早く降り出した雨2006年10月01日 20時59分36秒

けさはいつもの通り、歩いて散策をすることができましたが、あさから曇り空で、山の上の太陽が隠れがちでした。やはり、気象情報に反し(それみたことか)、10時前からぽつりぽつり、昼にははっきりとした降雨となったのです。

たまにはいいのですが、外に出られないのは気分的にも精神的にも不健康の主因です。でも、天気予報がはずれたので万々歳ですが。実際、意図的とも思える気象予測の押しつけはいかんともしがたい無理を感じさせられます。

どこか、信じられない、信じたくない、そんな気持ちにさせる「情報」はちゃんと作られているのです。同じように、人々に対する、国民に対する政府発表はもとより、報道もまた、作られています。受けるのみの私たちが、はっきりと事実と喧伝を区別し、浴びせかけられる「情報」に対して峻別と対峙の姿勢でもって向かい合う、そんな本当の厳しさが求められています。

子供の自殺の悲劇再び-北海道滝川市-2006年10月02日 21時05分16秒

また痛ましい少女の自殺が報じられていました。今日の夕方のニュースでの滝川市教育委員会へのインタビューを見ていて腹が立ちました。薄笑いさえ浮かべて、『いじめの事実は確認できていない』だとか、遺書を『手紙をよんでもいじめのことばはなかったので』などと繰り返すのです。元々教育者であるはずの教育委員会の人とは信じられない言い方、態度です。

報道とその内容(遺書を含めて)から明らかな陰湿で卑劣ないじめを知るとき、どうして、もっと早く誰よりも、親や近親者らが気づいて手を打てなかったのか残念でなりません。自殺は唯一、防げる死なのです。心ある人たちが近くにいて、その追い詰められた心に気づいてやれたら、彼女は死なずにすんだのです。対応できたはずの、相談を受けた(訴えを受けた)教師はあまりに幼い、甘い認識でした。

今回のいじめもまた、周囲の密やかな遠巻きと冷淡さの広がり、無視と排斥、卑劣なこそこそとした攻撃(口撃を含む)など、典型的な顕在化を呈していたのです。こういった環境の変化(悪化)は大人の世界でもまた、悲しいことに多く見られます。どちらの不幸も、周囲の忌避と排除、相談者のいない環境によって急速に悪化、最悪の結果に至ります。

日本の社会自体が変わらなければ、つまり、私たち自身が変えていかなければこういった悲劇はなくなるどころか、増える一方でしょう。この国は、この社会は、人間を不幸にする社会なのです。

持てる側いつも強い、でも醜いセイタカアワダチソウ2006年10月03日 21時15分40秒

醜悪なセイタカアワダチソウ
ロシアに拿捕されて抑留されていた北海道根室の第31吉進丸の坂下登船長がようやく戻ってきました。会見の抜粋をみましたが、やはり、ロシア側は一方的に一切警告なしに銃撃したようです。霧も出ていた由、そんな中での発砲はあまりに理不尽です。もっと許せないのは(盛田さん殺害は言語道断として)一方的に決めつけ、事実なしに嘘で固めてロシア側での専断的な取り調べと起訴を行ったことです。

集団の側につくとその力は圧倒的です。北海道滝川の少女の場合も同じですし、私たちの身近でもまた、圧迫的な攻撃と言動での抑圧と排斥もまた同じです。陰口を言いふらしたり、わざと何人も寄ったり、離れてそこかしこから言いつけたり、といった陰湿で卑劣な行為はその加害者側の圧倒的な優位がその力を強めるばかりか、正当化さえします。後で第三者が尋ねても、皆そうされる側になりたくないが故に、そんなことは言っていない、何もない、で済んでしまいます。聞いた人はそうなのか、と信じ込みます。

企業と労働者でもまた、圧倒的な差と違い故に声さえ奪われ、口を塞がれます。すべてを握る企業側、会社側の強さはその経済力故に、法律の専門家まで引き込んで加害行為・違法行為を正当化させます。

北朝鮮もまた、人質をとってきたがゆえに、圧倒的な有利さでことを進めてきました。本来、誘拐(拉致)犯である彼らを日本に引っ張ってこなければなりませんが、逆にわざわざ日本の首相が出向かなければなりませんでした。ロシアもまた、銃で従わせて連れて行ったが故に、思い通りの調書を書かせ、裁判をすることができたのです。

