生きるために2014年08月05日 01時41分58秒

もし私たちが何かに束縛され、行動の自由を妨げられたり、心の自由を奪われたりする、およそこの「自由」なはずの日本においてあるはずのない非現実的な環境にあるとしたら、私たちにとってそれは何にも増して堪え難い非現実的な世界でしょう。もしそれが、日常的なある種の「ことば」によって作り上げあられるとしたら、それは伝達や意思疎通そのものを奪うことになるでしょう。それはまた、一方の側の「人間」であるはずの「力」をもった側にそれ自体を否定することにほかなりません。

どのようなことばであれ、話したり記したりする手段に否定を表す表現に縛られるとしたら、それ自体でその表現を不能としてしまうのです。ですから、その話者、発言者自身、その「自由」からの逃避を自ら求めることになるのです。かつて、エーリッヒ・フロムはその著書により、ナチスのその存在と束縛の非人間性を一方で指摘し、支配の反支配的な関係に唯々諾々とすることに私たち自身の自由の放棄を投射したのだ、と嘆いたのです。伝えるべきことば、そのための手段とその無意味さにそれ自身の言及する不能さと不毛さを見ることができないとしたら、その生を自ら否としてしまうのです。

生きるために、私たち自身はその生まれながらの自由をそのことばによって売り渡してはなりません。他者に対して発することばに否定を常に含む表現と言動にその話者自身はその生きる自由を自ら否定しているのです。ことばはそこに意思をもって伝達を担い、私たち自身の精神を具現化する手立てであるのですから、自らのことばにその否定を求めたとき、そのことばは自由を無くし意味も目的もなくなってしまうのです。

浦和レッズ横断幕事件2014年03月16日 21時09分08秒

春のあした
中川淳一郎氏(インターネットニュース編集者)の新聞への記事は注目に値するものでした。主に、埼玉の浦和レッズのサポーターの横断幕事件に関するものですが、そこから何が読み取れるか、なぜか、そういった本質的な、根源的な問いに迫るものです。

以前に私も記事にした、ヘイトスピーチ・ヘイトクライムと通底する「在日」へのいわれのない差別・区別があります。多くの日本人は彼らのような差別意識はないものと私は信じます。歴史的にも、朝鮮半島あるいは中国本土からの日本列島への移入者はたくさんいたし、わざわざ呼んで来てもいたわけで、その人々からの知識や技術は大和の国の建設と維持に与って力あったのですし、その「混血」は広くあったと思われます。どこからが「朝鮮人」で「中国人」で「日本人」か、あるいは南方の人々か、といったことはおそらく誰にもわかりません。彼ら自身、その血は何%がどういった起源なのかは100%わからないでしょう。

それにもまして、その差別意識や誰かをスケープゴートにする、その発想や手口や喧伝が恐ろしいと感じさせられます。この[ Japanese Only ]の横断幕で無観客試合を余儀なくされる日本のサッカーに誇れるものはあるでしょうか。この国土に住むすべての人々が「JAPANESE(日本人)」であり、その誰かを犠牲にしていい理由などどこにもありません。ましてや、その彼らは「在日」の自作自演である、とうそぶくその「二重基準」(中川氏による)は彼ら自身の、いえ、同じように誰かを何かが起こるたびに責任や罪を擦り付ける、まさに、「日本人」の人間性さえ問われる思考や良心とものの見方に起因しているのです。

これは、果たして、教育や社会の規制や啓蒙活動で矯正しあるいはなくしていくことができるでしょうか。どのような方策や人々の連帯が必要となるのでしょうか。「日本人」の一人ひとりに考えてもらいたい問題です。

健康と教育2014年03月09日 08時33分21秒

命の格差とは
イチロー・カワチ ハーバード大学教授による写真の書は多くのことを教えてくれますし、目を開かせてくれます。健康障害や生活習慣病を個人に帰するのは誤りで、社会環境の改善こそその解消や健康増進・維持に不可欠だということです。つまり、社会の仕組みを変えることこそが人々の寿命を伸ばし、社会を健全な形態にするのだ、と結論づけています。その理由は一読されると分かりますが、とくに簡単なグラフと数値により明確に理解できるのです。キーワードは、ソーシャルキャピタルとソーシャルサポートで、人々のつながりこそが命を救う、ということです。これは日本において顕著だそうです。

