進む人間の劣化2013年12月05日 20時01分02秒

なぜ急ぐ?
夕暮れ、すでに暗くなっていた時間にいくつも見かけたのは、大のおとなたちの恥ずかしき人間としての質の低下でした。ひとつは、公共図書館脇の駐車場。おとながそのこどもらしき3人とキャッチボールをしていたのです。薄明かりで。もちろん、まだ、閉館ではなく、駐車場も出入りあり、で人目も迷惑も危険も顧みずこどもを従えてですから、あきれます。睨んでやりましたが、何処吹く風。へたに注意でもしようもんなら、反対にくってかかってくるのは必定ですから(言い訳ではありません)。公共の場所ですから、特定の何人かが占有し、しかも迷惑行為をしていいはずがない、ということは良識あるおとなならする前から分かっていそうですが、そうではないのです。

また、狭い歩道上、傍を車がびゅんびゅんと通っています。その歩道は学校帰りの中高生なども含めてしばしば行き交うところに、3分の2は塞いで並んで自転車を止めて話をしていたのです。邪魔だというだけでなく、他の自転車の通行にも暗いので極めて危険です。傍には自動車ですよ。わたしの行き帰り、15分以上あったかもしれません。

荷物を持ってきた運送屋。帰りに、少し離れてから一方的にわたしの気に掛かる内容(嫌がらせ)のことばをなげかけたのです。お客に対して。こちらは、届けてくれてありがとうございます、といった、そのすぐ後からです。何を考えているのでしょうか。しかも、背後から、という卑怯さです。それも、一方的に。

東京都の猪瀬知事は、言い訳ばかりを一方的にいっています。悪いことなどしてはいません、と。最初から、よくないことはわかりきっているのでしょうに、後でへたな言い訳ばかり。

総じて、昨今、明らかに悪い行為や言動をしでかしておいて、自己弁護どころか、被害者や弱い絶対少数に対して、一方的に反対に責め立てる言動の強弁を繰り返す輩が多いことは良心を持つ人たちなら、すでにはっきりと気づいていると思います。わたしは政府の回し者ではありませんが、小中学校の道徳なら、真っ先に課題として取り上げられることでしょう。それをすぐに忘れ、高校に入った途端、わるいおとな達に追従して悪に染まってしまうのです。右へ倣え、は悪さや悪意や人として恥ずべき、蔑むべき行為言動に付き従うことです。とくに、それが弱いものいじめへと向かうのです。その対象、つまり標的はクラスメートにとどまりません。教師だろうとなんだろうと、見境なしです。

猪瀬知事ではありませんが、決まって、そういった者たちは、「怖いから」、とか、「一緒にやらないとムシされるから」とかいった臆病者の言い訳ばかりです。情けない、で済まされないのは、そのために被害を受ける人がでることです。人間として、決してしてはならないことだ、という基本的な自覚と思考と自立した自己の確立ができていないのです。恐ろしいことです。

社会の自律的な機能とは、ひとりひとりの人間の独立した人格がその存立基盤だとされ、いえ、当然視され、あたりまえに一人の人間が尊重されることです。ことさらに何も行わないでも、その機能の働きによって社会の仕組みや地域社会、あるいは社会全体に行き渡り、人間が人間らしく、互いを気遣い、それぞれが自由に、かつ、自身を律するように生き続ける空間を持ち、それを維持することなのです。その正反対の方向に急速に進みつつ有る様に思えてなりません。どこか、人間の劣化が進む、そんな低劣で愚劣で卑劣な、身勝手な自分本位のものだけが闊歩するようになったら、社会は崩壊するのです。

人権週間2013年12月04日 21時08分47秒

冬の曙
今日から人権週間。12月10日に世界人権宣言が採択され、人類普遍の原理としての人権の尊重、いえ、それ以上の意味を持たせた宣言として、広くその意識と認識を求めたのです。これは私たちにとって、極めて基本的で極めて本質的な社会の礎でもあり、この基本的人権の持つ意味を知らないでは人間としていきることはできないのです。自分自身を存立させるために、そして、他の人々の共存する社会そのものの存立と不可分の、不可侵の権利を掲げたのです。

