私たちの責任 ― 2006年05月01日 21時32分00秒
このやりとりは、端的に役所、つまり官吏の実態を表しています。秘密裏にうまくやってきた不正(支出と工作)はそのまま、特に同和対策ということでそっと、かつ、荒立ててごねられたりされんようにとの方途はほじくられてはいけないというのです。これはそういった例外的な関係の形成と維持に見られます。とりわけ、同和、といったことではさわらぬよう、変につつかぬようとの「配慮」が当然視されがちです。でも、これに限らず、法や道理にかなわぬことを通すことがあたかも大人の世界であり、それで世の中、「うまく回る」といった考え違いを通用させているところに未だ、ほんとうに成熟も進歩もしない社会の姿があるのです。これを維持継続させている一方の側に役人の存在があります。表面的には遵法であり、とがめ立てや弾劾がもっともなされにくい位置にある、という、おかしな常識がまかりとおっているのですから、情けなくなります。
行政執行者にはその行為と言動に対する説明責任があります。民衆の税金ですべて自らの給与を含めてまかない、その予算計画から実際の細々とした支出まで、すべて彼らの仕事なのですから、当然のことです。でも、上記の不正支出問題でさえ、わからないようにやり、証拠を残さずにごまかし、隠蔽し、なしですまそうとするのです。それこそ、選挙で選ばれない執行者たる役人が何の監視も監査も公開も受けずにし放題など、なぜ許されてきたのでしょうか。早く、この仕組みをつまびらかにして、その仕組みを根本的に変えなければなりません。 いつまでもそのままでは、同じことがまた形を変えて繰り返されるだけですから。緑陰の輝き ― 2006年05月02日 19時06分10秒
薄暗さにぼうっとさえ映るその白い光は闇を照らす光明のようです。圧倒的な背丈の木々の中、控えめながらしっかりと存在を知らしめているのはその 命そのものでしょう。威圧的で強圧的でさえあるこの現在の状況の中にも、たとえば、私一人でさえ、生きています。決して、他者の悪口雑言、罵詈雑言に押しつぶされることなく、その命は優るとも劣りません。誰かが、たとえば集団の力でもって、あるいは、その強大さや一方性で一番弱い人を迫害し、その人権を否定する、そんな異常な行為を認容してはなりません。誰かの意志が別の人の存在を否定する、そんな社会であってはなりません。
自民党政府やそれを支えている霞ヶ関の連中の、あるいは、経済的支配の中心にいる連中など、すべて自己中心性の極みでしょう。小さな生に目もくれず、ただただ利潤追求とその継続的な社会とその構成の維持にばかり目を向ける、そんな盲目的な愚かさにどうして、民衆は気づかなかったのでしょうか。なぜ、『依らしむべし、知らしむべからず』そのままに、したがい続けてきているのでしょうか。どうして、徳川幕府を終焉に追い込んだその時に、それを捨て、追いやれなかったのでしょうか。憲法記念日 ― 2006年05月03日 19時10分48秒
最近の朝日新聞や朝日放送の腰の引けた姿勢はその心配を増幅させます。ほかの報道機関にはそうでないところもあって、何とか歯止めをしてほしいと願うばかりですが、国民投票法案の与党案の71条の意図が丸見えの状況でさえ、常日頃の報道機関、マスメディアの追従的というか、弱腰で迎合的な姿勢が気がかりなのです。もっと、はっきりと対峙して対決の論陣と個々の記事や報道の批判性を前面に押し出していかないと、ほんとうに、報道機関自身の心配のとおりになってしまいかねません。
でも、何よりも、私たち自身が主権者であり、それが明記された日本国憲法が人権の尊重と共に上からの押しつけに対抗できなくなるような改悪を私たち自身が許してはなりません。だからこそ、最終的な決定権を持つはずの私たちが、事実と意図をはっきりと知り、その得た確かな、それこそ、上からの押しつけでない正しい偏向のない、バイアスのかかっていない情報によって判断していかねばなりません。だからこそ、マスメディアの反権力と批判的な態度こそ、何よりも求められるのです。新緑の中の渋滞 ― 2006年05月04日 17時17分03秒
現実の問題として、この渋滞を解消させるには、そう、根本的になくすには、なにより、車両の絶対数あるいは、総数を減らすことがまず、第一です。それから、内燃機関による自動車の廃絶を目指すこと、そして、こういった車両交通の仕組みや構造的な輸送形態を変えることです。減らすこと、なくすこと、そして変えること、この三段飛びの思考に早くためらいなく、入らなければ何も解決せず、いたずらに環境破壊と私たちの生活や精神すら破壊することにつながるでしょう。かつての徒歩と公共輸送機関華やかなりし頃の方法に再び目を向けるのもよし、新たな方策を探るのもよし、です。
滞ったから、詰まったから、溢れたから、だから間口を広げる、枝を増やす、その論理でどんどん拡張させ続けた短い歴史の誤りに気づいた私たちがその進歩を願うなら、そう変えるべきです。できるかできないか、ではなく、するかしないか、の選択です。正しい選択は、する、ことです。破滅的な状況になってからでは遅すぎるからです。フジは出にけり ― 2006年05月05日 21時45分48秒
