水田の赤帯の正体2009年02月02日 19時30分29秒

囀るセグロセキレイ
以前、水田での赤い色の帯が主に畦沿いに多くみられたのを記事にしました。その水をすくって拡大してミジンコを見つけたのもよかったのですが、その色が、内部において赤(どちらかというと煉瓦色に近く見えた<=光?)だったのをかなり疑問に思っていました。実際、淡水赤潮の原因とされるウログレナではないのは一目瞭然でしたから、もっと小さな微生物かバクテリアか、はたまた他の何かだとは考えたのですが、それ以上はわからずじまいでした。そして、今日、おそらく、その原因がわかりました。

花里孝幸著、ミジンコ先生の水環境ゼミ(地人書館)、2006年、を読み、ミジンコが赤いヘモグロビンを造ったことがミジンコの体内赤色粒の理由であると書いてあります。酸素が不足するとそうするらしく、実際、風も弱く気温も高くなる時期、淀んで溜まった水田の水には往々にしてみられる状態です。川ではみられず、溜まり水、としての水田(もう稲は生育していた)ですからミジンコなどのプランクトンは多いのは頷けます。

でも、上記はまさに赤い血の色で、赤茶色の正体ではなかった、とわかったということです。つまり、発生した、あるいは産生した何物かによる変色でそれらを取り込んだミジンコが吹き寄せられて帯となっていたのです。ミジンコ自身の内因ではないということです。

いつも、私たちはそういった水辺の異変をすわっ、水質汚染だっ、と騒ぎがちですが、緑のアオコやそのほかの原因での変色をも含め、もっとじっくり観察してみる必要があるという一例です。水そのものではなく、ミジンコを見いだし、さらにその内部にある赤茶色を観察できたのが原因を知る大切な、それでいて不可欠な理由だったわけです。

--- CLICKで少し拡大します。同じく、水田にしばしば現れるセグロセキレイです。 ---

「野生」生物への給餌2009年02月04日 19時40分38秒

「餌」を放り上げる男性と鳶
今日海岸で県外車(都会)を降りて鳶に餌をやっている男性を見かけました。数十分続けていたでしょうか。通りかかった際に注意すべきではあったのですが、逆に突っかかれたりしてもいやなので(下手をすると怪我をしたり命も危ないので)黙って睨んで離れました。車にはもう一人、連れ合いらしき中年女性も同乗していましたが何もいっていない様子でした。本当は自覚すべきですし、わからないのなら、もう一人がやめさせるのが筋ですが。

餌やりは動物園でさえ、禁止されています。ましてや、野生の動物たちが頻繁に出没する田舎では餌になるものは見せない、置かないが原則です。とりわけ熊や猿、猪などでは危険を伴うのです。餌付けは例外的な事例(たとえば最近のコウノトリやトキなど)以外、してはならない行為だと認識するのは子供でもわかることなのです。野生のものは野生に、が基本です。いったん覚えるとなかなか離れなれなくなる、そんな現実の接近と混交が人との境や棲み分けを壊してしまうからです。

実際にそういった行為を見て常に抱くのは、どうして、分かり切った誤りを繰り返したり「外で」行ったりするのか、ということです。公園のハトでも奈良公園のシカでもないのです(ハトは迷惑、とされますが)。通常の(ここが問題かも)感覚や思考のある、できる人たちならどういった行為や放置、廃棄がどのような結果を引き起こすのかは自明なはずです。様々な教育環境で何を学んできたのでしょうか。

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春来たりなば2009年02月05日 19時30分34秒

たぶんタシギ
好天、少し風は冷たくはありながらも春はもうすぐ、と錯覚するような気温と日差しでした。山側の梅の花も咲き、雪などどこにもありません。この時期、早くの気持ちさえ起こります。そんな中を歩いていると希望や期待、願いなどが胸を過ぎります。また、ありもしないあしたを想い、新しい時間や環境に夢をつなぎながら歩みを進める、そんな気分にさせてくれます。でも、まだ生き物は少なく、鳥の種類もそう多くはありません。

