初詣 ― 2010年01月01日 20時07分09秒
合計、110円をお供えして幸せを祈りました。願い事を元旦にするのは久しぶりですが、今年こそ、の気持ちはいつも変わりません。とにかくなんとしても、望みをかなえていただかなくてはなりません。ポジティブな気持ちと姿勢と態度でなお、進むこと、それしかないのです。
非道や暴力、否定的な、退行的な言動を退け、そんなネガティブな情けないくだらない連中は滅びるのだ、と信じています。必ず、夢も希望も、そして理想も実現できることを心から祈り、願い、望み、そして信じます。多くの心ある人々とともに。冬の夕暮れ ― 2010年01月02日 19時24分20秒
まだ雪は残り、べた雪ながらも道路も半分溶けた状態で歩きにくく、冬とはいえ、あまり喜ぶことではありません。もちろん、雪が降るからこそのこの地域、地方の水の豊かさと潤いを保つ風土を形成しているのですが、現代の生活にとってはやはりこの積雪は障害となっています。静かに暮ゆく正月の夕時は冷たく、特有の情感を醸し出しています。今とは違った環境の創造が求められます。
夕陽は悲しいものですが、一方であすへの希望や期待、気持ちのつながりを教えてくれます。あしたこそ、の想いを抱かせる夕陽の光の穏やかさと安らぎと遠くを見通していけるような、そんな思いに駆られます。いつか、ではなく、間違いなく、明日なのです。時間は非可逆ですが、必ず進みます。それこそが生きている証かもしれません。非道は通らんぜよ ― 2010年01月03日 19時49分32秒
夕方、六時より、宣伝につられてNHKの「龍馬伝」を見ました。私のこのブログにも貼ってありますが、好ましい人物として、果たしてどう描かれ、どのようなことばや意図を伝えてくるのかも見所です。実際、今日のテーマは強烈でしたし、心ある、ドラマのことばで言えば、「志ある」人たちに訴えるところ大ではなかったかと思います。もう江戸時代でも封建時代でもありませんが、まだ人々の、とりわけその性状に問題を抱えた者たちには現代ではないのです。
幕末、顕在化したその身分差別や制度はまさに、近代日本を創り出そうとした薩長土肥において顕著だったというその実例です。だからこそ、龍馬を筆頭に優れた人物たちが育ち、飛び出し、変えたのだ、とは表面的ですが一面の真理です。まかり通る非道に現代の私たちは従ってはなりません。愚にもつかない理由や身勝手な思いこみ、一方的で幼い思考から策を弄した非道な振る舞いと言動と画策は決して許されません。本当に必要な教育はまさにそこにあるのです。心ある、そして志ある人間を前面にして、曲がり角にきてなおいつまでも腐ったかのような社会を変えるために、もっとも基本的な教育を施さなければなりません。弱い人や小さな人を泣かせてはならないのです。時間の問題 ― 2010年01月12日 05時42分24秒
朝はとりわけ、「時間」に追われ、出勤時刻までの組み立ての流れを知ります。わずかな時間の 遅れや始点のずれが後々までも影響しかねないのです。誰もが経験することだとは思いますが、 そのためにどうするのがよいかをあらかじめ内包された事実において概略を抱くことが順序よく、 できるかどうかを決定づけるのでしょう。
したがって、他者の存在など二の次です。誰が何を言い、どのように自己中心的に勝手にしよう とそんなことは問題外です。なにより、その行動や思考を知りうるのは自分自身であり、ほかの 誰でもないからです。そうしてその(日の)行動を私たちは自分自身で決定づけるのです。自律 こそ基本です。前向きであれ ― 2010年01月14日 05時36分37秒
何より、自己実現のためにものごとに挑戦し、創造し、変革を目指す、そんな姿勢が問われています。 それによって社会もまた、そんな人間たちの存在により変わっていくのです。今を生きるとはその意味 でもただ受容的な態度でのやり過ごしではないのです。ポジティブに思考し、積極的に取り組み、果敢 に(どんな小さなことであっても)挑む、そんな前向きの姿勢こそ自分自身を維持し、鍛え、高めるこ とにつながるはずです。
逆に、あたりまえですが、犯罪行為とされたり人や生き物を傷つけあるいはないがしろにするなどは もちろん、してはなりません。それもまた、論外です。基本的人権を否定するなど、言語道断です。 さらにいうなら、そういった行為言動をなくす、追いやる姿勢や態度はこれもまた、帰る意味でも建 設的で前進的な必要不可欠なものなのです。とにかく、ちょっとしたことでも、前向きであれ、積極 的であれ、ポジティブであれ、と。信頼と自由 ― 2010年01月16日 06時00分00秒
私たちは自由に信頼を置きます。そしてその信頼は実際に何がなされるのか、為されたのか、に依拠します。何が提示され、どのような道筋や道程が明示されたのかによって、卑近なことばでいえば、信じるかどうか、を決めることになります。でもそれはそれぞれ、人の自由な意思に基づきます。たとえどんな甘言や誘惑や幻想を抱かせたとしても、それに対する信頼はそれぞれの自由な思考により決定されるのです。
