レモンツリーと認識 ― 2010年01月20日 19時51分02秒
つろうても、負けたらいかんがぜよ。兄弟(兄妹)仲良う、真っ直ぐに生きや。このときの場面で私も思わずもらい泣きしました。それと同時に言いようのない遣り場のない怒りがこみ上げてきたのを思いおこします。
きょうも晴天、外仕事は疲れましたが順調に終え、明日からの雨や雪に備えられます。冬とは思えないほどの暖かな空気で、南風は春みたいでした。ちっとも冷たさや寒さを感じさせなかったのです。このまま春になればいいのに。
その外仕事で、街中の住宅の一角にレモンの木を見つけました。この町では柑橘類はそこら中で栽培されていて、いわゆるふつうサイズのミカンは酸味の効いたおいしさでよく知られているほどです。他にも夏みかんサイズの幾種類もの柑橘類がたわわに実っています。思わず手が出そうになります。そんな中、こんな寒い地方で珍しいことに、レモンを見つけたのです。おそらくこれほどの立派なレモンは(いくつもなっていました)ここではこの家くらいではないかとさえ思えます。でも、食べてはいけません。猫が窓辺に座って前足を立てて表を見ていました。私が見つけるとこちらをじっと見つめ出しましたが、カメラを取り出したその時、さっと飜って降りたのです。ヒトとカメラを何らかの理由で認知し、その裏に潜む意図を知ったのです。PPMの歌に Lemon Tree というのがありますが、そのとおりに気をつけなければならないのです。窓辺の猫もまた、知っていたのです。
大前提としての自由 ― 2010年01月22日 19時31分00秒
まだ雪を抱く山の峰はその白さ以上に銀色に光り輝いていました。どこか、希望を抱かせる風景です。私たちもまた、あたりまえに明日を望み、何の障害も妨害も脅威もなく幸福に生活していくことを保障されなければなりません。それはそれぞれに求める、あるいは守りつなぐものではなく、当然のこととして不断の姿勢と態度でもって貫かなければならないのです。そして、その大前提として、私たちは何者からも自由である、という当然の権利があります。日本国憲法を引き出すまでもなく、人類の歴史において血のにじむような苦労の末、勝ち取ってきたのです。それを自ら放棄し、あるいは蹂躙することなど、決して許されることではありません。
とりわけ、弱い人たち、小さなものたち、何の力もなく、声さえ上げられずに苦しむ心ある人たちにとって、それがどれほど必然的で不可避で欠くべからざるものか、ということをすべての人たちに理解させる必要があります。例外なく、です。誤った思いこみ、身勝手な決めつけ、利己的な主張、そういったことでまさに、一方的にしかも強圧的になんでもない一人の人間の自由と権利を奪うなど絶対に認められません。そういう輩はこの社会からは排除されます。人間であることの前提を自ら否定するのですから当然です。私たちは、一人一人の基本的な権利と命をすべての人間の心をもった人々と共に守り通さねばなりません。生きることの意味 ― 2010年01月23日 20時12分28秒
生きるとはただ流されるかのように生命をそのままに受けていることではありません。「良く生きる」というように生きるとはその意思により前に進み明日をつかむことなのです。だからこそ、過去に思いをはせ、過去に学び、その礎のもと、進歩していくことなのです。同じ誤りを繰り返したり忘れたり否定したりする、そんな態度では何も進まないどころか、却って更に退化し最後には滅びるのです。
人工構造物や建造物の中にいてはそういったことを感じさえしない者たちも多いのです。でも、ひとたびたとえば森に分け入ったり、生命の躍動に直に触れたりすると何かを感じるはずです。そうでなければ人間ではありません。そして、そこから何かを得て歩むことこそ一層、求められるのです。自己決定の権利 ― 2010年01月24日 20時20分08秒
私たちは何をどうするかは私たち自身で決める権利があります。ここは日本です。また、民主的で進んだ憲法を最高法規に持っています。それを持ち出すまでもなく、当たり前の権利として、基本的人権は人類普遍の権利であり、日本のどこにいようと、どんなに住みにくい土地であろうとも、脅迫や暴力、陰のささやきや暗い心に関わりなく、当然に守られまた永遠にいつでも持ちうるかけがえのない命と同様に保持し続けることが保障されています。決して、どこかの第三者の恣意的な影響やましてや「命令」とか強圧的な主張などによって左右ももちろん剥奪もされません。絶対に。
私も含めて、何をどうするかはその場でその意思により第一義的に決定されます。犯罪行為も迷惑行為もしていない以上、咎めも拘束も束縛も、そして抑圧もされません。その決定はその人自身にあるのです。もしそれをやみくもであっても純粋無垢の特定の個人を排撃するとしたら、その人を傷つけるくらいではなく、明白な差別であり、人権の否定なのです。順序と必然 ― 2010年01月25日 19時38分08秒
極めて単純化し簡単にした問答として、まさに、答えを先に言い、後で問う、というのがあります。でもこれは考えようによっては恐ろしいものです。どんなことでもあったはずの問いかけが意のままに作り替えられるからです。ただ、いうまでもなく、現実の世界、自然界ではこれはそ自身によって否定されますので、あり得ません。それは自己否定を生じさせるからです。これと同様に、物事の本末転倒もまた、社会において自ずと否定されるのです。それに抗う行為はその人の自己破壊につなが ります。