田んぼに潜むかのようにじっとして、突然飛び立つ鴫。今日のそれはたぶん、タシギだと思われます。他の種類にもにているのですが、光の加減で見づらく、また飛んでいる姿はどうにでも見えてしまいます。とにかく、写真に収めにくい、捉えにくい水鳥なのです。

春の海のような今日の海岸に立つと海上には白青い海の道までみられます。どこまでも続く道の向こうに早く立ちたい、進みたい、そんな遠くのあるべき世界を見つめる時間もあったのです。きっと、春は来ます。

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一人きりの自転車乗り2009年02月08日 20時24分25秒

自転車に乗った男
国道から脇に逸れて田んぼの中に入り、山の方に向かったかと思われた写真の男性は行き止まり、と思いこんで下ってきました。元の道(道路)にはさすがに戻らず、私が歩いていた農道を下る道を選んだようです。そして西に向かったのが途中、なぜか止まり、俯いている様子で、おそらく地図でも確かめたのでしょう、10分かそれ以上、じっとしていましたがまた西に走ったのでした。

解せないのはおわかりかと思います。北の山に向かっていったのがなぜ、下り、西に変えなければならなかったのか、理解に苦しみます。北は実は線路を越えればまた元の国道につながる山の道路があります。でも彼の通った道からは見えません。どっちにしろ、北に向かう意味がありません。西に方向を変えたのは確かに正解だったのですが、メッセンジャーバッグのような鞄を背中にふつうの恰好でどこにゆくのでしょうか。

不案内、一人、時間、北風、そんな中の自転車乗り。不安と心配がつきまとっていたでしょう。それでも自転車は突っ走ることができたのです。きっと、春の西の光に向かって、明日を求めてゆけたのです。その風景はきっと彼に希望を与えてくれたはずです。

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進む破壊2009年02月09日 20時38分00秒

排水路工事
なぜ、といつも思うことは以前にも増して募るほどに積み重なってきます。その一つを今日も写真に収めました。以前、この写真の場所は田んぼのそばで用水路があり、排水路としての機能も持たせてありました。ずっと以前にすでにコンクリート張りに変えられていましたが、その脇の土手はそのまま、木も育ち鳥たちがよく留まっていました。それなりに景観を保っていたわけです。水門まであり、まあ、道路のそばにしては上出来だったのかもしれません。

つい最近、そんなに必然性があったとも思われない工事が始まり、一目瞭然、「わや」になってしまったのです。これでまた、せっかく幾ばくかの命や種が生まれたりして受け継がれつつあったものが無味乾燥どころか、まったく無機質の姿に踏みにじられていくのです。この反対側もまた、同じようにされて、もうほとんどかつての有機的な姿形、景観は失われてしまっています。

本当に、この地域の人たちは、とくに地権者、農業者たちは心から望んで同意したのでしょうか。それとも、無知蒙昧に要請したのでしょうか。部外者や一般町民には何の前触れも話もなく、何もかもがこの調子で進められます。本来の機能をさえ奪う行為を平然とやってのけるのです。見かけの整いや一時的な便宜、はたまた業者の食いつなぎのために永遠に失われるもの、命を含めてどれほどになるのか、何も考えようともしていないかのようです。真に必要なのは何なのか、どうすれば、真に持続的に保全され生産活動をも豊かにするのかをもっともっと考えなければ、いえ、目を覚まして(というより覚まさせて)取り組ませなければこの土地はとても住めない、とても食えないところに堕ちてしまいます。

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静かな休日2009年02月11日 19時58分25秒

飛び立つウミネコ
晴れていた朝は次第に曇り、ときおり小雨となりながらも存外、もって洗濯物も乾くような天候でした。実際、晴れ間も日の光もあり、冬そのものの時雨でもない、どちらかというと春に近いような変化の一日だったようです。午後3時を少し過ぎたあたりから雷も鳴り出し、さぁーっと雨の降る、それでいてそんなに寒くない気候です。

