対話しよう、まず2010年11月20日 21時51分14秒

魚礁へ向かう船
真っ青な空、夜は十三夜で煌々と冴え渡り美しい静かな夜と昼でしたが、体の不具合もあって(また石ができたらしく)気持ちは晴れません。実際、8日前に送ってもらったある品が届かず、相手の人に尋ねたら再送しましょう、それも小包で、と連絡があり、9日後に届いたという荷もあったばかりです。この手の郵便物の不着はいままで何度あったでしょうか。そのたびに、犯人やその共犯者や内通者などがいるかもしれない郵便局の窓口から調査依頼をしていたのですから、まぬけです。書留でもなんどもあり、どれほどの損失を出したでしょうか。でも、証拠はすべて犯人側が握っています。お金を払い犠牲を払った消費者や一般庶民はなすすべがありません。犯人たちは今ものうのうと暮らし、平然としているのです。そういう連中がこの町には、恥ずべきことに、多いのです。でも、誰もそれを摘発しようとしません。何が支配しているのでしょうか。

私たちは、私ももちろん含めて、何より、対面して、対等にことばを交わし、意思の疎通を図るのです。それはすべての交流や社会生活の始めの一歩です。でもそれを否定して、ただ一方的に言いつけて知らぬ顔をする輩が増えています。それも身勝手で自分本位の態度と決めつけによってです。それがひどくなると、最近も犠牲になった群馬県桐生市の少女のような事件を引き起こすのです。責められるべきは直接的な加害者だけではありません。むしろ、放置し、あるいは取り巻き、あるいは黙って知らぬ顔を決め込んでいる卑怯な者たちです。加害行為にはそれこそ、連帯して立ち向かい、救うこと、そしてやめさせその非道をわからせることです。社会の基本は互いに相手を尊重してことばをかわすことなのだ、と。

昔も今も理解不能なのは、そんな行為に及ぶことに躊躇いも葛藤も罪悪感も示すことなく何の感情もないかのように振る舞って生活していることです。弱い人に対して、とりわけ絶対少数の何も手出しも口出しもできない人に対し、そんな酷いことばを投げかけ、攻めかけ、たたき続けてそれでも満足せず、それどころかそういったされる側の人に対して責任さえなすりつけることです。いったい、どんな神経をしているのでしょうか。変温動物でしょうか。感情は自身の自己愛にのみ向かい、他者に対して働かないようです。他の人の悲しみも苦しみも痛みも悩みもなんにも感じない、生きる価値のない者たちでしょう。失われたものは決して戻ってきません。取り返しの付かないことをしたという事実を思い知らさなければなりません。でも、繰り返しになりますが、奪われた命は戻ってきません。償いなど、やはり、無意味です。なぜなら、そんな酷い行為がこの社会でまだなくならないのですから。