空疎なことば、天の声などには信頼は置けません。そこには自己中心的な発想や脅迫と恫喝でしかない強圧的な抑圧しか見いだせないからです。それは自由とは正反対の隷属に過ぎません。そこには本来の人間としての自由も、ましてや信頼もあり得ません。人は、隷属しないからこそ、人間となるのです(シモーヌ・ヴェイユ)。信頼はたゆまぬその信頼獲得への、つまり、自由獲得への必死の行為から生まれる成果なのです。暴力や非道はこれに対する人道に反する犯罪なのです。冬の芽吹き ― 2010年01月16日 20時39分07秒
南の山の麓まで出向いてみたら、ヤシャブシの実と一緒に芽吹きを見ることができました。この真冬に、しかも寒さ極まっている今、若い緑を見るのは珍しく、生きている姿を目の当たりにできた午後です。変わらない生の息吹に歩みも止まります。溶けない雪の道のそば、鈴なりの実のボールを凌ぐ豊かな命の静かな動きを感じさせてくれた山の道です。
夕食の蕎麦は翻っておいしくありませんでした。このソバは隣町で製造されたもので、ソバの味そのものがしなかったのです。まあ、夕食ということで我慢していただいたのですが、どうしてこう、いつも、隣町の食品はどれもこれもまずいのでしょうか。どこか、ぬるい、というか、たるい、というか、味や気持ちがこもっていないというか、どこか決定的な何かが足りないのです。なんか、なんというか、機械でまさに、製造した製品、という感じです。なぜ狙い撃ち? ― 2010年01月17日 19時31分12秒
正反対のように見える民主党幹事長の小沢一郎氏ですが、この人に対する嫌疑についてもまた、大きな疑問を感じます。どこか、検察庁は民主的な政治・政策を進めようとする人々を敵視しているかのような傾向さえ感じさせます。お金の出入りについての不正や違法行為があったのかどうか、私たちにはわかりませんが、検察庁の方向性にどこか、偏向したねじれやゆがみを感じるのです。小沢氏のかつての理想や志については、自由党時代のメールマガジンを購読していて知っています。元自民党らしからぬ高い見通しと理想を掲げていました。その頃の小沢氏の心でもって、国会で疑念を晴らしていただきたいと思うのです。口べたな小沢氏でも、明確に証明して自らの潔白や経緯を示すなら、特捜など怖くはありません。
今日は曇り空から一時晴れましたがすぐに降雨となりました。気温も低く、昼間でも1℃から2℃で冷たい日曜日でした。それでも、庭のアオキは濃い緑で赤い実をしっかりとつけています。何もない、それでいて生きている力強さを感じさせます。生きる権利は心ある人たちにすべて保障されなければなりません。一部の偏向や歪曲を排し、道理を通す人間が堂々と、まっすぐに生きていける、そんな社会を取り戻さなければなりません。一番大切なこと ― 2010年01月18日 19時31分39秒
弱い者いじめは決して許されない、人間のくずのする歴とした犯罪行為です。もっとも恥ずべき行為です。多数でもって、何の力もない抵抗することさえできない小さな人をよってたかって不満のはけ口にしたり蹂躙したり否定したりする、そんな連中に明日はありません。どんな理由をむりやりつけようとも、どんな口実をもってこようとも、人権の否定は正当化などできません。何もしていないのに、ただ性格のねじれた、あるいはゆがんだ心の持ち主たちに生活さえままならないほどに傷つけられ命さえ奪われるかもしれないほどに苦しめられる、そんな原因など被害者にはまったくありません。
あらゆる形態の暴力、暴言、暴虐は社会の恥であり、退化と荒廃と破壊・崩壊のもっとも大きな原因です。言うのは容易いですが、それでも私たちは声を大にして言わなければなりません。声さえ出せない弱い小さなひとをいじめるな、虐げるな、その人間であることを否定するな、と。規範や道徳以前に、何よりも大切なのはこのことです。人間として最低限、してはならないことなのです。見て見ぬふりをせずに、堂々と立ち向かい、なくさなければなりません。小春日和 ― 2010年01月19日 20時14分03秒
また仕事中、やってきたジョウビタキを撮りました。少し遠く、ズームにしましたがぼやけています。まあ、小春日和に誘われて降りてきた小鳥を褒めてやってください。雀たちも賑やかで、ほかにも冬の常連、うるさいヒヨドリやツグミ、カワラヒワ、声だけのシロハラなどなど、いくつもの鳥たちが陽気に誘われてまだ雪の田畑や木々の中に舞い降りてきたのでした。
加害者のことばを信じてはいけません。彼らはほとんど常に、自分自身の保身を知らず知らずにさえ図ろうとします。自分にとって都合の良い言い回しや表現を使い、仕方なかったのだとさえ言い張ります。傍観者であってもまた、同じです。一緒になってたった一人の被害者をなぶる側についたのは紛れもない事実なのです。未必の故意ということばがありますが、まさにそれなのです。ましてや、多数の側の主張など、信憑性はありません。何よりも傷つくぐらいではすまなかった被害者のことをまったく顧慮していません。小春日和などなかった冬ばかりの被害者のことをもっと思いやってください。
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