不作為と無感覚のいいわけ-岐阜県瑞浪市いじめ自殺-2006年11月01日 20時31分55秒

民主党のいじめ調査団の鈴木寛参議院議員のことばは国会議員ながら、極めて適切なものでした。「いじめが原因の自殺が北海道や福岡で相次いで明らかになったばかりなのに、なぜ教訓が生かされなかったのかと感じる。市の教育委員会や学校に事実と向き合う姿勢が徹底されていなかったのは残念だった」、というものです。まったくそのとおりです。

自殺との因果関係やいじめの行為言動を見る上でも、現実に目前に呈された事実を見据えれば明白だったはずです。なぜああまで教師たちは認識に手間取ったかのように振る舞い、逃げの姿勢をとろうとばかりしていたのか、理解に苦しみます。なにより、この少女の自殺は確実に防ぎ得たのです。事前に親が相談もし、彼女自身、担任に一人で話しかけてきていたのです。泣いていたのを見ていたのに何もわからなかった、わかろうとしなかったこの担任の無感覚と無能さにはあきれます。それをまた、事後におよんであれはいじめではなかった、とか、そんなことで自殺するような子ではない、とか、自分の責任をこともあろうにたった一人で首をくくった少女に押しつけていたのです。

昨日も述べましたが、両親も言われていたように、指導における問題などではなく、人間としての当たり前の感覚、「人間性」の欠如であったのです。彼らにとって、中学生とは職業上の対象でしかなく、教育とは仕事でしかなかったのです。無責任な言い訳の繰り返しで責任逃れと転嫁を図る、そんな者たちがもっと発見の困難な陰湿で巧妙ないじめに対処することは不可能です。いつまでもこのような悲劇がなくならないのはどこに原因があるのでしょうか。少なくとも教師たちにそれを語る資格はありません。