そして、これを可能にするのは、単に日本の伝統的な社会の価値観や共同体の働きにある、というのではなく、やはり、教育の果たす形成的な機能こそ、崩れつつある私たちの社会において鍵となる、と私は考えます。ともすれば、ゆがんだ見方や教授の賞賛する集団的な機能とは正反対の束縛や抑圧、迫害さえ起こる現実の日本の各層の社会構造からみれば教育による人々の啓蒙や様々な必要とされる意識と思考の醸成に必要不可欠となる、それこそ、教授のいうところの助け合いや関わり合いを基礎づける思いやりや互いの認め合う基本的な人権意識を実感的に、実際的に浸透させていくことです。

ポピュレーションアプローチによる視覚的な把握と上流への働きかけを効果づけるためにも、この社会階層の全般に渡った取り組みには教育によるものごとの基本的で道理に基づいた本質的な刷り込みはやはり見過ごせないと思うのです。なんでも簡単な視覚的な表現や引きつけで誘導したらいい、としてすべてがうまく変わっていく、そう単純に期待するのも現実的に無理があるように感じさせられます。教授も始めに述べたように、かつて日本はその識字率や教育の高さと緻密さとある平等性からそういったアプローチを可能ならしめてきたはずだからです。今現在、その日本の教育の危うさやゆがみや格差が問題となっています。どのように立て直すかではなく、どうこれからを創っていくか、が問われているように思います。そして、パブリックヘルスの視点から、社会の仕組みを私たち自身の意欲的な行動に結びつけるような基礎的な知識や思考と考え方の形成により変えていき、より健全な社会と一人一人の健康をもたらすように仕向けていくことが求められると信じます。

ヘイトスピーチの原因2014年02月25日 20時11分33秒

ヘイトスピーチ
この岩波新書は勤務先の図書館の新刊で借りてよんだのですが、あるところへの車中で読みながら涙が出てきました。その現実と歴史のひどさや背景を思うと、なぜ、こんなにも酷いことばでの声の暴力がまかりとおるのか、と同じ日本人としてあまりに悲しく、もしかすると肩をふるわせていたかも知れません。被害に逢い続けた在日韓国・朝鮮人や中国人、その他の外国人など、同じ人間なのにどうしてひどい言動をするのか、全く理解できません。それに、関東大震災での集団殺人など、我が耳目を疑いたくなることばかりです。

いまなお、適切な調査さえ行われていないようで、こんなことが許される民主々義社会がどこにあるのか、と静かな怒りが湧いてきます。でも、彼らだけではないのです。特定の個人や団体、あるいは弱い立場や排斥的な被害を受けている人たちはそれらと同様の声の暴力を受けています。わたし自身、それを実感しています。単なる人格否定や干渉・妨害にとどまりません。私生活を含めた生活侵害(妨害を超えている)、間断をつけて反撃や証拠のつかめない形での声の暴力、名誉毀損くらいではない言いふらし、聞こえよがしの悪口雑言、その人権の否定的な言動はときに大声で継続的です。

原因は何でしょうか。第1に、そういった者たちの内面の醜さや自己中心的な自分本位の決めつけ、思い込み、その正当化に伴うより弱い他者への不満のはけ口としての攻撃は身に降りかからないような形態で感情をまるで人間なら当然といわんばかりに口から出されるものがあります。第2に、社会のある種の「寛容さ」があります。明かな社会悪でしかないのに、その「暴力」を恐れて知らぬ顔をする、自分たちもその中にはいったり横からのったりすることで自身の不満を解消させる、そういった卑屈で偏狭な弱さの裏返しでしょうか。

この日本には、基本的人権だけでなく、そういうことから生じる諍いや戦争さえもうけつけない、とした誇るべき憲法があります。その世界において、名誉ある地位を占めたいと思う、という立派な前文があります。私たちはその暗い歴史に学んでその根絶を誓ったはずなのです。どの人も同じ人間として、ともに助け合い、手を取り合い、分かち合って生きるその責務があります。自らの欲望や利己心、了見の狭さ、一方的な主張の強弁による押し通しで「勝つ」ことを自己目的として行うようなヘイトスピーチや中傷キャンペーンもまた、社会として許容してはならないことです。