午後すぐに、やはりLinuxはSlackwareに限る、とインストールして日本語環境をいれたのは、64ビットのSlamd64です。注意すべきは、LC_ALLで、これにja_JP.eucJP もしくは ja_JP.utf8 を指定しないとあとの設定でも日本語入力ができないことです。今までは、LANG でOKだったのですが、なぜか効かなくなりました。scim+anthy では、

/etc/profile

export LC_ALL="ja_JP.eucJP"
export LANG="ja_JP.eucJP"
export XMODIFIERS="@im=SCIM"
export GTK_IM_MODULE=scim

/home/.xinitrc

scim -d

あとはSCIMの設定パネルで適宜キーとAnthyにチェックをいれるだけです。

北よりの風ながら、海も穏やかで、ウミネコが群れていて、浅瀬でなにやら食っているようすでした。でもまだ今のうちだけで、また今週末あたりから寒く冬に戻るようで(信じてませんが)、本当の春が待ち遠しい日々が続きます。

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必要な伐採か2009年02月12日 17時19分24秒

伐られた木々
山の中の電気工事、とかで(写真の挿入写真参照)何台ものクレーン付きトラックと工事車両が入っていました。ここはもう上は無線中継所があるだけの車道で(いわゆる林道ではない)、めったに一般の車両は上ってこないので通行止めはありませんが、トラックが道を塞いでいます。でもいままで、ただの一度も、表題の木々の伐採や身勝手な枝打ちはありませんでした。数え切れないくらいここを歩いていますが、初めての光景でした。

電力供給は「道路」沿いに電柱を建て電線をしたから引っ張ってきています。山側にあるので、かつてあった大雨による土砂崩れでも道路の半壊など以外、障害はありませんでした。解せないのは緊急危急の要もないのに行われている伐採と枝打ちです。電線にかかる竹の枝や木の枝を一部取り除くのはわからないでもないわけです。でも広範囲に、しかも上下に渡ってほとんど伐ってしまった行為です。

いうまでもなく、山の植物は生きていますし、彼らに何の罪もありません。しかも、大切でこの山では必要な落葉樹を多く伐っているのです。杉や檜の枝打ちはかまわないでしょうが、落葉広葉樹はこの山に棲むサルたちや小動物、鳥たちにとって貴重である上に必要不可欠です。たった一つの無線中継所のためのわずかな電力のために、伐り過ぎるくらいに伐採するのは理解できません。というより、怒りを感じます。それに、勝手に伐っていいのでしょうか。あまりに、身勝手で利己的な、そして愚かな蛮行です。やめろっ!!と怒鳴りつけたい気分で後にしました。

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同じ主題の意味は2009年02月13日 18時01分08秒

所収の本の表紙
今度の芥川賞を受賞した津村記久子の前の小説2編を収めた本を読みました。筆致がどうだとか、筋がこうだとか、組み立てや構成がこれだとか、そういったことは別にして、読みやすく通して終えてしまう良さはあります。それだけの文章の連なりはとてもわかりやすいと思いました。

表紙の表題作ではなく、後の、『冷たい十字路』の方がおすすめです。これは内容の構成、主題ともに、貫井徳郎の『プリズム』と同様の方法を採用しています。ここで、主題というのは展開される内容に基づくそれではなく、この構成を採用して求めた、あるいは訴えたかったそれを指しています。他の作家にこれらと同じたぐいの小説などが存在するのかは私は不案内で知りませんが、この方法は確かに、社会の側面や一面を切り出していて有用だといえます。これからもこういった手法を試す作家が出てくるでしょう。

実際、現実の世の中、あるいは実社会で様々な人により、立場により、ものの見方以上に関わりと主張や「事実」さえ異なることはままあるのです。一般に、「真実は一つ」、と声高に叫んでみても、歴史の記述にみられるがごとく、本当の姿や事象そのものが誰によって観察され、記録され、記述されたかにより、伝わる「事実」は違って見えてきます。観察、もしくは観測、の方法、方向、視点、位置、深度によりその対象が変わってくる、いえ、変えられてしまうのは科学的な意味だけではないことを少なくとも二つの小説は教えてくれています。何を信じればよいのか、受け取ればよいのか、どういった修正や較正が要請されるのか、社会的な事象においても求められるのです。

