失われた心2005年11月30日 20時20分25秒

広島の女児殺人の容疑者は意外な人物でした。最初にこのニュースを耳にしたとき、ほんまか、と疑いましたし、今もなお、信じられない思いです。

ペルーから、おそらくは父祖の地を頼って出稼ぎにやってきた青年にとって、 いたいけな少女の命を奪う理由は無かったはずです。最初から別の意味で「出稼ぎ」(いえ、荒稼ぎか)にやってきているような悪しき外国人たちと違い、貧しさはなお国を覆う南米の地から、その優しそうな風貌を鬼に変える何物も少女は持っていなかったはずです。ことばを充分理解できない、はなせない人にとって、片言でも、あるいは、もっと優しく通じ合えたはずの少女に敵意や脅威を抱こうはずがないからです。彼を犯人だと言えた理由がわかりません。

急な冬の到来で冷たい雨にふるえる草花にも、まだ小さな花を付けている秋になお、さらに追い打ちをかけるように痛めつける、あるいは、へし折ってしまう、引っこ抜いてしまう、そんな心を見たとき、私たちはどうしようもなく、悲しく、やりきれない思いに囚われます。今の季節だからこそ、最後まで、その訴えるような花々の色を残してやりたいと思うものだからです。誰にでも本来、あるはずの、そして、あったに違いないその心やそれに従う行動振る舞いがとぎれたり、突然かまいたちにでもあったように切れてしまう、そんな断絶と言っていいような変貌、豹変する姿をもし見せるのだとしたら、これは私たちの言いようのない不幸です。木々も草花も土さえも、それを求めはしないでしょう。

その隙間に入り込んだ非情な冷酷さはどこかに、いえ、間違いなく、この父祖の地の日本の社会に生じたのです。それが、自らも子の親である彼の心を失わせたのです。何でしょうか、誰でしょうか。私はさも当然のごとく、解雇を語った労働者派遣業者の社長やそれを正当化させた慣行、助言や助力をしなかった周囲に直接の現出を見るのです。事例的に言えば、月に2,3回休んだからと言って、雇い止めをしていい理由はありませんし、ましてや、それを理由に派遣業者は解雇はできないはずです。軽ければ、叱責・譴責や 減給、休職などで対処可能ですし、何より、事前の労働条件の説明や契約内容、業務内容、そのほか派遣法26条に定められた条項をきちんとすべきですが、それがなされていなかったのはその解雇、という行為に実証されています。それ自体が不思議なのではなく、問題は、彼が日系ペルー人でことばも不自由で意思疎通に困難なまま働かねばならなかったこと、それを支える何物もみえていないこと、そして、何より、出稼ぎの理由と生活の手だてをそんな理由で奪って平気だった社会です。その精神状態は体験した人でなければわからないはずです。ふと襲った闇とその手が彼を失わせたのです。少女の命を奪ったのは、彼自身ではなく、日本の今の殺伐としてすさみつつある現実の社会なのです。