集団ではなく、ひとりひとりが最大限尊重され、その命と生活が自由で豊かになれるように、弱虫の典型である、声の暴力をふるう者たちに私たちは私たち自身のために、私たち自身によって立ち向かわなければなりません。過去の罪をあがなうためには、そんな行為を認めない社会を作り直すことです。それがヘイトクライムで亡くなった心優しい、あるいは多くの「外国人」への最大の供養となり、ひいては私たち自身をもその子々孫々まで、救うことになる、とわたしは信じます。

穏やかな帰路2013年12月23日 19時59分17秒

新幹線から
今朝早く、彼の地を発ち、帰途につきました。帰りの新幹線内では通路を挟んだ席におばさん2人、そのうしろにまた、おばさん2人で、そのかしましさ。最初は傍の席にいた2人の横の席には、混んでいたにもかかわらず、だれも座ろうとしませんでした。男の人も、女の人も、おばさんさえも。やはり、誰もが分かっているのだな、とひとり頷いていましたが、名古屋でしたか、1人の若い女の子が耳にイヤホンをあてながら座りました。音が気にならず、また、世間知らずだからだったのでしょう。いや、なんとも吹き出しそうな光景でした。

しばらくして、その2人は静かになりましたが、後ろに座った2人はたちがわるかったのです。始めからしまいまで、しゃべりっぱなし。それも大きな声で。はた迷惑だ、ということがわからないのでしょうね。走行音にも負けませんでした。他の人たちはだれも話さず、話しても、2人だけに聞こえる程度の声で静かに話すわけです。それが列車内のマナーだということはいいおとなならば分かっているはずで、それに抗うかのようなそのおしゃべりは耳障りぐらいではすみませんでした。それにしても、よくそんなに話すことがあるものです。あきれかえる、とはこのことでしょうか。

まあ、運のつきがよくないときは続くもので、乗り換えた列車内でもまた、すぐ近くにはまたまた、おばさん2人。これも大きな声でしゃべり続けること。いったい、きょうは何の日でしょうか。天皇陛下はこのようなおばさん2人組に遭遇したら、どんなお顔をされるのでしょうか。帰りはまったく、おばさん6人に祟られた道中でした。

近づくクリスマス2013年12月17日 20時52分43秒

イルミネーション再び
夕暮れのウォーキングの一番の楽しみは最近はこのイルミネーションです。小学校の前庭にあるのですが、こどもたちが返った後におそらく点灯されるこの明かりはしかし、誰のためなのでしょうか。行き交う人もほとんど無く、近くの道路からは見えますが、運転中にはみられはしません。でもたまに、わたしのようなのんき者がその明かりを見つめて喜ぶのです。寒く暗い空の下、鮮やかな彩りは少し暖かな気分にさせてくれます。

キリスト教の習慣に過ぎないクリスマス、仏教徒のわたしにとり取り立てて何かを祝うものでもありませんが、商業ベースのことどもとは異なり、返った後も子供達のためにあるようで、なにかしら、ほっと、そして、希望を映すかのような光景です。先月から、1ヶ月も灯る光はそんな社会の灯火として、暗いこの世の中にひとときの明かりを暖かに見せてくれる造形です。通る人、見る人により、その思いはさまざまでしょう。そこにまた、明日への仄かな慈しみに満ちた光に新たな気持ちをいだかせてくれるものです。

辛く、悲しく、それでいて、いえ、だからこそ、将来への希望と願いと想いを胸に、歩く時を大切にしていきたいのです。少しずつ、前に進むために。

進む人間の劣化2013年12月05日 20時01分02秒

なぜ急ぐ?
夕暮れ、すでに暗くなっていた時間にいくつも見かけたのは、大のおとなたちの恥ずかしき人間としての質の低下でした。ひとつは、公共図書館脇の駐車場。おとながそのこどもらしき3人とキャッチボールをしていたのです。薄明かりで。もちろん、まだ、閉館ではなく、駐車場も出入りあり、で人目も迷惑も危険も顧みずこどもを従えてですから、あきれます。睨んでやりましたが、何処吹く風。へたに注意でもしようもんなら、反対にくってかかってくるのは必定ですから(言い訳ではありません)。公共の場所ですから、特定の何人かが占有し、しかも迷惑行為をしていいはずがない、ということは良識あるおとなならする前から分かっていそうですが、そうではないのです。

