信じられる日本のために2006年09月01日 21時12分18秒

きのう付で長野県の田中康夫知事が退任しましたが、その退任挨拶を今朝見てかなり感動しました。ことばの上手な方ではあるわけですが、その姿勢や意気込み、打ち上げた施策などは充分、受容できたのです。選挙でも半々に近く、長野県民の意志も割れたといえるでしょう。

やはり、キャッチフレーズの、『信じられる日本』はいつ聞いてもいい響きです。社会全体に広がる荒廃感や殺伐とした雰囲気、互いを信じ合えない環境、そういった社会の退化といえる現在を鑑みるとき、田中氏の意思と行動はパフォーマンスではなく価値ある積極的な姿勢の現れだったはずです。

フランスの与党の保守連合の現政権のキャッチフレーズは、<< Pour une croissance social >> (社会の進歩・発展のために)ですが、こういったことばを大切にする姿勢が現政権にも、今度の安倍氏にも欠けています。何度も述べていますが、進歩・発展とは誤りを知り、それを繰り返さず、よくしていくことです。道路をつくったり、自動車を増やしたり、建造物をこさえたりすることではありません。ましてや、過去の過ち・誤りを正当化・美化しさえしかねない危険性を孕んだ今の自民党の大勢はフランスの保守にさえ遠く及びません。

愚かさや幼さ、醜さをまるで当然のことのように前面に押し出し、利益を上げること、力を奮うこと、他者をけ落とすこと、などなど、そういった行き方をよしとして賞賛し勧める状況は社会の進歩・発展とは逆なのです。見かけがいくら、たとえ近未来的な光景に変わったとしても、それは退化であり、退廃です。

田中氏がまた、どこかで、違った形であれ、活躍されて社会の真の変革に向かって能力を発揮されることを願ってやみません。人を信じられる社会であってほしい、と願わずにはいられません。

ヤブガラシに群れる蝶たち2006年09月02日 21時17分12秒

ヤブガラシに吸い付くアゲハチョウ
いつも通る道端にヤブガラシがやたら生えている場所があります。日当たりもよく、ヤブガラシは我が物顔で勢力を伸張していますが、ここにはまた、その精力絶倫のヤブガラシを求めてチョウがやってきます。

今日、通りかかっただけでも、アゲハは5頭、モンキアゲハが2頭、他にアオスジアゲハなど、一斉にとまっては吸い、吸ってははなれてまたとまる、といった具合で群がっていました。でも、このヤブガラシのオレンジ色の花は直径 3mm 程度と小さく、どれほど蜜を蓄えているのか、いささか疑問です。それでも、専門家であるチョウたちが好きこのんで何十分、いえ、もしかすると数時間かもしれないほど長く留まるのはかなりの理由があるのでしょう。

生物の世界、環境中ではどうしてこんなに、といった事例が意外と多くあります。そこをよく観察し、つきつめればまた、現在の人間環境の障害や行き詰まりを打開する糸口も見いだせるかもしれません。

ヤブツルアズキ開花2006年09月03日 21時07分28秒

ヤブツルアズキの花と三葉
黄色い花、めだつのですが、ついこの間まで、マメコガネに食糧として葉を提供してきたところ、今日開花です。どこか、ひねくれた時計回り(右回り)の花ですが、どっこい、これが私たちが好んで栽培し食している小豆の元、といわれているのです。

他の草にまとわりついて上へ上へとのばしていました。出たところで実を付けているのです。道ばたでいっぱいに広がってあたりを占拠するあたり、旺盛な精力を感じます。蔓性の植物は概して、生命力が強いようです。他者を利用しているというより、明らかに凌いで吸い取っている、という光景が目につくからです。

生きる形として、虫たちを利用し、その特異な花で振りかけて受粉させ、範囲を拡大する、それは実際、活動的な営みです。善し悪しや共感できるかどうかはさておいて、その実行力を見習うべき、とは一つの教えだと納得させてくれます。