人工庭園を大切にしたり、その造形や造園に感心するのはどこかおかしく、受け入れがたいものを感じます。園芸作物や園芸品種、人工栽培の花々をそれこそ一面に咲かせて「公園」化して客を集める、その客達が『きれい』だとうそみたいに異口同音に話したりするのはどこか不自然で解せません。私たち日本人はもともと、そんな光景に親しむようには私たち自身の環境を形作ってはきませんでした。周囲を整えながら、適宜利用しながらもその自然の住まいを残してきたように思います。
人工環境の急速な拡大と悪化でさえ慣れ親しんで、奇妙な感想を抱くことこそ、私たち自身に課された問題を提起して振り返ることを求めているのだと信じたいのです。これから、今から、そう考えて進むべきなのではないのでしょうか。遅延と消失 ― 2006年05月06日 18時53分39秒
芽吹きや色づきも少し遅い、と以前述べたのですが、そのせいか、動く生き物たちもまた、その出現をひかえているような、ためらっているような、と、当初は思ったのですが、そうではなく、明らかに、減っているのです。いつもなら、もっといるはずの彼らが、いないのです。
時機を逸する、とは人間社会の言い回しですが、一度遅れて、あるいは、逃してしまうと、その出現はもうないのかも、と考えてしまいます。そんな、気候や人工環境の昂進を感じます。なにもかもがよくない方向に偏りつつあり、豊かさや穏やかさを奪って行きつつあるように思えて仕方がないのです。 考えすぎでなければよいのですが。気象情報の偽り ― 2006年05月07日 17時26分55秒
今日なども、夜間におしなべて軽い雨、となり、朝から10時頃まで、思い出したようにさっとふり、すぐにやんでいて、降雨時間は30分もなかったでしょう。それ以後は明るい曇り空で雲が切れたり動いたり、で一日中、穏やかな空でした。降水量も注意されたのとは全く異なり、昨日夜10時からの積算で14mm、今朝6時からの積算では3.5mmに過ぎませんでした。止んだときまでみれば、確かに降水自体はあった、つまり、100%と言えますが、朝のうちまでで、これなんかも先日以来、昨日夜でさえ、7日は一日中雨、の予報で確率も80~90%だったのですからあほらしくなります。地域予報でさえ、局地予報をしているのではない、と強弁されそうですが、それではまさに、現実問題として、よりどころには決してならない事実です。
確率予報ははっきりいって、「逃げ」の姿勢です。言い逃れそのままに数字でごまかされたようです。100%でなければ、降らなかったときも言い訳になるんですから、ご立派です。でも、数値にたより、観測に加えて、ありのままの状態を観察しないで決められた予報にどれほどの意味があるのか、はなはだ疑問に感じます。実感、実際とは全く異なるからです。ちょうど、景気回復感を感じない、というのとどこかにています。天候は空からもたらされるもの、だから、御上が与えるものだ、とうそぶかれているようで、信頼などおけないし、信用するまでもないのです。霧の中 ― 2006年05月08日 19時29分36秒
1000三-1510三
視程 1340 NW 0.5km, SE 0.7km, W 0.8km
強度 1
1540,- (本当はもっと大きいコンマが真ん中)
視程 1630 N 0.8km, W 0.9km
強度 1
今日も「気象情報」によれば、少なくとも午後は晴れ、だったのですが、実際は霧の中、深く広く覆われ、じめっとした、それでいて道路はからからで前後してまた深く広く霧雨に覆われたのでした。
本当のところ、どれほどの役にたつのでしょうか、「気象情報」は。必要なのは、どうなるか、の推量ではなく、何がわかっているのか、その確かで広範な本当の「情報」ではないのでしょうか。事実を知ること、知らしめることこそ、基本です。もう、江戸時代でも、戦前でも、戦後でもないのです。私たちはもっと、御上を疑っていかなければなりません。濃霧、つづいて暑さ ― 2006年05月09日 19時45分09秒
0500三-0820三
視程 NW 0.3km, NE 0.3km, SE 0.3km
強度 1
この後の暑さはやはり、この時期としては異様な感じがしました。南風が吹き、気温は霧が晴れてから次第に上昇、昼過ぎには24℃に達しました。確かに晴れたのですが、心は晴れません。どこか、まやかしにあったようで、こういった日々がつづくのはいかにも、というところです。知りたいことは知らされず、ただ一方的に上意下達的にあっても説明のみ、では困ります。やり方を変えねばなりません。
グミの恵み ― 2006年05月10日 19時32分34秒
マルバグミは海岸近くに多く生え、秋の強い香りというより、臭いでわかるウラシロのからからの葉の絡まる低木です。寒く北風の吹きすさぶ、こちらでは雪にさえ覆われるところでじっと耐え、実を結ぶその恵みは貴重です。やっとの思いで辿り着いて、その実りをしっかりつかんだときはうれしいものですが、それを横取りするような輩もいるのが人間社会ですから、悲しいかぎりです。
風は止まず、昼過ぎから雨も混じってきて、好ましからざる季節に入りかけているのでしょうか。最近とりわけ、南風の強さが際だっています。降れば土砂降り、吹けば台風並み、どこか変です。
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