すべてこういった調子です。持てる側、人質を取った側が圧倒的に優位に立ちます。そして、こういったやり方はどんどん、至る所に飛び火するかのようにはびこり、根を生やし、育ちます。まるで、10月に盛りとなる、セイタカアワダチソウのようです。でも彼らはその醜さ、汚さに自らは気づいていません。鑑みることはまずなく、ただただ、自らの利益と支配欲の追求と醜さや幼さ、愚かさを正当化し隠すために推し進めるのです。何という世界でしょうか。

対極にて、ヒヨドリバナ2006年10月04日 21時07分24秒

静かな主張、ヒヨドリバナ
醜悪でおぞましいセイタカアワダチソウとは違って、秋の七草、フジバカマとよく似た白い花を咲かせる野の花、ヒヨドリバナがきのうのそれの反対側に道を挟んで咲いています。先月来ずっとですが、少しずつその頭花を開かせているところもまたちょっと奥ゆかしく思えて好感が持てます。

ぽつんと立っていた個体ですが、いささかも揺るぐことなくその生を静かに主張しているのも際だってていていとよろし、です。すぐに集団化して毒のような花粉をまき散らしていくセイタカアワダチソウとはその点、異なっています。彼らの侵攻に負けずに残っていてほしいものです。

現実の醜さ、汚さ、こすさ、押しの強さなどなど、その醜態を良しとする輩のやたら増える世にあって、平凡でもその清潔な姿形を自ら守りながら生きている、生きていくその姿勢こそ、私たち庶民が持ち続けるべき態度です。なんでもない正しさ、論理、道徳、そういったものを恥じることなく、臆することなく表していく、そんな日常を広めたいものです。

いじめ自殺なお悲劇-北海道滝川市-2006年10月05日 21時02分28秒

滝川市教委はようやく少女の「手紙」を「遺書」と認め、その原因をいじめ、と ”会議で判断” しました。でもこれも全国からの抗議の電話やメールによる批判を受けてのもので、1年も前の覚悟(絶望)の自殺(死は翌年(今年)1月)を今頃 ”判断” していても遅いのです。取り返しのつかなくなる前に、どうして救えなかったのか、こんな教委や教師しかいなかった環境はあまりに少女にとって不幸この上なかったのです。やりきれません。

救いがたいのはしかし、彼ら以上に、彼女を死に追いやった周囲の冷淡さと恐ろしさです。陰湿で卑劣な攻撃を執拗に繰り返したまわりの子供たちや訴えを聞きながら何も手を打たず放置した無知無能な教師を思うとき、弱い人たちだけでなく、陰で酷い目に遭わされている人たちをどう救えるのか、と悩まざるをえません。

子供が死を考えるまでに思い詰める環境をいつまでたってもなくさないでいる私たち、繰り返される悲劇に結局いつも事後の「反省」や「説明」(加害者に対しても、です!!)、口先だけの「防止策」の宣言のみですましている関係者の意識のあまりの低さ、そういった社会の不熟さはその原因の追及と解決なくしてはなくせないのです。そのままに子供の世界が寒々とした空恐ろしい状況を作り出させて広範化、持続化している現実こそ、真剣に顧みて変えるときなのです。子供らにも罪の重さを思い知らしめる必要があります。彼女の恨みを晴らすためにもいますぐに。

いじめを知らない幸福-北海道滝川市-2006年10月06日 21時15分10秒

秋のアカタテハ
教育委員会の千葉潤指導室長、江部乙小学校の河江邦利校長。この二人の態度、姿勢は本当に信じがたいものです。PTA関係者や各校長を集めた説明後もまだ、この校長は、自殺の要因はいくつもあり、いじめが原因とは言えない、と繰り返したのです。教室で首を吊る、という行為に至る少女の苦しみや覚悟を少しでも想像できないのでしょうか。

何も残されなければ、校長の言うように自殺の原因の特定は困難です。さらに、そこまでに至った心の中は家族も含め、推し量ることは不可能です。でも、この事件は明白な自筆の何枚もの「遺書」を残し、教室で死を選んだという事実を見れば、どれほどの思いだったか、少しでも考えたらとても校長のような発言、感じ方にはならないはずです。特に、この校長はあまりに意識がなさ過ぎます。少女は浮かばれません。

この二人に少女の思いは伝わらないでしょう。いじめそのものを全く認識できないのです。彼ら自身の生活は幸福に満ちたものでしょう。何の痛みをも感じられない、そんな表情しか見えません。両親が不信感を抱いたのは当然ですが、上っ面だけ見て、表面的な「解決」をしたつもりでいた担任の感覚は非難されるべきものです。彼女は死なずにすんだはずです。死に至る必然を明らかにした少女の命をかけた訴えはこの二人はもちろん、周囲の大人や加担した多くの同級生には届かなかったのです。