ただ、それでもなお、現在の日本社会や小さくは地域社会、そして職場や学校などをみるとまだ、いえ、まるで逆戻りしたかのようにその人権の必然性がないがしろにされる現実をしばしば目の当たりにし、時として身に降りかかることさえまれではないという現状の中にさらにその人権を主張する意義を再確認し、劣化する一方のこの社会をよくするという雲をつかむような行動にもでようという気持ちになるのです。

勤務校では、この人権週間に合わせ、『「思い込み」で人権をないがしろにしてはいませんか』というような内容のモノクロポスターを掲示しています。それはまさに、この学校に於いて蔓延っている反社会的・非人間的な態度と行為を引き起こしている原因の大きな部分だからです。教師から示そうとも耳を傾け、あるいは思考し転換していく姿勢や決意を教師自身と生徒達個々人が持たなければ無意味です。何より、かけがえのない存在として、その命をそこなう人の道に反した振る舞いや言動をしない、させない、広めない、といった強い信念を醸成させていかなければなりません。私たちに、二度目の人生はありません。

寒さの中の冷たさとひどさ2013年11月28日 20時38分36秒

イルミネーション
勤めながらつとに思うのです。小中学校だけでなく、高等学校でもいわゆる、「道徳」に関する時間をカリキュラムに組み込むべきだ、と。もちろん、倫理は科目としてありますが、選択で、全員ではありません。わたしの高校時代は実質的に必修でした。いまでもその当時の教師のことばもいくらかを思い起こすことができます。今の生徒達を見るにつけ、『自由と規律』だけではない、もっと基本的な、根源的な命題に思考する時間をもつことは大学入試以前い必然だ、と感じるのです。

見かけの「友人」や「教師」、あるいは、他者に対する態度や接し方、ことばの暴力や精神的な未熟さと弱さからくる恐ろしいほどの無感覚を直に受け取るとき、彼らに本当に必要なのは数学の問題演習ではなく、ごくごく基本的で社会の成り立つ最も基本的なところに求めるべき人の道、とでも言うべきものだと実感させられます。とりわけ近年、日本社会の劣化が叫ばれて久しいですが、いっこうに良くはなりません。むしろ、その精神性や真の意味での「社会性」は低下の一途を辿っている、と分かります。

そして、教師もまた、そういった側面を露わにしていますし、周囲のおとなたちもまた、同罪です。そんな地域社会、いえ、社会全体にどこか受け容れられない非人間性を見いだしてしまうのです。これは、平然と道理や人間としての歩むべき道、あたりまえに身につけるべきところの倫理観やごく簡単で人間的な「神経」さえ否定している現実をさらけ出している姿なのです。背筋が凍り付くような、恐ろしい風潮です。ぞっとするような、耳目を疑う姿です。直ぐに、改めさせ、直すべきことばかりです。どんな「理由」も「言い訳」もはねつけるべきことばかりです。

反社会的癒着2013年10月30日 21時17分07秒

浅黄斑蝶
みずほ銀行の反社会的勢力への融資問題は金融庁にも大きな責任がある、との指摘は大きな声となってそういった勢力への楯となったり反抗となったりせずに終わる傾向にあります。いつもそうです。ただ、その企業や行政当局の姿勢の弱さを非難して次第に収束、というパターンに終始するのです。なぜでしょうか。恐れや対応する個々人への暴力・暴力的威迫など、危害へとつながりかねない、という現実は毅然とした対応やそのバックアップを怯ませてしまっています。

私たちにとり、必要なのは、個々人にしばしば振り向けられる行為への、それこそ、集団あるいは連帯した社会的な拒絶と追放への行動です。ひとまかせや当事者だけへの非難などで自分たちはしりません、といった態度が後を絶たない反社会的勢力の横暴とそれらとの癒着に認可を与えてしまっているからです。より厳格な立法と警察の働きや市民の勇気と協力、教育における暴力に対する姿勢の醸成と意識的な抗う取り組みなど、弱いひとりひとりでの反抗ではできない大きな力を培うことが焦眉の急です。

翻って、ごく身近でも、暴力に弱腰でなお、逆らってはいけない、とか、おとなしく引っ込むように手なずける、そして別の世界に住んでもらう、といった対応こそうまくおさめるために必要だ、といった「常識」や「賢明さ」のために、いつまでもその根は絶たれないままに残存するのです。私たちひとりひとりにとって、何より求められるのは、使い古されたことばですが、強きをくじき、弱気を助ける、といったわかりやすくそれでいて、ほんとうに勇気を求められる真の姿勢と行動です。どの人にとってもそれは逃れていいことではありません。この社会から、まさに、「反社会的勢力」をなくすために、あなたの足下から見直し、困っている人に手をさしのべ、力になり、いつも変わらずに接し、ときに連帯してあらゆる暴力に立ち向かう、その姿勢を育てませんか。

