お日様に向かうホオジロ2006年12月01日 20時51分03秒

コンクリートの「畦」に立つホオジロ
きっと、懸けるもの、思うところがあるのでしょう。田んぼのブロックの「畦」に乗って、ホオジロ(雄)は太陽に向かってさえずっていました。写真をよく見るとわかるはずですが、影ができています。淡い光ですが、それをいっぱいに受けて、立っている、立ち向かっている、そんな風に見えて仕方ありませんでした。

もう一羽、同じように向かっていたのですが、ほとんど冬のこの日に、訪れた貴重な光をただ歓迎していた、だけではないはずです。温かさを受けることは難しい季節の、住み着いたホオジロならこその対峙と見るべきです。

ちっちっと鳴く小鳥はいくつもいますが、小さく、細かく、控えめで頻繁なのがホオジロとわかります。他にも、この辺りの留鳥としては、アオジやカシラダカなどがいます。珍しくも何ともありませんが、そのすみかとして、隠れ場所としての多くの繁みを形成する植生の広がりをなおいまでもどんどんと奪っているヒトがいます。その最大勢力は「建設」工事ですが、私たち自身がそういった破壊行為に対峙すべきなのです。

今朝のご来光2006年12月02日 20時57分51秒

ほとんど快晴の日の出の光
きょうは昨日の夕方からの晴天の続きで午前中、よく晴れ上がり、雲は北の低いところにしかないような上天気でした。午後は曇りましたが、めでたく気象情報はうその情報になりました。これは喜ばしいことです。

それで今朝、山の上に出る太陽を拝むことができたのです。少しずつもたげてくる様を見つめているとなんだかうれしくなります。これも天気予報が外れてくれたおかげです。冬の低い空ですから、柔らかで優しい陽射しの出で立ちは気持ちを落ち着かせてくれます。

神々しさ、そんな思いを抱くより、今のこの地での陽の光の美しさはまた、冬の訪れのおかげでもあるところが降る雪を前にしての贈り物のように受け取られます。そんな清らかさとは裏腹の、人々の醜さ、汚さが何にも増して、憎く、耐え難く感じられます。

憂鬱な冬の始まり2006年12月03日 21時09分38秒

気は心、といいますが、文字通りにとって、気を天気、気候とし、心は精神状態、ととります。そうすると、そのまま、今の気持ちや感情、状態を表すことができます。まさに、天気・気候はヒトの心を決めてしまうのです。

今日は日曜なのに、朝から寒く、あられが降り、雨はみぞれとなり、冷たい北風が吹き、暗い一日でした。これからこんな日々が続くのかと思うだけでも陰鬱になります。実際、一日、気分はすぐれず、こたつに入ってばかり。何かをしようというそんな気力もわきません。寒さや冬とはそういうものなのです。

きのうがあればこそ、今日が存在します。でも、その「今」を壊されたら明日がありません。そして、そのきのうさえ、否定されるとしたら、現在の自分はなんでしょうか。消えてしまいます。そういうことを当然のことであるかのように行って平然としている連中が多すぎます。いまの日本の社会とはそういった者たちが先頭に立ったり(先導したり)権力や財力、腕力を持ったりします。本当に、恐ろしい現在です。

なぜ自殺、大阪高裁判事~この社会どうかしてる2006年12月04日 21時06分53秒

大阪高裁判事の竹中省吾氏が「自殺」したという今朝の新聞を読んでなぜ、また、という思いが重くのしかかってきました。誠実な人、とのこと、そういう人ばかりがいつも追いやられ、死にまで至ってしまう、そんな国、日本とはなんなんでしょうか。

良心に従い、人権を何より尊重してきた判例が知られている人です。わけも告げず、「正しい人」がどうして死を突然、選ばなければならないんでしょうか。そういった判断をしてくれる弱い私たちの数少ない味方であったはずの判事がいなくなる、これは現実の恐怖でもあるのです。

岐阜県瑞浪市の女子中学生の自殺もまた、誠実で純粋で良心に従った優しさ故にいじめられ、排斥されてしまった結果です。当たり前の主張や姿勢、横暴さや酷さ、卑劣さに立ち向かうことがよくないこととさえされている今の日本の社会を思うとき、まさに、冬のまっただ中にいることを実感します。

明らかな誤り、間違い、犯罪行為、道理に反し人道にもとる、そんな行為を大勢の前で平然と否定して当然と考える、そんな輩が相も変わらず出てきています。三県の知事だけではありません。過ちや誤りを認め、罪を認識してその償いをする、そんな当然の姿勢が失われています。一般の人々の間でもそうなのです。その中で、中学生をはじめとして、こどもが何を学習するでしょうか。原因を作り続け、振り返ろうともしない、やめようとさえしない、そんな連中が大手を振って立っている、こんな社会、本当に終わりです。

冬の変異、ウシハコベ2006年12月05日 21時39分35秒

ウシハコベの変異
ハコベのたぐいはすでに花期は終わっているのが普通ですが、今も、しかも朝を除いて日陰になる林の下で咲いています。さすがにここ数日の冷たさにやられて少々、元気がありませんが、それでもなお、白いかわいい花を咲かせています。

いくつかをよく見ましたが、「普通」のウシハコベは5本のめしべ、10本のおしべと決まっています。しかしながら、写真のそれは明らかに4本で、おしべも8本でした。がく片は確かに5片あります。落ちた、のではありません。その角度、付き具合、広がり方、などなど、すべては花に関して1つ足りないことを示しています。

