季節の変わり目2010年02月01日 19時00分00秒

鳥の群れ
早朝の快晴もすぐに曇ってまた冷たく寒い一日となりましたが、どこか先日までとは違うように感じられます。もう雪もなく、堅い冬芽は真っ直ぐに上を向いて立っています。それで空高く編隊飛行をみることができました。何の群れかはわかりませんでしたが、鳴き声はもちろんこのあたりの他の渡り鳥とは異なります。シルエットからはかなりの鳥とわかります。

よく言われるように、そういった木の芽時には急な状態の変化や変容が人にもみられることがあります。気をつけなければなりません。その内部における何らかの変動がもたらすのでしょう。現実に変な者たちを目にすることもあるのです。

私たちは自由です。何をどう表現し、いつどんな時に何をしようと咎められることはなく、否定されたり何の形態であれ暴力により踏みにじられたり奪われたりする理由もありません。たとえば、こういったブログの記事によって暴力を受けたり脅迫されたり、あろうことか、人生を奪われたりすることなど、絶対にあってはなりません。そんな理由も原因も、もちろん、責任もあろうはずがありません。季節の変動にかかわりなく。

限定なし2010年02月02日 19時30分02秒

きょうは早朝こそ穏やかな天候でしたが、その後は時雨模様で、晴れたかと思えば雨、時にみぞれとなる典型的な冬の空でした。夕方からは落ち着いていて、濡れずに帰宅できたのでした。わずかな救いだったでしょうか。

私たちは確かに、生きている時間は限られています。どう決まるかは天のみぞ知る、ですが、決して消費期限があるわけではありません。常に、「いま」を生き、それは途切れることなく進みます。誰かに、あなたの時間や活動や権利はいつまででそれ以降は認められない、とか、今日と明日で処遇が変わる、それはどこかの誰かが決めるのだ、などとされることは絶対にあってはなりませんし、ましてや、愚にもつかない理由や口実を持ち出してきて、奪われたりはしません。

私たちは私たちの時間や人生を自ら決定する権利をもっています。これは生得的な権利です。第三者に、ましてや人間とは思えない者たちに勝手に決められることなど絶対にありません。何度も記事にしているように、自己決定の権利は心ある人たちに、弱くとも、何の力もなくとも、その人自身に生まれながらに備わっているのです。誰も、それを奪うことなど許されませんし、これを否定する権利も資格も誰にもありません。

また冬が2010年02月03日 20時29分10秒

朝はさほどでもなく、時折さぁーっと固まった雪が少し落ちる程度でなんでもない始まりでした。でもその後は照りながらもときどき雪やあられとなり、午後には一時的に、約1cmから3cmほどの降雪となりました。すぐに溶けてなんでもない路面で、地面や屋根にはうっすらと残った程度でした。帰りはなんでもなく、自転車をすっ飛ばして駅に向かうことができました。

もう雪はごめんです。って前にも記事にしましたが、実際、いやになります。この地方の宿命とはいえ、この冷たさ、寒さや暗さには辟易しています。いえ、そうでなくとも訳のわからないことばかりがまかり通るところでうんざりしているくらいではありません。雪は溶けて無くなりますが、人の醜さ、卑しさ、矮小さ、狭い了見、愚かさなどはなかなか改まりません。教育が何も効果をあげていないのです。

繰り返される冬、繰り返される愚行、繰り返される幼児性、この社会の自浄作用も進歩へ向けての歩みもとまったままです。いったい、なんど同じ誤りを繰り返せば良くなるのでしょうか。旧西ドイツのワイツゼッカー元大統領ではないですが、『過去に目を閉じるものは未来に対しても盲目となる』のです。ほんとうに、そのとおりです。

「もう」も「めえ」もない2010年02月06日 20時58分01秒

冬の猫
さかりのついた猫たちでなくとも、この寒いのに訳のわからない「ことば」(多分)をなにやら言いながら雪道を通ったりする輩がいます。実際、何をしにくるのか、理解に苦しみます。私たちは、言うまでもないことですが、人とは対面し、対話をすることで互いを知りまた理解しようとします。そうでなければ、何の関わり合いも生じません。これは自然の摂理でもあるのです。

