命より大事な「認識」-岐阜県瑞浪市のいじめ自殺-2006年10月31日 21時05分22秒

いじめによって殺された中学生の女の子にとって、だれかがその死を関係づける何かなどはどうでもいいことだったはずです。今日佐々木喜三夫校長は渋々自殺の主因としていじめをあげたのですが、これ以前に担任などはいじめさえ、あったとは思わない、と平然と言っていたのです。彼らにとって、彼女の命や死自体に思い至る心はありません。その意思こそが重要で、彼らの何の意味もない「判断」や「認識」こそがすべてであったかのようです。

一方で、4人組のすべての両親たちが遺族に謝罪したことはわずかな救いではあったのですが、肝心の当事者・加害者の4人はどうしたのでしょうか。たとえ遺族に会っても、遺影の前に座っても、彼女らから心からの後悔や謝罪のことば、そして贖罪のための意志は聞かれなかったかもしれません。福岡の中学生の自殺でも、加害者たちは顔をのぞいて笑っていたというのですから、そういった行為を当然のことのようにし続けてきた者たちには両親の姿勢すら理解はできないでしょう。

苦しみ続けた少女の心は確実に病んできていたはずです。必死の訴えやすがりたい気持ちをとりわけ実効のある手段をとれたはずの担任や他の教師たちがはねつけ、あろうことか、遺書を残し、死でもって最後の訴えを行った彼女をないがしろにするかのような、『いじめはなかったと思う』という信じられない発言で断ち切ったその非人間性は加害者同様、もっともっと責められるべきなのです。彼らが教師である、そのこと自体、許せません。

救えたはずの命を他においといて、原因がどうだったか、とか、それらが存在したか、とかいう逡巡や説明をまだ最大の問題であるかのように扱う大人たち(の存在)にどれほどの意味があるのでしょうか。なにより考え、思い至るべきは二度と戻らない少女の存在であるはずです。