わたしはマララ2013年10月09日 20時03分49秒

"I am Malala" 発売。
マララ・ユスフザイさんの自伝の発売、ひとつの象徴としての彼女にわたし自身も賞賛や共感と連帯だけでなく、わたしの周囲の状況を重ね合わせて見ることになる現在に堪え難い思いを抱いています。現実に、周囲の連中の行為言動はタリバンの無法・非道・無知蒙昧と低劣さで共通項を見いだすのです。あまりに、愚かで知能さえ疑うほどに低いことばから出る非論理性と非合理にはうんざりします。その上に、命までうばうことに躊躇いもなく、およそ、社会の存立基盤であるはずの社会制度や共同体における規範認識とは全く接することのない低位の思考に際立った特徴を見いだします。

今朝、あわてて注文しましたら、日本のアマゾンで2000円以下で買えたことに後で気づきました。なんとも口惜しい。ただ、数週間待つより早く(7日間ほど)入手できるらしいのですが、どうなんでしょう。まあ、早く読んでみたい、という気持ちで600円の違いは(ハードカバー)よしとしましょうか。

日本でも、ことにこの地域ではそんなふざけた非道がまかり通るのです。非合理など、ごめんだ、とツイートしたら、前の勤務校の生徒がリツイートしてくれたのです。とても嬉しいときでした。日本人として、マララさんの戦いと彼女の身の安全のために、どんなことでも助力を惜しむまい、という思いからも、この民主々義で自由を尊重する社会に恥ずべき連中を放置しておいてはいけません。命を懸けて女子教育を訴え続ける彼女に顔向けのできない低位の連中はいっそどこかに放逐すべきかもしれません。前に記事にした、横浜の村田さんの純粋な勇気と思いを無意味にする社会に劣化させてはならないのです。

謝罪強要の裏側2013年10月08日 20時18分10秒

クローズアップ現代
今日のクローズアップ現代は「氾濫する土下座」でした。まさに番組終盤で森達也氏と山本博文東大教授の話したごとく、異質を作り出し、自らは入るのを避け、同質化、同調化することで徹底的に追い込む悪しき風潮の最たる姿としての土下座を強要する今の社会の歪んだ姿を象徴しているようです。そんなことをした、させたところで、何も解決しないし、何一つ得るものなどありません。それが分かっていてなお、不満や鬱憤を晴らす、そして屈服させるその姿に喜ぶという、なんとも卑屈でさもしい偏狭な人々の姿を映し出しています。

国谷キャスターのことばどおり、そうではなく、原因を探り、その解決に向けてよりよい仕組みや社会を目指して論議し、ここで、手を取り合い、互いに協力し合いながら改善あるいは新たなものを創り出していく、というプロセスの否定あるいは対極にあります。およそ、非論理的で非合理で実際問題として、非現実的なファセットの現出にほかなりません。それで、何も変わることなどないのです。これをまた、この地域でも声高に叫び、しかも陰から弱い人や小さな人、異質な人に対し(あるいは創り上げ)ありえない排撃に至るのです。

愚かさとは、愚かさに気づかないことだ、とは昔から言われることです。このことばさえ、幾度となく、そして多くの場所で多くの人たちから発せられながら、その愚かな者たちは全く聞き入れず、理解しようとはしません。そもそも、一方的に弱い人や声の小さな、あるいは出せない人に対して為される行為言動には正当性はありませんし、私的な断罪など許されることではありません。全く論外の行いが蔓延しているのです。これもまた、この社会の劣化・衰退のひとつの顕著な現出です。早く、パロディ映画のごとく、そのばかばかしさに気づき、改めなければ本当に、この社会は崩壊してしまいますよ。

