意思決定の方法~イタリア原発国民投票~2011年06月15日 15時43分56秒

ホタルブクロ
14日に出たイタリアの原発再開を巡る国民投票の結果は実に明確な「否」の意思表示でした。原子力発電は、いわば、「時代遅れ」な2次エネルギーである、との94%を超える反対票はいかにフクシマが大きな影響を与えたか、という好ましくない日本の衝撃と、その政策への国民の参画のあり方を如実に示すものだったわけです。複雑な問題を孕んでいる、という言い方をドイツの先例ではしている方々も多いわけですが、それ以前にやはり、国家の施策のあり方に対する国民の関わりに一つの有効な方法を与えた、という点で注目すべきであるわけです。

小さな自治体などではしばしば重要な施策に対する住民の意思表示が住民投票という形で為されうることは日本国内においても見られるところです。すべてに渡っていちいち問うことはできないとしても、ときとして、まさに大げさではない、命や生活のかかった決定的な問題にその住民、あるいは国民全体がその是非を示すというのは自ら決定する権利の行使として認められるはずです。もちろん、まれにでもその多数意思の誤りなどはあり得ますし、その方法実現までの過程に障害や課題はつきものです。しかし自国、自治体の運命を左右しかねない決定的な意思決定に誰も加わることができないとしたら、それもまた、民主主義の意思決定の過程をないがしろにするものとも言えるのです。

しかるに、わたしたちの国はどうでしょうか。身勝手な「国策」の遂行によってあってはならない破壊と疎開を余儀なくされ、存在していた共同体は分散・消失の危機にあるのです。フクシマ第一原発の事故は地震と津波には帰することができません。これはまさに政策決定に致命的な誤りのあった典型的な事例といえます。そして、未だにもたもたして一向に収束の気配すら見えず、却ってその被害を広げる結果となっています。一致して当たらなければならない事態に直面しているにもかかわらず、自民党を中心とした政治家たちはいったい何をしているのでしょうか。彼らにこの国の重要な政策を決定し、遂行するだけの能力も資格もない、と大多数の国民は考えているのではないでしょうか。政争に明け暮れている場合ではありますまい。何をどうするか、そして行動するためにはどうするか、今為すべきを誤ってはなりません。