緑陰の輝き ― 2006年05月02日 19時06分10秒
きのうは一足飛びに夏になったような気候でしたが、花々はそれほど動じた様子はなかったようです。林の中、森の中の白い花はその生を変えていません。4月は半ばからすでにツルカノコソウはあちこちに「枝」を走らせ、その白さは際だっていましたが、5月1日(この日に見つけた、というだけ)、タニギキョウの群落をその木漏れ日に見いだしたのです。そして、きょうはそれに先立つところにまた細かな白さでヤブニンジンがせり出していました。
薄暗さにぼうっとさえ映るその白い光は闇を照らす光明のようです。圧倒的な背丈の木々の中、控えめながらしっかりと存在を知らしめているのはその 命そのものでしょう。威圧的で強圧的でさえあるこの現在の状況の中にも、たとえば、私一人でさえ、生きています。決して、他者の悪口雑言、罵詈雑言に押しつぶされることなく、その命は優るとも劣りません。誰かが、たとえば集団の力でもって、あるいは、その強大さや一方性で一番弱い人を迫害し、その人権を否定する、そんな異常な行為を認容してはなりません。誰かの意志が別の人の存在を否定する、そんな社会であってはなりません。
自民党政府やそれを支えている霞ヶ関の連中の、あるいは、経済的支配の中心にいる連中など、すべて自己中心性の極みでしょう。小さな生に目もくれず、ただただ利潤追求とその継続的な社会とその構成の維持にばかり目を向ける、そんな盲目的な愚かさにどうして、民衆は気づかなかったのでしょうか。なぜ、『依らしむべし、知らしむべからず』そのままに、したがい続けてきているのでしょうか。どうして、徳川幕府を終焉に追い込んだその時に、それを捨て、追いやれなかったのでしょうか。コメント
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