧倒的に多いのです。これらだけからも、スギ花粉が原因、主因だという主張はばかげていることがわかります。子供でもわかることです。

増えてきたシジュウカラ--富田林と札幌の自殺に思う-2006年11月14日 20時57分17秒

電線にあがったシジュウカラ
秋の終わり、というより冬の入り口ともなると木々は枝だけになったりします。この時期から麓に降りてくる小鳥が増えてきます。きのう、きょうとめだったのはシジュウカラです。写真は残念ながら電線の上でしたが、カメラを取り出していたときには桜の枯れ枝にとまっていました。

平地のにぎわいは雪が降り出すまで続きます。雪が降ってもまた、どこからか飛んでくる渡り鳥たちやなんかでけっこう楽しくなります。そんな季節でもあるのはそんな休みどころやついばむものがあるからで、あまりいじらないで残してあげたいものです。

コンクリートの建物から身を投げた中学生、高校生の女の子たちに、そんな冬でも、寒い空でも、生きている小さな命をもっと身近で感じさせてあげられていたら、と思うのです。支えてあげられたはずの若い生命をなぜ救えなかったのか、なぜ気づいていて、わかっていてもっと心からいっしょになって気持ちを分かち合えなかったのか、聞いていたはずの人たちの情けなさ、人ごととしてしか、仕事としてしかみていなかったその冷たさを恨みたくなります。

どこか、人々の間の心の本当に通い合う、たとえば、誠実さだとか、嘘偽りのない無償の優しさだとか、何もなくともただ一緒にそばについていてあげる、そんな豊かさだとか、あなたのことを忘れたことはない、と歯の浮くようなことばを真剣な顔つきで言える、そんなまじめさだとか、純粋さだとか、そういったものがどんどん、ないがしろにされ、奪われているような、そんな殺伐とした光景がひろがっているような気がしてなりません。

本当に、北海道滝川市の少女以来の自殺はすべて、心さえあれば、防げた事件ばかりです。

雨上がりのエナガの群れと誤った人たち-また自殺です-2006年11月15日 21時12分06秒

一瞬を捕らえたエナガの群れの中の一羽
ビチビチ、ピチャピチャ、チピチピ、などなど、楽しそうなさえずりでいつも群れてやってくるエナガ。いつも決まって朝の光の差し始めた頃、とか、ざーざーと降っていた雨がぴたりとやんでうそみたいに晴れ上がった明るい陽射しの入るときとかに彼らはやってきます。ほんとにうれしそうで、軽快で可愛らしいせわしなさはこちらも浮き浮きとした気分になります。

エナガと共に、シジュウカラもまた、くっついてやってくるのが常で、どういう関係なのか、と勘ぐりたくなります。小さいながら、その名の通り、尾の長さで広い円や円弧を描きながら枝から枝へ、飛び回っている様は子供たちの楽しそうな動きに似てうれしいものです。

今日もまた、新潟県で中学生が自殺しました。楽しいはずの学校はもう地獄でしかないのでしょうか。その報道内容だけでも、間違いなく、いじめによるものです。なぜ、こうも弱い人、小さい人を狙うのでしょうか。卑怯で卑劣な行為をなぜ、だれも咎めないのでしょうか。なぜ、勇気をもてないのでしょうか。

こうした中、また自民党は必然性のない教育基本法の改正を委員会で強行採決しました。そんなもので教育の荒廃が修復されるでしょうか。そもそも、国家統制を進めることがそんなに楽しいのでしょうか、うれしいのでしょうか。エナガたちは抑圧されないからこそ、重苦しい雲や雨がなくなったからこそ、軽快で自由なのです。

松坂君は自分がお金で買われ、やりとりされるのがそんなにうれしいのでしょうか。自分自身の尊厳というものがないのでしょうか。MLBで活躍できれば、力を試せればそれが何になるのでしょうか。こういった選手の「輩出」はそんなに喜ぶべきことでしょうか。推し進めることが目的となる、目標となる、これはどこか今の経済や社会の誤った方向と似ています。彼らは何も疑問を感じないのでしょうか。だとすると、これも、教育の大失敗のひとつです。

もう冷たい雨2006年11月16日 20時26分45秒

秋が熟しないうちにもう、冬になってしまったかのような一日でした。朝はとにかく晴れて、赤っぽい朝陽が射し、色合いも穏やかな明けの風景を見ることができましたが、その後は曇り、午後は弱い北よりの風で冷たい雨が降っては止み、やんでは降り、でかなわぬ日でした。

濡れるとその冷たさが身にしみて、寒さを直に感じさせるこの雨です。例年のことながら、これからのどんよりとした日々を思うと陰鬱になります。午後の降水確率は昨日の「気象情報」では30%でした。でもその全域に間断的に降り続いた事実は完全なはずれを意味します。

国会では単独採決で教育基本法の改正となりましたが、教育の世界もまた、ますます冷たい国家の押しつけがまかり通る前時代的な環境を作り上げるのでしょうね。心の温かさ、偽りなく愛せる、そんな社会、ひいては国であってほしい、と願うが故に、今回のおかしな(なぜか、どうして今か、理由がない)改正の強行・ごり押しを非難し、原状回復を求めるところです。でもどうころんでも、いまのやりきれない現状は救えないですね。

ジャンクフード天国日本と花粉症2006年11月17日 21時10分16秒

イギリスではジャンクフードのテレビ広告規制を年明けから計画している、とのこと。一歩前進ですが、これが彼の国のこと、というのが残念です。というのも、日本こそジャンクフード大国としてその名を馳せているからです。