村田奈津恵さんに思う2013年10月03日 19時54分00秒

チュウサギ8羽
父親の制止も聞かずに線路に駆けていって年配の男性を助け、自らは死に至ったJR横浜線の踏切事故での女性の行為には賞賛くらいではない思いを抱いた人も多かったはずです。命を懸けて一面識もない他人を救い、線路の脇にはね飛ばされた我が娘を目の当たりにして、お父上はどれほどの悲しみと無念さにうちひしがれているだろうかと思うとこれもまた、ことばもありません。そういった行為こそ、勇気そのものであり、臆病者の言い訳ばかりして被害者や弱い人に有りもしない責任を押しつけて平然としている輩の多い今、これ以上の鏡はありません。

でも、もちろん、何とかして電車を止められなかったか、と。多少、電車にダメージが残っても、直前で止められる方策を考えるべきときです。彼女の命はあまりにその代償としては何もない、ではむごすぎます。弱い人、抵抗できない人、自力では何もできない状況、たった一人で苦しんでいる人たち、そんな人たちのために誰もが手をさしのべ、少しでも助けになり、生きているなら、いつまでも力になってあげたい、そんな気持ちを持って歩む人たちを育て、あるいは増やしていきたい、そんなわたし自身の思いもまた、村田さんと共にありたいと願うのです。

自爆でもいい、困ったときに力になりたい、そんな気持ちは常に持っています。ただ、現在の職場での存在がそれを困難にしています。でもやはり、いつも、遅れても、時機を逸しても、後からでも何かをしてあげたいと行動してきました。何にもなくてもそれでええやんか、と。いつか、それもどこかで役に立つ、と信じます。村田さん、私たちはいつだってあなたの思いを忘れません。いつも、傍にいてください。

地域の貧しさと恐ろしさ2013年09月21日 20時13分52秒

船の係留場
夕方とはいっても日は落ちたあと、スーパーに買い物に行きました。そこで耳目を集めた出来事が。ある男の子が一緒にいた弟らしきこどもの髪の毛をひっぱり首を後ろにまげたのです。そして、「当然ながら」その小さい方のこどもが『ぎゃあ~』と大声を上げたのでした。その場はしん、となり、男の子が止めてまた元の状態に戻りました。お母さんらしき女の人は目を丸くしながら、『あんたなにしとんの』と男の子に向かって言いましたが、小さな子のほうが口を開いて『だって××ちゃんが………』といっただけでした。わたしもお母さんにはいえませんが、近づいて、他人のこどもとはいえ、しかるべきだったと後で思ったわけです。

問題なのは、その男の子が黙ってしまってそんなことをしたことに罪の意識をもっていないかのような様子だったことです。お母さんがすぐさま叱れなかったのはよくあることで、その心情や戸惑いは理解できます。ただ、この男の子のように、そういった結果の分かっていることに躊躇いもなく、ふざけて平気でしてしまうとことに恐ろしさを感じたわけです。男の子は、『…大丈夫?痛かった?ごめん、もうしない』とでもいったらそれはそれで、大事に至らなければいいのですが(よくはないけど)、何も言わずに済んでしまったことです。

わたしはこの土地に来て、そういった光景や他所での事件を目耳にするたび、そして自分自身、その被害に遭うたび、この地域の人々の心の貧しさとひとの痛みを感じない暴力(腕力にとどまらない)の蔓延を実感しているのです。ある高校でも、以前に記事にしたかもしれませんが、誕生日の祝いだとかで胴上げをし、床に落とすという「悪ふざけ」を繰り返し、教室から別の部屋にわざわざ運んでまた胴上げ落としを繰り返す、という30分も続いたという、事件がありました。救急搬送されたのですが、そんなことをしたら命にさえかかわることなど、高校生ともなればする前にわかりきっていたはずですが、大勢でそれをして誰もとめなかった、という、新聞記事にもなった話を聞いて、さもありなん、と納得してしまいます。先のこどもにしても、ちょっと行き過ぎれば大変なことになっていたかもしれません。柔らかく弱い成長途上のこどもの首なのです。大げさではありません。

わたし自身、生徒達の異常で異様な振る舞いに驚き、怖くなったことも何度かあります。また、住宅の周囲でのおとなやそのこどもの行為/言動に同じ気持ちに何度なったことでしょうか。こういった行為やそれらに対する「おとな」たちの姿勢を知る度に、この地域、土地の本質に根ざした振る舞いや行いである、としか思えないところに気づかされるのです。どこか、ここの人たちはこどもの時からそういったことを「許されて」きたために、高校生になっても、そして、体だけ「おとな」になっても平然と弱い人、弱い立場の人に対してその痛みや苦しみを全く感じることなくし続けている、そんな地域の体質のようなものをもっているのではないか、という強い心象を抱いています。