何の原因も理由もあるはずのない、無関係の赤の他人の私生活に立ち入る権利は誰にもありません。ましてや、何かを決める権利など、どこにもありません。ですから、どこにも、「もう」それはない、とか、「もう」これでしまいだとか、「もう」関わりがない(最初からあるはずない!)などと言って勝手に決めつける理解不能な者が湧いて出てくるなど、全く不可解ですし、幽霊なら消えてくれ、と思います。ばかげてます。それぞれに、それぞれの人生があるのです。選択も決定もそれぞれになされます。

ただの一度も起こった試しのない、あるいは何かを示す証も実態もない、そんな虚実さえ判断不能の「ことば」(あるいは意味不明な縦波)など信ずるに値しません。何一つ、ありはしないのですから。耳にすることなどしてはなりません。それはまさにゆがんだ空間です。

困った雨2010年02月11日 16時42分41秒

朝は大丈夫でしたが昼になる前から降雨となり、夕方まで降り続いています。量としてはたいしたことはないのですが、半分予報も外れなかったことは残念です。まあ、低気圧の移動を追えばたやすい予想ですけど。昨日までほとんど外れていたことを思うと、彼らは何をやっていたのか、いるのか、大いに疑問です。

雨なのに、いえ、雨でも余計な人たちが跳梁しています。何より望まれるのは静穏で平穏な日常生活であり、休日の安らぎです。それを意図的に壊しあるいは奪う、そんな行為言動は許されません。そういったのは自由とはまったく別の問題です。いえ、自由とは正反対の悪行です。それぞれの個人の私生活を蹂躙するのですから。

今は静かになりましたが、雨の音以上に響く悲しい縦波は迷惑を超えています。私たちの基本的な権利としての自由としてはもちろん、憲法ではないですが、思想・良心の自由があり、言論・表現の自由があります。個々人がそれぞれに、そしてなにより、互いに認め合い、守りあわなければこの社会は壊れます。荒廃させるのは制度や仕組み以上に人の心なのです。そういった面での教育が決定的に欠けています。子供たちだけではなく、誰よりも大人に対してなされなければならない情けなさを感じます。

奏効しない教育2010年02月13日 18時20分43秒

陽をいっぱいに受けるサル
春の淡雪、のことばどおり、今朝から軽やかな雪が風もなく降りしきりましたが、まさにうっすらと白に変えただけで午後に入ってすぐに溶けてしまいました。相変わらずの寒さではあったのですが、午後の日射しは明るく、写真のようにサルも出てきて西からの陽をいっぱいに浴びてうっとりとしていたほどです。梅も咲き出していて、春はもう近いのか、と勘違いしてしまいそうです。

わたしたちの社会に本当の春がやってくるかどうかはずばり、教育にかかっています。イギリスの前首相、トニー・ブレア氏が、"education, education, education"(Blackpool, 1 October 1996) と優先順位を強調したように、人を創るのは社会を構築することであり、それはどのように教育するか、それがどう功を奏するかにかかってきます(奏効と奏功はにていますが異なります)。でもどうあっても効果の無い者たちもいます。知識や技能や考え方以前に為されなければならない有形無形の、しかし真の教育が欠けているとしか思えないわけです。

私たちはただ生きるのではなく、良く生きることを求めなければなりません。そして、そうすることはすなわち、自身を高めていくことです。そのためには基本的な教育、つまり学校教育でなされる知育・体育だけではない、もっと本質的な教育の価値をその社会の基盤として持たなければならないのです。そうでなければ教育を行う価値がありませんから。

湖水地方の午後2010年02月14日 16時14分03秒

ヒドリガモのつがい
午前中は晴れていて、そう暖かいわけではありませんでしたが、風もなく、穏やかな日和でした。午後になって曇ってお日様はぼおーっとしていますがまあ、この時季としては春を望める気候です。梅の花も咲き出していて心地よい歩みを進められました。それで、湖の方に出向いたのです。

先週やその前とは違って、水鳥はあまりいませんでした。それでも2つの湖を併せて100羽は軽く超えてはいました。静かな湖面を多くの鳥たちが行き交いまた浮かんでいる様はとても穏やかで落ち着く風景です。ただやはり、気にかかるのはその水の汚さです。とりわけ、大きな方の湖の、外の汽水湖につながる水路の周辺の汚さは一目瞭然の泥水のような色なのです。土色とアオミドロを合わせたようなどろどろとした濁りで、とても美しいとはいえません。

吹き寄せられるのはこの西岸への波の動きで、そのためはっきりと真ん中あたりで色が違います。なぜこんなに濁るのか、なぜ薄らいだり解消したりしないのか、なぜ水際の、いえ、湖岸から始まるはずの水草の姿が見えないのか、答えは誰もが知っているのです。でも、そのかつての美しい水面と湖水と周囲の風景の再生はかんたんではありません。どのように、どうすればこれ以上悪化させることなく再生を図っていけるのか、私たちが試されようとしています。