東京都の無知と無思考からくる愚策、というより蛮行であるスギの大量伐採計画を取り上げましたが、いわゆる「花粉症」もまた、現代の社会的な病の一つでもあるのです。体質というより、身体の内部の形成にさえかかわってくるのはその食物摂取に起因します。『食品の裏側―みんな大好きな食品添加物』で有名な安部司氏もその恐ろしさと騙す手口をおもしろおかしく述べていましたが、テレビを中心とした媒体(マスメディア)を通じた飽きさせない一方でしつこい宣伝と販売展開は慣れを生んでいるところにその隠れた恐ろしさがあります。そういった本来摂取すべきでない物質を飽きることなく、ためらうことなく、そしてほとんど無意識のうちに取り込んできた私たちにこそ、「花粉症」を発症させる引き金があるのです。

著名なカップ麺はもちろん(これなど添加物や怪しげな物質の固まり)、世界展開しているマクドナルドやケンタッキー、ミスタードーナツなど、あふれるこの種のジャンクフードはなくすべくマスメディアは報道・宣伝すべきでしょう。なによりその危険性、生体での蓄積や障害の発現の可能性などをもっとはっきりと述べるべきです。

とりわけその見えない症状として、神経・精神に与える影響や結果はビデオゲームより深刻であるはずで、かかりやすい、うけやすい傾向にある人たちやその子供たちに反社会的行動として現出させているとしか思えません。イギリスに遅れたと言わずに、日本もせめて宣伝規制を今からでもすべきです。その方があほな東京都知事よりよほど「花粉症」の抑制・治癒に有効なはずです。

寒そうなコサギ2006年11月18日 21時46分48秒

川の中のコサギの群れ
よくいて親しまれる水鳥の一種、コサギの小群が川にいました。朝の気温は7℃。水温はもっと低いはずです。川の流れに沿って風もまた吹き抜けていましたから、そんな中に突っ立っているのはさぞかし寒かろうと想像します。首をすくめても身にしむ気候です。

けさはよく晴れてきのうの冬の雨はうそのようでしたが、湿度は高めで冷えが倍加されてしまいます。川の水量も少し増え、流れも急ぎ足のようにどこか駆けだしているみたいで、この先の季節を先導したのでしょうか。

田圃には藪からでてきたカシラダカたちがちっちっ言いながらあそんでいましたし、やたら増えてきたツグミが平行移動を繰り返すのも雪の前の風景です。この光景は変わらないようでいて、徐々にその周辺が人工化されてきています。いまのままにせめて、留めておきたい、と思うのです。

暗い朝の一本釣り2006年11月19日 21時05分19秒

近海そのものの一本釣りの様子
海の広さや深さ、その茫漠たる様を見ると、心地よさよりも恐ろしさ、怖さの方が先に立ちます。特に、沖合に出たりするとき、その恐怖感はかなりのものです。今朝は波も小さく、静かな海でしたが、天候はどんよりとした曇り空で、でもこんな日のほうがよく魚は食らうのだそうですが。

遠く停泊して釣っている船があり、その向こうには光をともして漁をしている船も見えました。望遠で写真に撮れたのはこの割に近くの船でしたが、それでも暗いせいか、写りはいまいちです。ただその様子はわかると思います。

漁港がその西海岸にあるのですけど、こういった近海そのものの漁や一本釣りで多くがまかなえれば、と無知ながら考えたりします。遠くまで出かけなければ充分ではない、昔からそうだとはいえ、次第にその程度が増し、一方で漁業水域の争奪と係争で近隣諸国とやり合わなければならないし、遠洋漁業でもまた軋轢や漁獲制限あり、で大切な海の蛋白資源の入手は困難のまっただ中にあります。だから、食肉用の家畜を飼い、彼らを撲殺して食えばいい、そんな乱暴な話ですむことでもありません。

もともと、必要な量だけ近海で獲っていたはずの祖先だったろうとおもいながらも、日本の1億2千万人を養うには、と考えると悩んでしまいます。

恐怖の自己中心性2006年11月20日 20時54分12秒

暗くなった夕刻、窓から下の道路を見下ろしていると、通りかかった女子中学生の4人組(!!)が、「あ、窓から覗いてる」と言って非難がましくこっちを見上げたのです。おまけに、「いやぁ~」とかなんとか、言うのです。

あのね、それは逆でしょ、あんたらが家の中を覗く方がおかしいの、のぞき、というのはそういうことで、家の中から外を見るのはごくごく、自然であたりまえのことなんよ、と怒りたかったくらいですが、なにせ、相手は恐怖の4人組です。そう、岐阜県瑞浪市で優しい少女を自殺に追いやったあの4人組とおなじく、4人組だったのです。

現実にこういう言われかたをされると傷つくどころか、恐ろしさを覚えます。なんたる自己チューでしょう。そのうえ、自分たちが注目されていると思いこんでいるその思い上がり、自意識の過剰さ(もちろん、悪い意味で)にはあきれ果てます。中学生とはそんな生き物なのが普通なんでしょうか。何より、そういったことさえ、誰か、あるいは特定の弱い人を排斥したり、排除したり、迫害さえしたりする、その「正当な理由」にしかねないことです。いえ、実際、してるんですね、私に対して。そうやって犠牲者を作らないと気が済まないのでしょうか。