脳とヒト2014年08月18日 06時02分58秒

行おうとしているときに外部から何かがあるとそれはその行為や前提となる思考の妨げになります。それの繰り返しは短期記憶を破壊し、あるいはもっとひどいことに、その形成過程を断ってしまいます。これが長く続くと記憶の機能に障害が生まれてきます。これはなにも、「学習」に関わることだけで無く、日常生活におけるさまざまな障害につながって現れるのです。

他人の指図や命令(強要)はそういう障害と密接に関係します。そのある種の「受容」や「従順」は脳の機能にとって著しい妨げとなります。それゆえに多くの人々(あるいはヒトの多く)は抗うのです。それは、意思や自我の対極にあるからでしょう。ただ、それと共に、ヒトの社会の原理的な価値判断や倫理観念は多くの人々に意思や自我と同じ範疇にある「私たち」という集合の中にごく自然に見出されるものです。社会的に、あるいは個々人のよりよい関係に必要で自然に形成されることが期待されるのであればそれには妨げは形成されないでしょう。多くの人々の社会的な教育、つまり形成過程=「人格」の完成に導く時間=はそこにヒトの社会の尺度と価値を求めるのですし、これはまた、脳の障害を低減させ、機能の回復へと導かれるのです。

ヒトの生体としての拒絶反応のひとつの発現としての関係性への抵抗と回避や疎外その統合的な生存に必然的であるといえます。様々な生体反応として現れる種々の症状はヒトの社会の健全な存在に不可欠なのです。多くの人々にとってそれが自然な存在であるわけです。その妨げとなっているのは、その障害になる傷害行為などが多くの人々のヒトとしての精神的な存立に障害となっていることなのです。精神の健全性とは相容れないからです。それ故に、その紛れもない一員にとって責を負うことなど、どこにもないのです。

生きる前提2014年08月05日 06時01分12秒

なによりも、私たちはその存在の人としての生活が人間性に対する基本的な肯定と尊厳にあることを忘れてはなりません。その本質的な意味で、暴力やその形態における威迫、脅迫、抑圧、あるいはあらゆるその文脈での恐怖感からの脱却や救済が必要です。脅かされる何物かがあるのなら、その物理的な回避はとりわけ、弱者に求められます。

また、どのようなそれらの正当化や詭弁論理による是認は私たちは受容できないのです。これは私たちの存在に関わることだからです。暴力や巧妙で狡猾な手口による幻惑や誘い込み等の流布による恐怖感を私たちは手を取り合い、はねつけなければなりません。無知や無垢につけ込む行為から私たちは自由でなければなりません。真意を隠した接近に否、と言わねばなりません。

生きるために2014年08月05日 01時41分58秒

もし私たちが何かに束縛され、行動の自由を妨げられたり、心の自由を奪われたりする、およそこの「自由」なはずの日本においてあるはずのない非現実的な環境にあるとしたら、私たちにとってそれは何にも増して堪え難い非現実的な世界でしょう。もしそれが、日常的なある種の「ことば」によって作り上げあられるとしたら、それは伝達や意思疎通そのものを奪うことになるでしょう。それはまた、一方の側の「人間」であるはずの「力」をもった側にそれ自体を否定することにほかなりません。

どのようなことばであれ、話したり記したりする手段に否定を表す表現に縛られるとしたら、それ自体でその表現を不能としてしまうのです。ですから、その話者、発言者自身、その「自由」からの逃避を自ら求めることになるのです。かつて、エーリッヒ・フロムはその著書により、ナチスのその存在と束縛の非人間性を一方で指摘し、支配の反支配的な関係に唯々諾々とすることに私たち自身の自由の放棄を投射したのだ、と嘆いたのです。伝えるべきことば、そのための手段とその無意味さにそれ自身の言及する不能さと不毛さを見ることができないとしたら、その生を自ら否としてしまうのです。

生きるために、私たち自身はその生まれながらの自由をそのことばによって売り渡してはなりません。他者に対して発することばに否定を常に含む表現と言動にその話者自身はその生きる自由を自ら否定しているのです。ことばはそこに意思をもって伝達を担い、私たち自身の精神を具現化する手立てであるのですから、自らのことばにその否定を求めたとき、そのことばは自由を無くし意味も目的もなくなってしまうのです。

健康と教育2014年03月09日 08時33分21秒

命の格差とは
イチロー・カワチ ハーバード大学教授による写真の書は多くのことを教えてくれますし、目を開かせてくれます。健康障害や生活習慣病を個人に帰するのは誤りで、社会環境の改善こそその解消や健康増進・維持に不可欠だということです。つまり、社会の仕組みを変えることこそが人々の寿命を伸ばし、社会を健全な形態にするのだ、と結論づけています。その理由は一読されると分かりますが、とくに簡単なグラフと数値により明確に理解できるのです。キーワードは、ソーシャルキャピタルとソーシャルサポートで、人々のつながりこそが命を救う、ということです。これは日本において顕著だそうです。