今朝のNHKニュースで弁護士が述べていたように、こんな連中と何も知ろうとしない中でいくら防止策とか原因分析をしようとしても無意味です。大人たちのあまりの「洞察力のなさ」(その弁護士のことば)では何一つ、なしえないでしょう。彼女の恨みは消えることはありません。

低気圧が運んできた虹2006年10月07日 21時00分14秒

秋の朝に立つ虹
今朝、海岸の北西から北北西の方向に虹が10分ほど見えていました。湾内はかなり水蒸気を含んでいたようで、半島の景色は雲やなんかに覆われてみえませんでした。夏よりも少しだけ、濃いめで立っていて、これからの季節そのもののようです。

その後は強風吹き荒れ、時雨も速く、冬のような雰囲気です。この天候をもたらしたのは急に発達してきた低気圧ですが、その発達に至る引き金はゆっくりとやってきた台風に引かれたのです。乗り移ったかのようなその巻き貝は大きな渦となって成長しています。

いっときの美しさと輝きの朝の虹はすぐに消えて灰色の雲に取って代わられたのです。でも、この気象状態はそのままの現象論的な説明だけで済まされるものではないと思うのです。警鐘のような虹の立つ朝、大渦の向こうにある何物かを見いださなければこれからの気候の全体としては遅いかもしれない、それでいて急変をしばしば伴う変動を正確に捉えることは難しいでしょう。

午後から回復2006年10月08日 20時50分38秒

冬型の気圧配置になった秋のこの日、しぐれは昼には収まり、ようやく晴れ間も増えてきて光りが包むように満ちてきました。実際、暖かさのうれしいような気候となりつつあり、北風の強さに立ち向かう頃なのです。

まだ冷たさは白波のうねりを超えてはこないので歩いていても心地よさ(ちょうど身体もすこし温かくなる)を感じられるところです。風で光が揺れるように木々が揺すられてあちこちに陰を落とすのもまだその濃い緑のおかげなのです。

穏やかな休日がそのままにこころを落ち着かせるようにしずかな一日でした(一部例外を除いて)。刈られたばかりの田の稲藁のにおいが乾いた空気を運んできた、そんな午後でした。

美しさを感じる秋の日2006年10月09日 21時00分14秒

秋の陽に輝くススキ
山の先の麓ではススキが満開で数種類のそれらが緩やかな北風に揺れていました。午後の明るい日差しに輝くさまは紅葉のそれとも決して劣らずきれいです。低山からの一帯は彩りはまだ先ですがそれを補ってあまりある美しさです。

よく歩いてやっとしっとりと汗ばむ程度の陽気で、歩行にはもってこいの午後でした。緑もいつも以上にきらめいていて、さわやかな揺らぎとともに気持ちのよい空気を運んでくれているようです。きょうはそこかしこになぜか、カマキリが出没していて、寄ってみてじっと見つめると彼らもまた、三角の頭を向けてじっと見上げるのです。ひるみそうになります。

北の地の愚かさとはまるで正反対の列島の秋は真っ盛りとなりつつあります。どこかの大学教授がいってましたが、かの国はかつての日本のように、突き進むことだけを植え付けているようです。でも昔の日本と違うのは、今度は原子爆弾を抱え、いざとなればそれを打ち込むことが可能なことです。破滅的な行為に出る前に、なんとかして止めなければなりません。

飛んできたテントウムシ2006年10月10日 20時37分55秒

潜り込みたがっているナナホシテントウ
きょうは少し暑くなりましたが、それでももう、秋です。稲刈りもほぼ終わり、澄んだ秋空に覆われる季節です。でも、どうしたことか、ナナホシテントウがやってきたのです。

テントウムシは春から夏にかけてはよくみられますが、今の季節に現れるのは珍しいのです。この陽気のせいでしょうか、南風に運ばれてきたのでしょうか。さんざん、せわしなく動いて土のくぼみにはまったり、小さな草にのぼったり、ひっくり返ったりと忙しそうにしていましたが、最後には羽をぶ~んといわせて飛び去りました。

まだそれでも、アキアカネは平地では見られず、眼まで真っ赤なナツアカネばかりです。これも、この年の意外な暑さを物語っています。もう温暖化の傾向は誰もが身にしみてわかってきている今日この頃ですが、この加速度的な進行はやはり、ゆるめるべく、言い尽くされてはいますが、一人ひとりのできることから始めなければ、戻すことができなくなります。