よくあること、とすぐに私たちは片付けたがります。でも変異や変動、変化や変調はその徴を見いださなければ見逃してしまいます。すべて変わってから、では遅い、そういうことがしばしば重大な結果にいたるわけです。とりわけ、命のかかった事象、自然の「逆襲」に遭うとき、それが後でしまった、と後悔しても遅いのです。もっと、注意して見つめるべきことがたくさんあります。

冬の晴れ間の二つの姿2006年12月06日 20時56分11秒

淡い光の中のメジロとアキアカネのメス
きょうは昨日の続きか、曇りながらも時折晴れて、その中にうれしそうに出てきたのが写真のメジロとたぶんアキアカネのメス。弱い光で日光浴です。この時期、目にするトンボとはこれくらいでしょうか。

雪が降り始めると、トンボたちはまったく見えなくなります。彼らはどこへゆくのでしょうか。雪の前に気づいて飛び去るのでしょうか。越冬するのでしょうか。産卵を終えてから絶えるのでしょうか。

それにひきかえ、鳥たちは雪の中でも飛び回るところが、同じ(どこが)羽をもった類の違いです。残された木の実をついばみ、草の実をも餌とし、冬を越すのです。こんな季節のおかげで、しかし私たちは彼らの姿をよく見つけられるのです。寒さの中でも谷を渡り生き続ける命を私たちはむやみに、人工的な造作で奪ってはなりません。

破壊の跡2006年12月07日 21時31分33秒

緑と水を踏みつぶした破壊の跡
ここはそれまで、山の斜面から続いた湿り気のある場所で、水がしみでていたところです。以前の記事でも触れたとおり、ちょっとした湿地状になってしまったせいか、イトトンボの仲間が幾種類も飛び交っていて、入れないからこその格好の観察地ともなっていたのでした。

なのに、その水の広がりと溜まりが気に入らないのか、誰の指図かしりませんが、二人のおっさんと小型の重機を運び込んで周辺を含め、整地とコンクリートの三面溝(いわゆる側溝によく使われるやつ)をぶち込んでしまったのです。

自然のままにしておけばよいものを、なんでこうも懲りずに改変し、破壊するのか、理解できません。無理矢理に溝を付けても、水は周囲一帯の滲出により形成されているため、またもとのもくあみとなることは明らかです。計画した者も作業者もそれを命令した者も何も見ず知らず、考えずに行ったことは明らかです。どうして、こうも、彼らは愚かなのでしょうか。なぜ、こんなことばかり、繰り返してお金まで無駄使いするのでしょうか。

フユイチゴ(冬いちご)2006年12月08日 21時55分44秒

フユイチゴは山の中
ほかの土地ではどうなのかは知りませんが、ここではフユイチゴは必ず山の中、山の続きの場所(麓・斜面の)に生えています。今日初めて気がついたのですが、数割(~30%)で赤いイチゴの実がなっていました。

冬のさなかにほとんどが実を付けおいしそうな風景となりますが、いまだこれを集めて、をやってません。なんか、申し訳なくて摘めないのです。放っておくとだんだん色が汚くなってつぶれたようになってしまいますが、さりとて、『森へゆきましょう』にはなかなかならないのです。そのまま、Fraises des bois (森のイチゴ)として眺めて豊かな気持ちになりたい、と思います。

残された姿、そのままの形、いつもある命、そんなありのままの生きる様を見つめていたい、守っていきたい、そんな思いの方がいつも勝ってしまうのです。

思いこみと自己中心性の行方2006年12月09日 22時17分54秒

わざと避ける、あからさまに忌避を示す、そんな態度を意図的に見せるのは正当な理由と事実に基づくなら認められることかも知れません。しかし、まったく接触もなく、しかも後から来てそれを行うとしたら、それは嫌がらせぐらいではなく、今のいじめと共通した人格の否定、人権の侵害(蹂躙)になります。

もっと問題なのは、それをまったく理由もなく、原因さえありもしないのに、正当化を進めて声高に、あるいはこそこそと言い切って当然のような顔をすることです。その起源は、それを行うその人(たち)の心の醜さ、汚さ、幼さ、卑しさでしょう。それらを自分(たち)の内省のもととするのではなく、他者や見ず知らずの無垢な弱い人にむけるところにそのおぞましい特徴があります。

実際、そんなことで被害に遭う人たちがいます。でも圧倒的な力を持ち、押しの強さと数を加えることで突き通すそういった加害者たちには何の意識もありませんから、ことは本当に、悲劇になります。自殺や生活苦、障害に苦しんでも現実には誰も救ってはくれません。それが、今の日本の社会にひろがりつつあるのです。

捨てられた巣2006年12月10日 21時25分20秒

イチョウの木の上の巣
イチョウの木が落葉して、残された幹と枝の中に忽然と現れたのは鳥の巣でした。カラスか、他の鳥か、よくわかりません。ただ、すでに役目を終えて廃棄されたのは確かです。こういった巣があちこちで散見されます。冬なればこその光景です。

作るときは必死になって運び、命がけで守り、それでも後は捨て去られてしまう、そんな鳥の巣はどこか、そこかしこの「建設工事」の結果やそこらじゅうの側溝を含めたその場しのぎの造作と似ています。結局、後のことは空任せで放って置かれます。誰も、面倒はみません。

いつも、そのときの「必要」により作られても、どれほどお金と労力をつぎ込んでも、役に立たなければ、役割をそれで終えれば、あとはまったくの無駄と景観や環境そのものを汚し、それだけにとどまらず、後々までその悪影響を及ぼし続けます。この意味で、鳥の巣とは違って、厄介で困った汚染物質の塊と化してしまうのです。