職場でも、パワーハラスメントをしてなお威張る人たちや嫌がらせ、一方的な決めつけで見下したり追いやったりするような行為に何の反省も罪の意識も持たないところをしばしば身をもってしることが多いのです。こどものときに、といっても、「おとな」達がそんなんですから、育たないのではないか、と考えてしまいます。わたしもようやく、恐怖に少し打ち勝ち、生徒達に対しても注意や警告をし、強い口調で言うことの必要性を認識できるようになったのですが、本来、教育はそういったところにはない、という有識者や経験者たちの箴言に戸惑いとためらいと迷いをいつも感じてしまうのです。どうするのが最良なのか、ということです。怒りを露わにし、叱りつける、怒鳴りつけるのは最短距離かもしれませんが。

朝になれども2013年09月06日 21時39分12秒

朝焼け
ようやっと晴れ間もみえだすか、と思えた今日でしたが、やはり、愚かな我が国の指導者達はなお目をお覚ましではないようです。G20を中座してまで東京オリンピックのために南米チリまで飛んだり―つまり、原子力発電はこの国では制御可能なのだ、とうそぶくための方便でもあるかのように―いったい、何のためにロシアに飛んだのでしょうか。

わたしたちの付託はオリンピックでも原発でもありません。この壊れかけている社会に対し、どういったメッセージと施策でもって、たとえば、いま最も辛い生活を強いられている東北の人々に、とりわけ避難民に対して何を救い何をうちたて、何を作り直すのか、が問われています。どうでもいい、金食い虫で余計な労力でしかないオリンピックのために大切な税金や人員や時間やエネルギーを注ぎ込む余裕などあるはずありません。そんなお金があるなら、そんなことにつぎ込む余裕があるなら、たとえば、孤独死をしてしまうような仮設住宅の住民の希望をこそ叶えるために使うことなのです。

堪え難い思いの中、絶望的に亡くなっていった多くの人々、津波にさらわれた人々を想うとき、東京のおばかな人たちにどのような諭し方で再教育をすればいいのでしょうか。この人達はいったい、本当にこの日本や東北の人々のことを考えているのでしょうか。助け合い、支え合い、分かち合う、これは物だけではありません。本当の心をこそ、持ち合い、すべての面で日本の新生を図らないと滅びます。わたしたちが望み、求めるのは希望であり、新たな未来です。分かっているんですか、首相、都知事さん!

台風一過2013年09月05日 18時26分55秒

崩れた弁天様への参道
このところの変動の激しい気象状態には驚かされます。多く、今迄なかった、とか、生まれて初めてだ、とかいった声をニュースやなんかから聞くたびに、この気象異変ならぬ地球異変に慄然としてしまいます。それでも、きょうは午後になってようやく雨もやみ、静かで涼しげな天候となっています。これ以前から、写真にあるように、崩壊もめだちます。何十年も大丈夫だった荒波の吹き寄せる北の海岸でもこの数年での降雨や風化の加速化によって大きな変化をもたらされているのです。

まさに、これからどうなるのか、としかいえないような、わたしたち人間の活動に起因した気候変動をもはや私たち自身ではとめようもないほどに変動を大きく深くさせています。雨台風は温帯低気圧にまで勢力を落としていてもなお、その運ぶ水量は従来の比ではないのです。受け身の対策ではすでに限界が見えています。繕うことだけではその綻びは直らないでしょう。どのように原因を正しくとらえ、どこに手を打ち、その原因のいくつかでも解消させることができるか、まったなしの真剣勝負なのです。

なのに、未だ、愚かさに端を発した原発事故は容易には収まりません。放射能という、最もやっかいな悪魔を津波だけではない原因、とりわけ、ヒューマンエラー以外ではあり得ない過ちで飛び出させてしまったその責任を一企業の東京電力に押しつけず、とにかく今できる対策、いえ、とにかく、その原因たる全原発の即時停止と放射性廃棄物のくいとめを決断することです。これ以上、生み出さないことから始めなければなりません。愚かさに気づきながら繰り返すなど、言語道断です。