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麻生首相の唯一の正論2009年02月14日 19時33分23秒

籾殻溜
不人気以上に叩かれている麻生氏ですが、今回の失言は喝采ものでした。郵政民営化に実は反対だった、それは正しかったからです。これに連なる一連の「小泉改革」あるいは「構造改革」などはまさに愚劣極まりない失政、失策であるばかりか、日本の社会や経済をだめにしてしまうところまできているからなのはもう、今ならいやでも誰もがわかり始めてきているはずです。ブレーンの竹中平蔵氏に中谷巌教授は誤りだったと反省を求め、自ら懺悔したことなどすでに多くの論者ははっきりと間違いぐらいではないことを指摘しています。

なのに、小泉氏をはじめ、中川氏、武部氏などの議員先生たちはまだ目が覚めません。麻生氏を笑う資格があると思いこんでいる愚かさは表彰ものでしょう。麻生首相こそ、馬鹿な元首相や金魚の糞のような議員たちを嗤って一喝すべきです。もう、ここまで落ち込んだなら開き直って正直に思いの丈を言えばいいのです。ため込んでいても、言い訳や説明などをしなくても、ましてや媚びを売らなくても、もう、かまわないではないですか。もっと、自民党の愚かさを国民に明らかにすればいいのです。そうしてこそ、自民党最後の総理大臣として名を残せます。

昨日のNHK総合テレビ夜7時半からの「地域発!どうする日本危機の自治体」では自民党や何もわかっていない官僚の「改革」や思考がいかに日本とその社会経済をだめにしてしまったかを具体的に伝えていました。溜めたのは借金と窮乏と疲弊です。籾殻になってもまだ気づかない政府官僚の馬鹿さ加減にはあきれる以上に怒りがわいてきます。特に抜け殻のようになった地方と自治体の現実はあまりに悲しく、絶望的な将来すら想像されます。現実、現状を直視しない、できない、想像すらできないろくでなしの小泉元首相に騙された国民は今度は決して許してはなりません。

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本当の法治とは―ひとつの事例2009年02月15日 18時07分21秒

早やハマダイコン咲く
法治国家として明治期に近代国家となった我が国ですが、いまだに、本当にその法による支配はなされていないとわかる事例は後を絶ちません。ひとつには企業による実定法の無視や歪曲、ひとつには憲法の形骸化、ひとつには一般社会における法を規定する哲学や法律・条例などの否定(単なる違法・不法行為の意味ではなく)、運用者の認知不足と理解不足と姿勢・態度の誤りなどがあります。でも昨日ニュースでみた事例はかなり胸を痛めるものでした。フィリピン人一家、カルデロンさんの子供、のり子さんだけなら日本に残ってよい、という法務省の決定です。

いまだに、この種の事例には理解がついていきません。過去にも、イラン、ビルマ(ミャンマー)、フィリピン、などなどいくつもの退去・一家分断の例があり、こういったニュースを見聞きするにつけ、どうしていつもこうなのか、疑問と悲嘆が交錯します。法律判断においてそうだという前に、この国の法令は人道に基づいた、例えば国際的な条約や宣言、広くあまねく認められている普遍的な「法」などに背いたり合致していない場合を感じさせるところがしばしばあるわけです。今回の事例もそのひとつだと思えるのです。真に上位にある法とは何でしょうか。真に規定されるべきは何でしょうか。もっと広く、高い位置から見つめるべきではないでしょうか。

翻って、私たち一般庶民としても、人間一般としてみても、せっかく日本という国あるいは社会を選んでくれてきてくれた、そして日本で子を育み成長してくれた、そんなありがたい、うれしい人たちをどうして追いやることに賛成できるでしょうか。のり子さんの、『日本人として、母国であり、生きていきたい』という言葉に法務省の役人は、法務大臣は何も感じないのでしょうか。そんな気持ちを持ってくれる人間、一家をこそ、誰よりも大切にする責務を私たちは負っていると信じます。

参考サイト(ブログ)