順序と必然2010年01月25日 19時38分08秒

ジョウビタキのメス
優先される、というよりもものごとの起こる順序や展開する必然性にその内在する原因と結果の自然に生起する事象があります。私たちはしかし、往々にしてそれを意図的に退けたり否定したりしようとします。ですが、それはその摂理によってまた反対に否定されるのです。人間の 意思や意図によっては変えられないのです。それを無理にしようとするとすべてが狂ってきますし、すべてにおいて障害や逆行、破壊や消失が起こるのです。

極めて単純化し簡単にした問答として、まさに、答えを先に言い、後で問う、というのがあります。でもこれは考えようによっては恐ろしいものです。どんなことでもあったはずの問いかけが意のままに作り替えられるからです。ただ、いうまでもなく、現実の世界、自然界ではこれはそ自身によって否定されますので、あり得ません。それは自己否定を生じさせるからです。これと同様に、物事の本末転倒もまた、社会において自ずと否定されるのです。それに抗う行為はその人の自己破壊につなが ります。

これは取り立てて述べるほどもなく、いわば自明の理であるわけですが、それを理解しない、いえ、認知することさえ拒み、抑圧的で暴力的な思考と言動と行為に及ぶ者さえいます。現実の問題となれば、それは許されないことです。その理由はいうまでもなく、他者の、特に弱い人に対する著しい抑圧と剥奪、蹂躙と否定につながるからです。ものごとには順序があり、虚偽であったり逆行していたり喪失に至ったりするのはその順序を誤ったからです。また、私たちは何よりも、事実に基づき、理由を知り、思考するのです。その逆を辿るように、あるいは実験的に遡及的な思索を行うのは興味深いですが、それは現実には、また、自然には進行しないのです。