そして、これを可能にするのは、単に日本の伝統的な社会の価値観や共同体の働きにある、というのではなく、やはり、教育の果たす形成的な機能こそ、崩れつつある私たちの社会において鍵となる、と私は考えます。ともすれば、ゆがんだ見方や教授の賞賛する集団的な機能とは正反対の束縛や抑圧、迫害さえ起こる現実の日本の各層の社会構造からみれば教育による人々の啓蒙や様々な必要とされる意識と思考の醸成に必要不可欠となる、それこそ、教授のいうところの助け合いや関わり合いを基礎づける思いやりや互いの認め合う基本的な人権意識を実感的に、実際的に浸透させていくことです。

ポピュレーションアプローチによる視覚的な把握と上流への働きかけを効果づけるためにも、この社会階層の全般に渡った取り組みには教育によるものごとの基本的で道理に基づいた本質的な刷り込みはやはり見過ごせないと思うのです。なんでも簡単な視覚的な表現や引きつけで誘導したらいい、としてすべてがうまく変わっていく、そう単純に期待するのも現実的に無理があるように感じさせられます。教授も始めに述べたように、かつて日本はその識字率や教育の高さと緻密さとある平等性からそういったアプローチを可能ならしめてきたはずだからです。今現在、その日本の教育の危うさやゆがみや格差が問題となっています。どのように立て直すかではなく、どうこれからを創っていくか、が問われているように思います。そして、パブリックヘルスの視点から、社会の仕組みを私たち自身の意欲的な行動に結びつけるような基礎的な知識や思考と考え方の形成により変えていき、より健全な社会と一人一人の健康をもたらすように仕向けていくことが求められると信じます。

置き去りにしたもの2013年12月20日 20時43分24秒

月夜
きのう、きょうと空は晴れて、洗濯物は良く乾き、日本海側としては意外なほどの好天でした。夕刻、雨になりましたが、いつもながら、気象庁の情報の不確かさには手を合わせたくなります。それにしても、経済、経済、経済。アベノミクスとかいっても、要はあっちを向いているわけで、復興特別法人税は「前倒し」で廃止、オリンピック・パラリンピックのための人事と対策、見かけは非正規の解消でも「多様な」正規従業員の増加を狙うという、購買層の確保、等々、とにかくお金のために向いている方向は違っています。

他方、誰もが訝しく気づいていてなんだ、と考えるこの方策のために、福島の人々はもはや戻れずに、他所での生活支援・賠償、年金や公務員給与の減額、教育の時間増による実質的な予算削減、少子化はもう既成事実としてその対策は上滑り、一方での特定秘密保護法、防衛費や防衛整備のための支出増加、いったい、どこに目をむけているのでしょうか。置き去りにしていくものは人々だけでなく、その命の代償として手に入れた民主々義や平和憲法や社会の豊かさ、子供達の歓声、老後の楽しみ、命を育み社会を維持するための基盤、すべて失われていきます。

目を向けるべきものから目をそらし、削るべきものは反対に増やし、残すべきものは破壊し、守るべきものを捨て去る、そんな社会の衰退と崩壊に向かうようなことばかりを私たちに突きつけているようです。いえ、はっきりと押しつけています。悲しい真実ばかりが見えてくるのです。

近づくクリスマス2013年12月17日 20時52分43秒

イルミネーション再び
夕暮れのウォーキングの一番の楽しみは最近はこのイルミネーションです。小学校の前庭にあるのですが、こどもたちが返った後におそらく点灯されるこの明かりはしかし、誰のためなのでしょうか。行き交う人もほとんど無く、近くの道路からは見えますが、運転中にはみられはしません。でもたまに、わたしのようなのんき者がその明かりを見つめて喜ぶのです。寒く暗い空の下、鮮やかな彩りは少し暖かな気分にさせてくれます。

キリスト教の習慣に過ぎないクリスマス、仏教徒のわたしにとり取り立てて何かを祝うものでもありませんが、商業ベースのことどもとは異なり、返った後も子供達のためにあるようで、なにかしら、ほっと、そして、希望を映すかのような光景です。先月から、1ヶ月も灯る光はそんな社会の灯火として、暗いこの世の中にひとときの明かりを暖かに見せてくれる造形です。通る人、見る人により、その思いはさまざまでしょう。そこにまた、明日への仄かな慈しみに満ちた光に新たな気持ちをいだかせてくれるものです。

辛く、悲しく、それでいて、いえ、だからこそ、将来への希望と願いと想いを胸に、歩く時を大切にしていきたいのです。少しずつ、前に進むために。

人権週間2013年12月04日 21時08分47秒

冬の曙
今日から人権週間。12月10日に世界人権宣言が採択され、人類普遍の原理としての人権の尊重、いえ、それ以上の意味を持たせた宣言として、広くその意識と認識を求めたのです。これは私たちにとって、極めて基本的で極めて本質的な社会の礎でもあり、この基本的人権の持つ意味を知らないでは人間としていきることはできないのです。自分自身を存立させるために、そして、他の人々の共存する社会そのものの存立と不可分の、不可侵の権利を掲げたのです。

