崩れたところの本性: こどもの犠牲の連鎖に思う2006年05月22日 22時15分39秒

佐賀県での轢き逃げ遺棄未遂事件をみても、やりきれなさ以上に、どうしていとも簡単に、ただ逃れんが為だけに人を、しかもこどもを捨てて放置できたのか、その犯人の内面を知ろうとするとき計り知れない疑問がわき起こります。求めるべきは、その答えの一つではなく、そういう行為行動に一直線に動いてしまうその利己的な意思の、せめて、抑制でしょう。なぜ、どうして、どうやればそんなことができたのか、その冷たさを超えた自己中心性に空恐ろしさを感じます。そして、それを引き起こしたのは同じ人間であり、今の社会の一断面の表象でもあるのです。

無生物的なアスファルト道路や環境の増加、生き物に対する無感覚さ、実感の希薄さ、そういったたぐいの、どこか悲しい色の風景ばかりが見た目だけでなく、人々の間にも広がっているのでは、と思うのです。一見したところ、いまは緑濃き季節になり、いつもと変わらぬ風景は変わらずおとずれ、現れてきていますが、あれた土地に多く生える種類の草本が野放図にかたまってはびこってきています。外来種もまたその勢いはとまりません。そんな、どこかたがが外れたような増殖繁茂が目立つのです。

すべてに、バランスが崩れてきています。その象徴と際だった、顕著な現出が今まさに、私たちの眼前に強く警告として出現してきているように思うのは決して、考えすぎではありません。確かに、「昔は」こうではなかったのです。