相対するに要するのは2010年10月18日 21時20分37秒

コホオアカ
午前中で仕事は引けて、午後海岸近くを歩いて、写真のコホオアカを見つけました。木の枝で少々見づらいのですが、最近入手したキャノンの新デジカメでばっちりです。日本海側には時折現れるとのこと、その一例と出くわしたわけです。まれですが、こういった時期に会えたのは幸運でした。これもまた、自然に対して、無心・虚心であったかもしれない恵みでしょうか。

正常な、人間の情緒や心情、感覚などを理解する人たちであればまさに、自然と同じように接すれば自ずと親しく、あるいはその場限りであっても心ある交流が図れるものです。でもひとたびその間や一方に偏見や身勝手な思い込みあるいは悪意といっていい理解してはならない態度や言動が見られるときはもうそこには深い溝や高い垣根、あるいは断絶が生じます。取り除くのはまず不可能です。でも私たちはその低い、しかし正常な感覚をもった側から示すことはできるのです。そしてそれをはっきりと表現し、強くときには主張しないと対峙できないこともしばしば起こりうるのです。

同様のことはやっかいな隣人、中国にもまたいえることです。体制や歴史や社会環境が異なるのだから、ですますこともまたできず、かといって彼らの側のあり得ない主張をまともに聞くことなどもまたできません。おとなしすぎる私たちは、決して過去の過ちや行為に恐れおののくのではなく、もちろん、歴史には向き合いながらも、かの国の誤りと粗暴さや暴力行為、一方的な根拠のない恫喝以上の威迫に対しはっきりと、大声で言っておかねばならないこともまた、あるのです。たしかに、13億人を超える人民、隅から隅まで同じではあり得ませんし、代表的な言動や態度を伝えられているかと言えばそうでもまたないともいえるでしょう。でも、その中心的な主張や意見の集約されたある形態を知ることは日々なされていると信じます。そこに立脚すれば、私たちは、始めに述べたように、自然体で立ち、本来有るべき強い姿勢で臨むことは第一義的に重要です。決して、怯んではなりません。