信頼と自由2010年01月16日 06時00分00秒

基本的な権利として、まさに、日本国憲法においても述べられているように、自由は永年の人類の命がけの成果であり、それをないがしろにすることは私たち自身に対する暴挙であり、その存在への極めて危険な、許されざる行為です。もちろん、自由と身勝手やわがまま、自分本位の思考言動、利己主義とは全く異なります。いうまでもないことですが、近年、目立ってそれをはき違えてきている輩が増えているように思われます。

私たちは自由に信頼を置きます。そしてその信頼は実際に何がなされるのか、為されたのか、に依拠します。何が提示され、どのような道筋や道程が明示されたのかによって、卑近なことばでいえば、信じるかどうか、を決めることになります。でもそれはそれぞれ、人の自由な意思に基づきます。たとえどんな甘言や誘惑や幻想を抱かせたとしても、それに対する信頼はそれぞれの自由な思考により決定されるのです。

空疎なことば、天の声などには信頼は置けません。そこには自己中心的な発想や脅迫と恫喝でしかない強圧的な抑圧しか見いだせないからです。それは自由とは正反対の隷属に過ぎません。そこには本来の人間としての自由も、ましてや信頼もあり得ません。人は、隷属しないからこそ、人間となるのです(シモーヌ・ヴェイユ)。信頼はたゆまぬその信頼獲得への、つまり、自由獲得への必死の行為から生まれる成果なのです。暴力や非道はこれに対する人道に反する犯罪なのです。

冬の芽吹き2010年01月16日 20時39分07秒

夜叉五倍子の実と芽
相変わらず寒い日々、今日は朝から雪はちらほらいやそうにふわふわと落ちてきただけで、10時過ぎにはそれも止み、あとは冷たい曇り空でした。午後には日差しさえわずかでしたがあり、一休みといったところでしょうか。エルニーニョは沖合というより南ア大陸遠方でその影響はオーストラリアに及んでいて、そのせいか寒波の襲来となったとフランスの気象予報はのたもうておりました。また後追いの説明を我が国の気象庁はなさるのでしょうけど、スパコンを駆使しているわりには力学モデルは体を成していないようです。

南の山の麓まで出向いてみたら、ヤシャブシの実と一緒に芽吹きを見ることができました。この真冬に、しかも寒さ極まっている今、若い緑を見るのは珍しく、生きている姿を目の当たりにできた午後です。変わらない生の息吹に歩みも止まります。溶けない雪の道のそば、鈴なりの実のボールを凌ぐ豊かな命の静かな動きを感じさせてくれた山の道です。

夕食の蕎麦は翻っておいしくありませんでした。このソバは隣町で製造されたもので、ソバの味そのものがしなかったのです。まあ、夕食ということで我慢していただいたのですが、どうしてこう、いつも、隣町の食品はどれもこれもまずいのでしょうか。どこか、ぬるい、というか、たるい、というか、味や気持ちがこもっていないというか、どこか決定的な何かが足りないのです。なんか、なんというか、機械でまさに、製造した製品、という感じです。