汝自身を知れ2010年02月15日 19時36分54秒

朝から雨模様でしたが、午後には晴れ間も出て回復しかけていました。つまり、今日も気象情報はうそだったのです。降雨も少し濡れる程度でそんなに降っていたわけではありません。実際、うそや偽りが横行しています。それはそれで、誰も傷つかず実害のない限りはかまわないわけです。でも、名誉毀損は立派な犯罪です。

わたしたちが信頼を置くのは誰か、他者であることが多いようです。でもそれでは依存と寄りかかりに過ぎず、何も自身では為しえなくなります。そして自身の思考や判断をみずから放棄することにつながってしまいます。

龍馬伝でも再三触れられ、龍馬自身気づいたように、自分自身の姿勢と態度、そして自覚と自律と内面に向き合う心こそ自らを立て、その道を歩む力となります。でもその自身の姿さえ直視しようとしない輩が多すぎます。もっと自身を知り、自らを高める鍛錬や思考を追求すべきなのです。そうすれば、あらぬ責任転嫁や不満のはけ口、誤った認識や決めつけ、はき違えなどは無くなるでしょう。

希望あれ2010年02月17日 20時31分30秒

今朝は曇り空、といっても早くは何も見えない暗闇に近く、ただ静かでほとんど人通りもないので歩けます。勤めに出る頃から雪が降り出しましたが、積もるような雪ではなく、午前中には止んで午後は晴れ間も覘く明るい曇り空になりました。気象情報はまたもえせ情報だったのです。それはそれで喜ばしいことですが、彼らは何もわかっていませんから困りものです。

外仕事では帰り道の小学生に出会いました。集団下校でわいわいがやがや、楽しそうで、嬉しそうで、かわいらしく、希望や明るさに満ちた子供たちを見るのはいつも好ましいものです。彼らのあしたが夢と希望に満ちあふれてほしい、と切に願い、まだ早春とも呼べない今の午後の日射しを受けて歩いた数時間でした。

誰にも、いつでもそんな希望と夢と幸福は不可欠です。誰にもそれらを奪う権利などありませんし、壊すことも、否定することも許されません。そんな行為をしてきた者たちには生きる権利など認めません。きっと、天罰が下ります。私たちはそれを信じて、明日をかなえなければなりません。前向きに、積極的に、進歩的で建設的な姿勢と力でもって。

何が原因か2010年02月18日 20時09分06秒

きょうは朝から晴れて良い一日の始まりだったのですが、11時過ぎ頃から急速に暗くなり、降り始めました。2時間近く、みぞれ模様でしたが、その後は回復、一時また降り、すぐに止んで後は曇り空でした。冬の天候ではあったのですが、外仕事もできて日中は良かったと思えたものです。でも夜は休めませんでした。かなり血圧も上昇、脈打ち胸打ち頭は冷えながらも穏やかならず、こたつの中で暖めてなんとか遅くには小康状態でようやく落ち着いたところです。

そういった状態を引き起こすのは決まって強い、しかも持続的なストレスであることが多いのです。とりわけやっかいなのは外部からのいわれのない、あるはずのない理由による圧迫でしょうか。それらが人為的に、意図的に作られるのだ、ということを身をもって知るまでわからないと平然と言ってのけるような愚かで救いようのない者たちに囲まれています。過去の失敗や過ち以上に、明らかな誤りであることを自覚できないどうしようもない者たちによって社会は病んでしまいます。その極端な例は第二次大戦だったわけですし、その後の冷戦、無謀ないくつもの戦争にまで至っています。

何より、誰より、今のすさんだ社会、人が人間たる所以を否定するような行為言動を繰り返す愚か者の存在が心ある人たちをむしばみ、更に病におとしめるのです。あたりまえのことがわからない、自身を鏡で見たことさえないとしか思えない連中は社会を破壊し衰退させるのです。弱い人、小さな人、声さえ出せないで苦しむ人たちこそがその現実の鏡です。必要なのは何でしょうか。毅然とした態度で勇気を持って非道やあらゆる形態の暴力に立ち向かう、そんな密やかではあっても強い気持ちや論理的で合理的な道理にもとづいた思考と行動でしょう。多くの人たちに望みます。