これは取り立てて述べるほどもなく、いわば自明の理であるわけですが、それを理解しない、いえ、認知することさえ拒み、抑圧的で暴力的な思考と言動と行為に及ぶ者さえいます。現実の問題となれば、それは許されないことです。その理由はいうまでもなく、他者の、特に弱い人に対する著しい抑圧と剥奪、蹂躙と否定につながるからです。ものごとには順序があり、虚偽であったり逆行していたり喪失に至ったりするのはその順序を誤ったからです。また、私たちは何よりも、事実に基づき、理由を知り、思考するのです。その逆を辿るように、あるいは実験的に遡及的な思索を行うのは興味深いですが、それは現実には、また、自然には進行しないのです。暖かな家 ― 2010年01月26日 19時39分30秒
外仕事でまた見つけました。暖かな日射しを受けて犬も喜ぶ晴れの日の家です。写真はうまく表現されているかどうかはわかりませんが、いっぱいに陽光をうけた家の姿はおわかりになると思います。こういう風景は心をも和ませます。午後はそんな日射しに包まれて穏やかに過ごしたいと心から思うのです。暖かな家庭であればもう言うことはありません。
大切なのはその存立を保障し実現ならしめる社会の維持と存続と進歩です。そのひとつの方策として、倫理観念を育てるという活動があります。共に生きるためにそういった倫理を理解し、社会の真の進歩に貢献しうる人々を心ある人たちが育てていただきたいものです。それがまた新たな「暖かな家」を創るのです。互いを心から見つめ合い、尊重し、かけがえのない命を卑しさ、醜さ、幼さから守り育てる、そんな環境こそ何よりも求められます。そこになければならないのは暗黙裡に存在する人類の叡智によって培われた基本的な規範や人の道です。それが空気のように存在する、そんなそれぞれの家を創ることこそ進歩なのだと信じます。全く何もない、でも算盤 ― 2010年01月27日 18時47分09秒
子供たちが空疎な関係において構成された集団に存在するとしたらそれは社会の危機です。互いを理解し合い、尊重し合う、そんな環境を形づくれるように私たちは配慮してあげる必要があります。
何もない山のふもとの集落や村ですが、そろばん塾があったのは驚きでした。いまさら、という気もしないではないですが、そういった子供たちの触れ合う場や環境こそ、変な関係でない正常な接触と会話や対話の生まれるコミュニケーションの大切な形です。健全な心の発達の場として機能していくことを祈りたいものです。確かなこと・守るべきこと ― 2010年01月28日 19時21分25秒
人と人との接触があって初めてそこに関係が生じます。一方的な暴言や暴力、不特定の集団による企図された謀りごと、その強圧的で抑圧的な誘導や排撃はその人間の関係を破壊します。また、始めから創 ることさえままならなくなります。ですから、純粋無垢な人に対する恣意的な言動は許されません。それは軽くない名誉毀損であり、進行すればその人の心身を傷つけます。生涯にわたる傷害を負わせることになるのです。いうまでもなく、脅迫や恫喝、ことばであっても暴力は犯罪です。
心ある人たちが、往々にして弱く、力なく、支えなく追いやられたりして不幸に陥っています。でも、私たちはそんな小さき者たちをまた、どんなことがあっても守らなければなりませんし、力をふるう者たちや道理や人の心を理解しないひとでなしたちを排除しなければなりません。その義務が私たち一人一人にあるのです。何よりも、大切なことなのです。そして、その人たちが(もちろん、私自身も含めて)幸せになるよう、祈り願い求めるだけでなく、存在の確立と実現に向けて歩まなければなりません。非道は絶対に通さない、そんな気概をもって。何のために ― 2010年01月29日 23時43分02秒
同じく、無意味なことばを羅列したり、言い放ったり、と人心を惑わす輩さえいます。でも実質的に何の意味もありません。何一つ、現実に好ましい事象は生じませんし、ものごとがよくなることもありません。ただ荒廃と衰退を助長しているだけなのです。
私たちは何かを伝えようとしていろいろと工夫してきましたが、誰かに確かに伝えられるのはやはり、信頼される行為と常に何があっても変わらない態度や姿勢なのだと信じます。風見鶏やころころ変わる(気象)情報、身勝手な言動などは全く信ずるに値しません。このことをわからない者たちが多すぎます。春の先 ― 2010年01月30日 20時35分01秒
午後、西の町に出かけてきましたが、道は乾いていて、歩いていると春先のような感覚に陥ります。早春と言うにはまだ早いのですが、どこかそんな雰囲気も漂います。この先、どんな気候になり、どのように変わっていくのか、いちばんいいのは全く予想のつかないまっさらの白紙であることでしょう。それを決め、書き込むのは誰でもない、それぞれの人自身だからです。そうでなければなりません。それ以外は、決して認められません。
春になるのですから、公園の看板どおり、暖かな、温もりのある人と人との関係を築いていきたいと思います。それぞれに思いやり、想像力を働かせて互いの立場を鑑みたいものです。もちろん、道理に従い、社会の規範を暗黙の内に理解することが大前提です。わがまま身勝手は通りません。
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