また、狭い歩道上、傍を車がびゅんびゅんと通っています。その歩道は学校帰りの中高生なども含めてしばしば行き交うところに、3分の2は塞いで並んで自転車を止めて話をしていたのです。邪魔だというだけでなく、他の自転車の通行にも暗いので極めて危険です。傍には自動車ですよ。わたしの行き帰り、15分以上あったかもしれません。

荷物を持ってきた運送屋。帰りに、少し離れてから一方的にわたしの気に掛かる内容(嫌がらせ)のことばをなげかけたのです。お客に対して。こちらは、届けてくれてありがとうございます、といった、そのすぐ後からです。何を考えているのでしょうか。しかも、背後から、という卑怯さです。それも、一方的に。

東京都の猪瀬知事は、言い訳ばかりを一方的にいっています。悪いことなどしてはいません、と。最初から、よくないことはわかりきっているのでしょうに、後でへたな言い訳ばかり。

総じて、昨今、明らかに悪い行為や言動をしでかしておいて、自己弁護どころか、被害者や弱い絶対少数に対して、一方的に反対に責め立てる言動の強弁を繰り返す輩が多いことは良心を持つ人たちなら、すでにはっきりと気づいていると思います。わたしは政府の回し者ではありませんが、小中学校の道徳なら、真っ先に課題として取り上げられることでしょう。それをすぐに忘れ、高校に入った途端、わるいおとな達に追従して悪に染まってしまうのです。右へ倣え、は悪さや悪意や人として恥ずべき、蔑むべき行為言動に付き従うことです。とくに、それが弱いものいじめへと向かうのです。その対象、つまり標的はクラスメートにとどまりません。教師だろうとなんだろうと、見境なしです。

猪瀬知事ではありませんが、決まって、そういった者たちは、「怖いから」、とか、「一緒にやらないとムシされるから」とかいった臆病者の言い訳ばかりです。情けない、で済まされないのは、そのために被害を受ける人がでることです。人間として、決してしてはならないことだ、という基本的な自覚と思考と自立した自己の確立ができていないのです。恐ろしいことです。

社会の自律的な機能とは、ひとりひとりの人間の独立した人格がその存立基盤だとされ、いえ、当然視され、あたりまえに一人の人間が尊重されることです。ことさらに何も行わないでも、その機能の働きによって社会の仕組みや地域社会、あるいは社会全体に行き渡り、人間が人間らしく、互いを気遣い、それぞれが自由に、かつ、自身を律するように生き続ける空間を持ち、それを維持することなのです。その正反対の方向に急速に進みつつ有る様に思えてなりません。どこか、人間の劣化が進む、そんな低劣で愚劣で卑劣な、身勝手な自分本位のものだけが闊歩するようになったら、社会は崩壊するのです。

人権週間2013年12月04日 21時08分47秒

冬の曙
今日から人権週間。12月10日に世界人権宣言が採択され、人類普遍の原理としての人権の尊重、いえ、それ以上の意味を持たせた宣言として、広くその意識と認識を求めたのです。これは私たちにとって、極めて基本的で極めて本質的な社会の礎でもあり、この基本的人権の持つ意味を知らないでは人間としていきることはできないのです。自分自身を存立させるために、そして、他の人々の共存する社会そのものの存立と不可分の、不可侵の権利を掲げたのです。

ただ、それでもなお、現在の日本社会や小さくは地域社会、そして職場や学校などをみるとまだ、いえ、まるで逆戻りしたかのようにその人権の必然性がないがしろにされる現実をしばしば目の当たりにし、時として身に降りかかることさえまれではないという現状の中にさらにその人権を主張する意義を再確認し、劣化する一方のこの社会をよくするという雲をつかむような行動にもでようという気持ちになるのです。