ミンミンゼミの夏2006年09月04日 20時21分13秒

ミンミンゼミの親分
まだまだ彼らの夏は終わりません。そして、きょうからまた、暑さがぶり返したようです。でもこの暑さは置きみやげ、といった風ではないようです。アメリカから来たハリケーンのなれの果てが台風になって接近し、熱を運んできた、というのですから、尋常ではないのです。

誰しも(私だけか!?)、なぜこう暑い時を選んで蝉たちは「鳴く」のでしょう。 なぜ、5年も6年も地中で過ごしていて、夏の暑さをわざわざ選んだりするのでしょうか。カナカナと朝夕に過ごすヒグラシも山に入れば真っ昼間に一斉に「声」をあげています。どうして、この季節でないとだめなのでしょうか。

ミンミンゼミは涼しくなると同時に静かになりますが、暑くなり出すとそれとばかりに力を込めてミイーン、ミイーンと騒ぎ出します。彼らの声こそ、夏を、暑さをもたらす何か、を私たちに伝えようとしているようにも思えます。それが恐ろしい警告だったとしても。

氏素性より育ちがむくつけきオトコエシ2006年09月05日 20時50分07秒

山の中のオトコエシ
山の端や林のそば、道ばたなどでみかけるこの白い花をいっぱいに咲かせるオトコエシは、この間のオミナエシと比べると格段に品が下がります。たおやかで温和しげな立ち方のオミナエシと違い、ぶっとい茎で立ち上がってどっさりと冠のように花を付けた姿は確かに、むくつけき風体です。

同じような花、葉をしながらもこうも印象が異なるとやはり、世の中、男と女の歴然として相容れない違いと生があるのか、と唸ってしまいます。でもそれもまた、その環境がそうさせるのかもしれません。ヒトと同じく、その育ち方に決定的な差異を生じさせているのかもしれません。

動きようのない植物とは違って、動物であるヒトはその人間の相互の影響がまた大きな成長要因ともなります。そして、その社会的な存在こそ、ヒトを人間たらしめているのですから、近年の子供、若者の育ち方こそ、もっと顧みるべきところです。

やはり皇室典範は変えるべきとき2006年09月06日 21時19分05秒

秋篠宮家に第三子誕生でも、その子が男の子では、世の趨勢に逆らうようですが、ある意味「残念」です。やはり、決定的に女の子であってほしかったと思うのです。でも。

もし、これからも皇室典範の改正を議論し勧めるなら、そして、今時まだ男子にこだわるおかしさを改めるなら、今日の誕生も素直に喜べばいいと考えるわけです。いうまでもなく、また、ふつうの大人ならば誰もが知っているように、歴史上、女性の天皇は少なくとも8人いたわけですし、万世一系などとはいえないこともまた、明らかです。ましてや、男系の子孫を永劫、認めることは現実的にも不可能でしょう。

社会的な環境はすでに男女の区別は境目さえはっきりしないままに解消しつつあるのです。意図的なン年も経ってからの出産と恣意的な男子万歳の合唱はどこか変です。むしろ、出生率の低下にこそ眼を向けるべきで、いまさら、男子かどうか、で議論すること自体、ずれています。子供を増やすことを考えるとき、象徴としての天皇は女性であった方が好ましく感じられるはずです。

徳山工業高専の殺人は必然か2006年09月07日 20時36分46秒

ついこの間までいっしょに研究をしていた同じ部屋の中で、しかも相手は女子学生だったのに、殺さなければならないほどに進んでしまった、そんな心情はどこにあったのでしょうか。今日、自殺体として発見された、表面的には加害者の男子学生は、すぐ死を選んだことから鑑みて、昨今の若者の殺人とは異なると思われるわけです。