ただ、それでもなお、現在の日本社会や小さくは地域社会、そして職場や学校などをみるとまだ、いえ、まるで逆戻りしたかのようにその人権の必然性がないがしろにされる現実をしばしば目の当たりにし、時として身に降りかかることさえまれではないという現状の中にさらにその人権を主張する意義を再確認し、劣化する一方のこの社会をよくするという雲をつかむような行動にもでようという気持ちになるのです。

勤務校では、この人権週間に合わせ、『「思い込み」で人権をないがしろにしてはいませんか』というような内容のモノクロポスターを掲示しています。それはまさに、この学校に於いて蔓延っている反社会的・非人間的な態度と行為を引き起こしている原因の大きな部分だからです。教師から示そうとも耳を傾け、あるいは思考し転換していく姿勢や決意を教師自身と生徒達個々人が持たなければ無意味です。何より、かけがえのない存在として、その命をそこなう人の道に反した振る舞いや言動をしない、させない、広めない、といった強い信念を醸成させていかなければなりません。私たちに、二度目の人生はありません。

医薬品ネット販売2013年11月06日 20時28分55秒

ジョウビタキ♂
最高裁で医薬品のインターネットでの販売禁止は違法、との判決、さらには首相の原則解禁の宣言で一般販売は自由になるのか、と思いきや、厚生労働省は安全性についての検討から未承認・未確認の薬品については3年まて、との話。かつて、そのインターネットでの販売の恩恵を受けたわたしとしては、最高裁の判決どおりに、と思う一方、安全性は見過ごせないわけで、どう「担保」するのか、は終わりのない議論となるような気がします。

ただ、その安全性も、劇薬などはもちろん、「強い薬」でもない、なんでもないような薬やサプリメントの類いまで、時として異常な効果や副作用をもたらすこともまた、決して、まれではないという事実は心に留めておく必要があるわけで、それを体験している身からすれば、厚生労働省の何らかの機関なり審査なりを通じて太鼓判を押された場合でも安心は永遠にできません。様々な予定していない飲み合わせなどで生じかねない作用などに対して、例えば医師や薬剤師とてその診断や指示は無力です。また、その人の体や状態、いままでの薬や病などの履歴からも判断は難しい場合はすくなくありません。

賛意は示しながらも、その薬品の取り入れ方(飲み方・使い方)=用法などと危険性や疑問や変だ、と感じる感覚などで結局はその人による判断こそ必然性のあるところです。薬害は承認された製剤などから起こってきた訳で、何かに頼る、何かに寄りかかる、というのは誤りだからです。自分自身で考え、判断可能なように、何より、科学的にかつ論理的に思考し、何かを感じる心を持つことです。異常や異変を察知するために、信頼できる情報を元に事実や知識から自分自身の体を知るということに心がける構えがなければ、無用に販売されている薬品には手を出さないことでしょう。分からないなら、安易な宣伝や能書きに従わず、面倒でも、医療機関にかかることです。

イノシシを食す2013年11月04日 21時02分36秒

シシ汁
昨日、一昨日、と地元での文化祭でシシ汁の無料提供があり、おとついは間に合わず食いそびれたのですが、きのうは10分前に並んだおかげでありつくことができました。とても柔らかく、おいしいお汁とともに暖かな味噌仕立てで野生の味を入れたのでした。まずめったに食べられないわけで、イノシシには気の毒でしたが、役に立っているのだぞ、と天に向かって感謝です。

有害鳥獣のひとつとして、とりわけ近年、その出没数の激増とともにその処分は大きな課題です。この地方一帯の処分施設も建設、稼働し、そこから運ばれた彼らの肉だったわけです。ただ、原因を鑑みれば我々人間の側にあるともいえ、バランスを失っている生態系の姿でもあるのです。単なる棲み分けではすまない現実があり、かつてのような山の管理や幅広い利用と植生の回復と多様化の保持にこそ解決策があるようです。

日本の地理的な分散と再配置、さらには就業と産業のバランスの回復も必要です。そして、何より、持続的な環境維持には活動する人間とその再生産も不可欠なのは今更いうまでもありません。少子高齢化は大問題で、とりわけ労働と結びついた少子化の危機的な状況はすぐに取り組まねばなりません。しかし、今の政府は前にも増して無策無能といわざるを得ません。わたしも含めて、若い人たちが安心して、安定した生活を営み、こどもをつくることができる本来の社会にしなければこの国は滅びます。

マキの実を食す2013年10月12日 11時21分33秒

マキの実ジャム
うちにはマキの木があり、秋に赤い実をつけます。紫がかってくると食べ頃で、そんなにおいしくも、甘くもありませんが、ささやかな恵みとしていただきます。これを採り、ジャムにしてみました。

ちょっと焦がしたのでなんですが、まあ、ほのかに甘みをつけていい具合です。ひとつの味覚として、味わうつもりです。

また、何か、自然の恵みでつくりたいです。こういうのは楽しいものですから。