勤務校では、この人権週間に合わせ、『「思い込み」で人権をないがしろにしてはいませんか』というような内容のモノクロポスターを掲示しています。それはまさに、この学校に於いて蔓延っている反社会的・非人間的な態度と行為を引き起こしている原因の大きな部分だからです。教師から示そうとも耳を傾け、あるいは思考し転換していく姿勢や決意を教師自身と生徒達個々人が持たなければ無意味です。何より、かけがえのない存在として、その命をそこなう人の道に反した振る舞いや言動をしない、させない、広めない、といった強い信念を醸成させていかなければなりません。私たちに、二度目の人生はありません。

寒さの中の冷たさとひどさ2013年11月28日 20時38分36秒

イルミネーション
勤めながらつとに思うのです。小中学校だけでなく、高等学校でもいわゆる、「道徳」に関する時間をカリキュラムに組み込むべきだ、と。もちろん、倫理は科目としてありますが、選択で、全員ではありません。わたしの高校時代は実質的に必修でした。いまでもその当時の教師のことばもいくらかを思い起こすことができます。今の生徒達を見るにつけ、『自由と規律』だけではない、もっと基本的な、根源的な命題に思考する時間をもつことは大学入試以前い必然だ、と感じるのです。

見かけの「友人」や「教師」、あるいは、他者に対する態度や接し方、ことばの暴力や精神的な未熟さと弱さからくる恐ろしいほどの無感覚を直に受け取るとき、彼らに本当に必要なのは数学の問題演習ではなく、ごくごく基本的で社会の成り立つ最も基本的なところに求めるべき人の道、とでも言うべきものだと実感させられます。とりわけ近年、日本社会の劣化が叫ばれて久しいですが、いっこうに良くはなりません。むしろ、その精神性や真の意味での「社会性」は低下の一途を辿っている、と分かります。

そして、教師もまた、そういった側面を露わにしていますし、周囲のおとなたちもまた、同罪です。そんな地域社会、いえ、社会全体にどこか受け容れられない非人間性を見いだしてしまうのです。これは、平然と道理や人間としての歩むべき道、あたりまえに身につけるべきところの倫理観やごく簡単で人間的な「神経」さえ否定している現実をさらけ出している姿なのです。背筋が凍り付くような、恐ろしい風潮です。ぞっとするような、耳目を疑う姿です。直ぐに、改めさせ、直すべきことばかりです。どんな「理由」も「言い訳」もはねつけるべきことばかりです。

反社会的癒着2013年10月30日 21時17分07秒

浅黄斑蝶
みずほ銀行の反社会的勢力への融資問題は金融庁にも大きな責任がある、との指摘は大きな声となってそういった勢力への楯となったり反抗となったりせずに終わる傾向にあります。いつもそうです。ただ、その企業や行政当局の姿勢の弱さを非難して次第に収束、というパターンに終始するのです。なぜでしょうか。恐れや対応する個々人への暴力・暴力的威迫など、危害へとつながりかねない、という現実は毅然とした対応やそのバックアップを怯ませてしまっています。

私たちにとり、必要なのは、個々人にしばしば振り向けられる行為への、それこそ、集団あるいは連帯した社会的な拒絶と追放への行動です。ひとまかせや当事者だけへの非難などで自分たちはしりません、といった態度が後を絶たない反社会的勢力の横暴とそれらとの癒着に認可を与えてしまっているからです。より厳格な立法と警察の働きや市民の勇気と協力、教育における暴力に対する姿勢の醸成と意識的な抗う取り組みなど、弱いひとりひとりでの反抗ではできない大きな力を培うことが焦眉の急です。

翻って、ごく身近でも、暴力に弱腰でなお、逆らってはいけない、とか、おとなしく引っ込むように手なずける、そして別の世界に住んでもらう、といった対応こそうまくおさめるために必要だ、といった「常識」や「賢明さ」のために、いつまでもその根は絶たれないままに残存するのです。私たちひとりひとりにとって、何より求められるのは、使い古されたことばですが、強きをくじき、弱気を助ける、といったわかりやすくそれでいて、ほんとうに勇気を求められる真の姿勢と行動です。どの人にとってもそれは逃れていいことではありません。この社会から、まさに、「反社会的勢力」をなくすために、あなたの足下から見直し、困っている人に手をさしのべ、力になり、いつも変わらずに接し、ときに連帯してあらゆる暴力に立ち向かう、その姿勢を育てませんか。