理由ある、と述べると語弊がありますが、確かな扼殺への道筋は確かな原因に基づいたのだと推察されます。配属された当初から、いえ、それ以前からのつのった恨みの限界を超えさせた一言が女子学生から発せられたのかもしれませんし、それだけは許せない、そんな一言があったのかもしれません。ただ、殺人という行為は事後、彼自身、許せなかったことは確かです。それがまた、このごろの、結果としてではあれ、死に至った事例でもまだ生きている加害少年や少女たちの現実に現れています。

誰しも(私も)、一度ならず、そういったやむにやまれぬ思いにとらわれたことがあると思うのです。それが、TPOの揃った状況でそれ以外、考えられなくなってしまう、そんな現実を夢ではなく、見えたことはないでしょうか。ましてや、恨みは時が経てば経つほど、つのるものです。深く、刻み込まれるものです。今回の事件は、そういった意味から、結果的に、必然性があったのかもしれない、と感じたわけです。

朝はさみし、けさの子猫2006年09月08日 20時50分09秒

悲しげな子猫
今朝はまだ曇り空でした。軒先にぽつりとすわる子猫は、うつろな、物憂げな眼をしていて、どこかさみしげでした。もう、夏も終わり、これからは次第に寒くなっていきます。行ってしまった時間をもう追いやることもないからでしょう。

この家には野良猫の家族が住み着いています。その一匹ですが、まだ親とは離れていません。それでももう、べったりの関係ではなくなってきています。親が追いやるのもそう遠くはないでしょう。時間を過ごすだけ、希薄にされるときが近づいているのです。

今のヒトの家族はしかし、彼らのような「良い」関係と習性はなくなっています。親自体、その育ちに問題を抱えているのです。その子供たちもまた、好ましく社会を形成してはいません。本来の血の通った、信頼関係を築けなくなっています。とりわけ、この日本社会はそういった方向に向かっているような気がしてなりません。

異様な暑さ、なぜ2006年09月09日 21時02分36秒

きのうの午後からまた暑くなってきましたが、今日はさらに異常に気温が上がりました。午後3時でもなお、34℃ほど。せっかく涼しくなりかけて、秋も歩き始めたか、と喜んでいたのに、どうしてこうも、暑さがのさばるのでしょう。

強い南風がむっとくる熱風で吹き込んできます。どこか、変です。ますます、亜熱帯化しつつあるようにいつまでもこのような暑さが続くのはどう控えめに考えても異様な環境です。「例年」と比べて、ではなく、本来考え得る気候を標準として、です。人の心もむしばまれます。

MPUは比較的発熱の少ないデュアルコアのものを使っていますが、それとて、熱源となりますから、控えめに、とは思うのですが、一度起動してしまうと始終使う折からあまりCool&Quietも効きません。関係ないですが、BSD系列のOSでSMPのカーネルを使うとパニックとなり先に進みません。RedHat/FedoreCore系列も同様です。実装に問題あり、でしょうか。

また極端な天候変化2006年09月10日 20時47分44秒

昨日の夜から今朝まで、気温は27℃かそれより高いくらいでした。寝苦しいせいで起きたら眠れず、朝まで結局。それでまた、昼間がなお眠くなるようなだるいような、ちょうど気温そのままでした。あさは7時16分にそれまでの南よりの風から北寄りに反転、9時過ぎから雨が降り出しました。

極端なのはその気温の変化です。急激に下がりだし、1時間もしないうちにきのうの34℃から23℃、とその上に北から吹き付けるような雨となったわけです。前線の通過に伴う違いだと言うにはきのうは暑すぎ、今日はうっとうしすぎたのです。

その後の雨の降り方がまた、著しく、やたら降るのです。すぐに家のそばの溝川のかさが高くなりました。つまり、緩衝を待っているまもなく、落ちる雨の量が尋常ではなかった、ということです。さすがに、1時間100mmを超えるような雨ではありませんでしたが、夕方までゆるむことなく降り続いたのはこの時期の雨として、ふつうではなかったはずです。